第二十二話・それはちょっと昔のお話です
カガミが、エリックに声をかけられてから30分ほど経過しただろうか。
エリックが起きてきたのは午前9時ぐらいだった。朝食とも昼食とも言えない時間帯だ。確かに、義母である万里こと境花の目撃談から考えても少しばかり遅いだろう。
一旦は風呂場での事故を想定したが、もぬけのからだったし、出て行った形跡も見つかっている。漣 渚が朝風呂から部屋に戻らず、エリックが彼女の行き先を尋ねた後に泉家の三人で旅館内を探し回ったのだが、やはり屋内にいる様子は見られなかった。30分ほどでスタッフ限定の部屋を除いて探索した結果であるため、見落しがあるかもしれないのは仕方がないだろう。
ついでと言ってはなんだが、もう一組の客である竜等 薫も姿が見えない、と連れのお二方が尋ねてきたのもだいたい同時刻ぐらいだった。
渚と薫、二人が同時にいなくなったという事実に、別段誰が何を思うこともなかった。そう、断じてカガミもそれを気にするようなことはなかった。なかったはず。
それよりも重要なのは、両名が屋外へ出て行って戻っていなかった場合のことだ。
既に外は吹雪き始めており、並の魔物でも容易に出歩けるような天候ではないことを注釈しておこう。地の利がないのであれば、魔物も人間も関わりなく方向と距離を見失って、1キロメートル先の旅館にもたどり着けなくなることさえある天候だ。もし人間がそうなった場合、登山用の装備をしていても対処を間違えれば命を落としかねない。
『……』
最悪の状況を想像したエリック、光輝、カガミの三者が、蒼い顔をして吹雪く外界を眺めている。
彼らの思うことは別々のことである。
エリックは、もし渚に何かあれば白が赤に染まることを覚悟しなければならない。こんな状況になるのなら、ルーデやエッタに連絡を入れなければ良かった、と思っているのだろう。
光輝は、客二名――正しくは数名――が、遭難した末に凍りついて発見されるという事態を恐れているようだ。もはや、それでは日本政府の攻勢がどうのと言っている場合ではない。
カガミに至っては、友人の安否を気遣っているとしておこう。
「僕が探してきます……」
いてもたってもいられなくなったカガミが、渚達を探してくることに立候補する。
「カガミよ、それは危険だ。ワシが行くべきじゃ」
「お父さんは仕事がありますし、お客様への説明や対応もしなければならないでしょう?」
「し、しかし、いくらワシの血をひいているからと言っても危機的だった場合に対処のしようがなかろう」
「この周辺は僕らにとっては庭のようなものですから地の利はあります。それに、これまでも遭難しかけた人達の介抱は何度もしてきています」
「カガミがこうも食い下がるとはのぉ……。何が、お前をそうさせるんじゃ?」
「申し訳ありません、お父さん。なぜと言われてもわかりません……。しかし、もしかしたらお父さんがお母さんと出会った時と、同じなのかもしれないですね……」
やんややんやと光輝、カガミが言い合う。
それを見ていたエリックにしてみれば、どっちが行ってもかまわないから早く解決してくれ、というのが本音であろう。もし二人が、外へ出て行こうとしたエリックを止めていなければ、苛立った様子ではいないはずだ。
古くから麓へと降りて来ていた光輝は、目をつぶっていても歩き回れると豪語するほど。それに並ぶぐらいに、カガミも旅館の周辺を知り尽している。加えて、雪国に住まう魔物としての寒冷耐性も二人には備わっている。
二人で探しに出られたのなら良いのが、やはり責任者である光輝が残らなければ拙いとカガミは考えた。
ただ、心のどこかにカガミが行かなければ、行きたいという想いがあるのは確かなのだと思う。
「……そうか。分かった、お前に任せようぞ」
「ありがとうございます。必ず、皆さんを見つけて無事に連れ帰ります」
カガミは決意の表情で光輝に応え、早速救助の準備を始める。
防水性に優れたリュックサックに数枚の毛布、熱々の飲み物、ランプ、念を入れて火を起こすための道具、を詰め込んだ。
服装はシャツにダウンジャケット、スキーグローブにネックウォーマー、ゴーグルという感じである。寒さに強いといっても、混血であるカガミは吹雪の中でも凍え死なない程度が限界だ。寒さは人並みに感じるし、下手な格好で出歩けば軽度の凍傷にかかることもある。加えて言うなら、雪が目に入れば開けているのも困難になる。
