第一話・魔物諜報会社アドリアーナ・ルクヴルール
その日、渚は学業を終えた後、直ぐに件の住所へと向かっていた。
今は電車の中で、逸る気持ちを抑えながら携帯電話の画面に目を落とす。流れてくる車内のアナウンスに耳を傾けることを忘れず。
『~~市駅ー。次はー、~~市駅でございます』
渚が行動を起こしたのは、魔物の諜報員、ライカンスロープ種ワーキャットのゲルトルーデと出会った翌日のことである。
自宅と、通う高等専門学校の間に位置する。彼女の住む町よりは都会化された空間に、まさか魔物などという存在が潜んでいるとは思いもよらなかった。
いや、諜報員なのだから気付かれないのが当たり前である。
さすがのルーデも、件の不思議な力――確か『人払いの結界』――もなしに、大立ち回りするほど抜けてはいないだろう。
『お忘れ物の無いようご注意ください』
考える間に赤と白を基調とした電車は、コンクリートと鉄骨で作られた無骨な駅に到着する。
ルーデがハンカチに書いてくれた住所はメモに写し取り、ハンカチは洗ってしまった。メモの方も、場所がわかれば廃棄するつもりだ。ルーデ達からしても、自分たちの隠れ家の場所を記したメモなど残して欲しくはないだろう。
そう思っての配慮である。
渚の家の最寄り駅からも、学校側からも、現在の駅は3~4駅離れている。どちらからも、所要時間は大凡15分。
駅のホームに降り立ち、改札を潜った先のタクシーが出入りするロータリーを抜ける。
横断歩道前にある鳥居を潜ってから徒歩10分くらい進んだ。
慣れぬ人混みと交通量に翻弄されつつも、目立たないよう歩いた。
住所を携帯電話のナビゲーションアプリに入力して、その音声案内を頼りに雑居ビルの立ち並ぶ脇道へと入る。
人や車の流れが疎らになったことに安堵した。
しかし、ナビゲーションアプリというのはプログラムの性能によって様々だが、大抵は大雑把な位置しか表示してはくれない。
細い道を挟んでいたり、大きな建物の側にある小さな建物だったりすると、最後の一歩で行き詰ってしまう。雑居ビルのテナントの一つともなれば、周囲のビルを訪ねて回らなければならなくなる。
「えーと、アドリアナ・レコ……なんて読むんだろ? せめて、看板とかあったら良いのに……」
ナビが指し示した周辺をひとしきり歩き回ってみるも、住所に記載された建物らしきビルを発見することはできなかった。
「無理な話だよね、スパイなわけだし……。たぶん、この辺りのどれかなんだろうけど」
ビルの名前が判明している建物を除外して、手当たり次第に訪ねて回らなければならないのだろうか。
見知らぬ建物を訪れて、他人にしてみれば荒唐無稽な集団の仕事場を尋ねる。想像するとかなり面倒な状況にため息が漏れてしまう。
とりあえず候補に挙がったのは、コンクリートで打ちっぱなしの無人にも思えるビル。
その隣に建つ煉瓦のような壁を携えた小奇麗なビル。
もう一つ、コンクリートに黄緑色の塗装を施したビルである。
この三件を回って見つからなければ、また区画をずらして探すしかない。
「さて、どれから行こうか……ぁ?」
吟味し始めたところで、路地裏の扉から一人の男性が出てくるのが見えた。
黄緑色の塗装を施した壁に不釣合いな茶色のプラスチック製ドア。それが今にも壊れそうに揺れながら閉まって行くのが見える。
最後まで閉まりきらなかった。
男性は二十歳後半くらい、黒髪のオールバックに黒目の瞳、中肉中背。街ですれ違っても気に留めないであろう凡庸な顔立ちにプラス少し格好いいかぐらいだ。
アメリカントラッドのシングルスーツを着崩し、首元はノーネクタイというインフォーマルな格好をしている。
どちらかと言えばラフとも言える社会人としては逸脱した格好であるため気後れするも、わざわざビルに入って探し回るよりは良いと決意を固める。
「すみません、ちょっとお尋ねしても良いですか?」
「あぁ?」
やや濁点の付きそうな苛立ち気味の返事に、渚は全身が跳ね上がるような感覚を覚えつつ身構える。
数秒はあったように感じる間を置いて、おずおずと口を開く。これ以上、待たせればさらに不機嫌さが増すと思ったからだ。
「こ、この名前の会社があるのは、こちら……えッ、痛!?」
携帯電話を男性の前に差し出したところで、手首を掴まれて捻りあげられる。
そこから先の一連の動作は流麗で瞬間的だった。
携帯電話が地面を転がり画面がブラックアウトしたのが見えた。その後、片腕を後ろ手にされ、羽交い絞めという関節技を決められていた。
合気道の要領で体勢を崩した後に素早く身体を反転させ、背後へと滑りこむようにして見事に関節と締め技を掛ける技。
その手際は荒事に慣れた者の動きだと、素人の渚にも分かる。
「く、くるし……痛……っ!」
いくら悶えようとも男は腕の力を緩めてくれない。完全に嵌った技を渚の細腕では解くこともできない。
プロの合気道家や柔道家、はたまた蛇の名を冠する伝説の傭兵も顔負けの関節技だ。
「どこの組織の奴だ? 日本政府か? 大人しく喋った方が身のためだぜ!」
怒気を孕んだ声で男が渚を詰問する。
「ちが……ッ」
「何が違う? ここを嗅ぎ回るような奴が、普通のお客さんなわけねぇんだよ! 良く見りゃ、若い女かよ。日本政府の奴らも自棄を起こし始めたのかねぇ?」
男は、渚が敵側の刺客だと信じて疑わず、聞く耳を持とうとはしない。それどころか、首を絞め上げる腕に絶妙な加減で力が入れられていく辺りは、尋問ではなくもはや拷問の域だろう。
「私、は……ルーデさんに……」
気