「それでは、行ってきます」
装備を整えたカガミは、光輝と境花に一礼して旅館を出て行く。
「無事で戻るんじゃぞぉ!」
「境花さん、貴女の息子はあんなに立派になりましたよ」
「……」
まるで戦地にでも赴く我が子を送り出すような、光輝の涙を溜めた顔。子を産みおとして逝った実母のことを思い出し、ハンカチで目頭を押さえる雪女の境花。その二人を冷めた目で見つめるエリック。
そんな彼らを背に、カガミは苦笑を禁じ得なかった。
「でも、これは僕の最初の戦いかもしれない。渚、無事でいて……」
ついでに、薫と他の数名も。
カガミはリュックサックをしっかりと背負い直し、吹雪く雪原へと歩き出す。心境こそ、確かに戦場へと進む兵士と同じかもしれない。下手をすれば、行く先に人の死が待ち受けているかもしれないのだから。
探すあてはあまり多くはなかった。
もし外に出ている途中で吹雪いてきたのならば、避難する場所は大体限られている。それに、この辺りで旅館の客が出歩くのはそこぐらいしかなかった。
春や夏のころであれば、花々の咲き乱れる高原の景色を眺望するために草原の方へ繰り出していく。反面、こんな何も見えない雪景色のころであれば、針葉樹林の先にある洋館へと足を運ぶ。
もともと、あの辺りには木を伐採する樵の機材置き場として、山小屋めいたものが立てられていたはずだ。この周辺だって、その頃は旅館も経っていないまっさらな土地だったという。カガミが五つになるころには、もうそんな景色もなくなってしまっていたようだが。
光輝の懐かしむ話の中でしか知らない光景を、カガミは頭の中で思い描く。
『ネェ、ドコヘイクノ?』
『アッチヘイクノ?』
『ソレトモコッチヘイクノ?』
不意に、吹雪と戯れる雪妖精達がカガミに話しかけてくる。
「人を探しに。見なかったかな?」
問いかけてみる。
『ドッチヘイクノ?』
『コッチヘイクノ?』
『ヤッパリソチラニイクノ?』
分かっていたことだが、彼ら小さな氷精とはまともな会話ができない。自然の声とでもいうような、ただ残留した想いを雪妖精が人の言葉で繰り返し発しているだけだ。
意思疎通は無理だと、カガミは諦めて先へと進む。
樹林の先にある洋館へたどり着くまで、後10分ほどだろうか。カガミは、ただ無心に足を動かし続けた。
§
少し、昔の話をしよう。
これは、古くからこの地にいる小さな者達が語る、ほんのわずかな出来事の一片にしか過ぎない。
そこは人間界の日本という島国のさらに一部、越後の国というところだ。今より15年ほど前、ここらの山に住まう一匹の雪男が気まぐれに麓まで降りてきた日のこと。
彼の者の名はクラークと言い、今では光輝と名乗っている。別に何が特別ということもない、普通の精人種雪男のクラークという魔物である。
昔はUMAだのと騒がれていたし、人間界の各国にも多くの愛好家達がいた。幻獣種ツチノコとともに、一世を風靡したこともあった。
今では、こうしてわざと姿を見せなければ忘れ去られてしまうくらいになっている。
樵が使っている森の中の小屋へ赴き、彼らを少し脅かしてやるのが光輝の日課みたいなもののようだ。姿をしっかりと見せれば大きな問題として取り上げられるのかもしれないが、それはあまりよろしいことではない。
当時から、日本政府に限らず世界中で魔物を狩る動きはあった。そのため、あまり公に姿を晒してしまうと政府に動かれてしまう。
そうやって、冬眠から目覚めてしまったおっちょこちょいのクマか、雪男か、と街中で騒がれるぐらいで良い。
今よりもまだ長かった体毛を吹雪になびかせて、光輝は目的の山小屋へ到着する。小さな窓からこっそりと覗きこみ、中の様子を確認した。
曇ったガラスの向こうに、囲炉裏で炭が赤く発光しているのが見える。僅かに身じろぎする、古びた毛布の塊も把握できた。
光輝に気づいていないようなので、少しばかり入口を開けてみる。吹雪が小屋の中に吹き込み、囲炉裏の灰が舞い上がってしまう。しかし、ここまでしても今日の樵は剛情に光輝の方を見ようとしなかった。
「……むぅ?」
小さく唸るように息を吐き、光輝は白い体毛に隠れた顔に思案の表情を浮かべた。
しばしの間を置いて、樵に動きがないため光輝も扉を潜って観察する。身じろぎしている様子から、単に熟睡しているだけだと思ったのか扉を閉めた。
仕方なく、光輝は2メートルほどの巨体を進める。忍び足で音を可能な限り殺し、隣の物置に続く扉の向こうに隠れた。傷だらけの曇ガラスが張られた障子には光輝のシルエットが映るだけで、彼から見ても樵の丸まった毛布が雪ウサギに見える。
少々乱暴だが、巨体を見られて騒がれても、外へ続く側の扉から抜け出せば良いとでも思ったのだろう。
けれど、その想定は軽く覆されることになった。
「……ん」
吹雪にかき消されそうなほどの小さな声で、樵が呻きを上げたのが聞こえる。光輝もジッと身構えて、少し焦れた前のめりになって樵の動きを観察する。
樵が体を伸ばしてから両肘で上体を起こし、毛布に掛かった灰を足蹴に払い落す動きを影絵で見つめる光輝。
足を小刻みに貧乏揺すりしながら、今か今かと樵がこちらを向くのを待つ。
「あっ……」
数度、長い髪が振りまわされた後、樵が声変わりしていない少年のような声を出してくる。かなり若い樵に見える。もしくは、登山途中に立ち寄った観光客だったのだろうか。
光輝も少しばかり機敏さを失って、それでも立ち上がると外へと向かって歩き出す。
「すみません、勝手に使ってしまって。そちらでは寒いでしょう? こちらにいらしませんか?」
「ぬぁ? お主、樵ではないのか?」
樵だと思っていた人物のセリフに、光輝が素っ頓狂な声で問い返す。
「えぇ、ちょっと旅行にきたところ迷ってしまって、少しお借りしてしまいました」
「なんだ、観光客だったか……。いや、それにしても荷が少ない」
光輝とて阿呆ではない。
樵、改め観光客が口にする言い分に対して、囲炉裏の部屋には荷物らしきものが全く見当たらなかった。だから、光輝は推定観光客を樵だと勘違いしたのである。
「……その、いろいろと事情がありまして。それと、やはりこちらに来ませんか? 戸を隔てては、話もしづらいでしょう」
「……」
推定観光客が招いてくるも、光輝は口を閉ざして顎を撫でた。
数度の言葉を交わした以上は、推定観光客も光輝に気づいていて然るべきだろう。それでも、曇ガラスに見える巨体を見ても平然としているのだから、不思議に思っているといったところか。
「えっと、マタギのおじさん……?」
光輝からの返事がないことに、推定観光客も言葉に戸惑いを混ぜてくる。
そして、その言葉で光輝も自分の体を軽く眺めまわした。
「あぁ、いや、確かにそうか……」
狩猟で生計を立てる者ならば、確かに動物の毛皮を纏っていてもおかしくない。
「そうでしょう? いくら毛皮のお洋服が温かくても、そんなところにジッとしていたのでは風邪をひいてしまいますよ」
推定観光客は、光輝の漏らした呟きを肯定と受け取ったらしい。
光輝はいつでも飛び出していけるように体勢を整え、障子に手を掛ける。推定観光客の叫び声を合図に、この鉈やら斧やらロープが詰まった物置から吹雪の中へ走りだしていける姿勢だ。
「すまんの。ワシは、マタギじゃないんだよ」
「? そうでしたか。すみません」
光輝が作った溜めに対して、推定観光客の返事は淡々としたものだった。気を緩ませているのがよく分かる、抑揚のない平らな口調。
光輝はスッと小さく障子を開き、自身の毛深い猿顔を推定観光客に見せつける。
「えっ……?」
推定観光客の、起き抜けなど目ではない紫色の口が丸く開かれ、糸目とでも言いたくなる一重目蓋の細い目も縦に伸びてパチクリと何度か瞬きする。驚きを隠そうと口元を、甲にアカギレが見える小さな手で押さえたのが、最低限の抵抗だったのかもしれない。
先ほど振りみだされた長いストレートヘアーは雪で僅かに濡れそぼった跡があり、埃や灰にまみれたのと合わせて酷く痛んでいるようだった。それに、蒼白な顔は何日も食べていない生物と同じく頬にくぼみを作っている。
光輝と推定観光客は、その状態で見つめ合ったまま動きを止める。数秒か数十秒か、それとも数分だろうか。二人を包むのは吹雪がボロ小屋を叩く音だけになった。
「幽鬼のようじゃな……」
推定観光客を表現すると、漸く口を開いた光輝が表現した通りか、まだ少しマシと言ったところだった。
何がおかしかったのか、推定観光客は口と目を細めて微かな笑みを浮かべる。微笑とは呼べない、自嘲を含んだ嘲笑だった。
「酷い顔、でしょう……? やっぱり、傷心旅行なんて建前での観光客は無理がありましたね」
自身の嘘に対する嘲りを漏らす。
「怖がらないのだな、ワシを見ても。たぶん、ワシなんぞより恐ろしいものから逃げているからかのぉ」
さらに推定観光客から改め、訳ありの旅人の様子を訝しげに眺める光輝。
樵だと思っていた人物は、どうやら女性だったらしい。
女性一人が吹雪の雪原で何をやっているのか、とは誰もが思う疑問のはずだ。光輝も、それを考えるために女性から目を離さずに、腕組をしている。
「えぇ……まぁ、こう言っては失礼ですが、喋るゴリラか凄く猿顔のお爺さんと言った感じですので。えっと、どちらさんでしょう? 私は、境花と申します」
こうして、自己紹介までし始めるほど境花と名乗った女性は光輝のことを恐れてはいない。
「名乗ってもしかたあるまい。どうせここ限りの出会いじゃ。それに、お前さんもワシのことなど忘れてどこかへ行くのだろ?」
「いけずですね。でも、その通りです。二度と会うことはないでしょうし、もう西にも南にも行けないので、もっと北か東へ」
「そうか。それでは、達者でな……」
数言を交わし、光輝は名乗りもせずに歯切れの悪い別れの言葉を残す。長い経験の中で、人間の機微はわからずとも心持つ者達の在り方はわかっているのだろう。旅の女性が、これからどこへ行こうとしているかも。
しかし、光輝が立ち去るのを止めるものがあった。
「……なんだ?」
光輝の白い体毛を一房握りしめ、境花が上目遣いに彼を見つめている。構図だけ見れば、別れ際の男女のようでもある。女を捨てて去ろうとする光輝、それを引きとめようとする境花。
「あ、いえ……ここへ来て、少し頭が休まって、貴方と話して、そうしているうちに一人が怖くなって……。ちょっと前まで、誰かと会うと私を蔑んでいるかのように見えたのに……」
光輝は境花を見下ろしつつ、ふんむ、と鼻を鳴らす。
「吹雪が止むまでじゃぞ。誰かに、お前……境花の抱えているものを話したことはあるのか?」
「いえ……誰にも話せるようなことではなかったので。けれど、貴方は違うと思うんです」
光輝は再び床に腰を下ろし、境花の言葉を聞いてやることにした。本当なら、この吹雪が収まるまでのつもりだったようだが。
「私は、大切な友を裏切りました。傷つけ、彼女が絶望の淵にいるのに手を伸ばさず、五年間も放ったらかしにしました。そして、五年近くもして漸く、自分のしでかした罪に気付いたんです……」
境花が、訥々と話し始める。罪の告白を、教会で懺悔するかのように。
「彼女は今も苦しんでいるのに、私は自分の罪に気づくことなく何年も平然と生きてきたんです。それなのに、それを謝ることも贖罪に及ぶこともできず、ただこうして逃げ出したんですよ……」
再び浮かべる嘲笑。
光輝は、ただ黙って境花の言葉を聞く。
「ここへ来る途中に出会った、タクシーの運転手をしていた女性もそんなこと露知らずとも、手を伸ばそうと話しかけてくださいました。貴方も、こうして咎人の言葉に疑いも持たず耳を傾けてくださいます。
ここの人は、この極寒の中で生きているのに心はとても温かいのですね。だから、私も凍りついていた気持ちを話すことができる。すみません……何が言いたいのか、どうしたいのか……。分からなくて、ヒクッ……」
心を覆っていた氷が溶け、目から水が流れ出す。春の山が雪解けの水を麓に落すのと同じように、留めなく。
この小さな小屋の中に響くのは、吹雪と炭の焼けるお囃子。そして、罪を犯した女の悲しい歌声だけだった。
吹雪が止む頃、光輝は泣き疲れて寝てしまった境花を身に寄せていた。境花も、決して寝心地などよろしくないであろうゴワゴワとした体毛に包まれて、小さな寝息を立てていた。
これからも、境花は心の沈んだときに、己の罪を何度となく、同じ言葉を吐き出すことになる。許されることのない告白を、その心が燃え尽きるまで。けれど、誰もどんな罪なのかはしらない。
後に、光輝がなぜ境花と共に針の道を歩もうとしたのか。光輝は幼い息子にこう語る。
『良くわからんが、守ってやらねばと思ったからかの』
唐突に差し挟まれる昔話。
雪妖精達が語り部となった完全三人称として差し挟んでみました。
光輝+境花=カガミ というパーウェクト算数教室ですね。
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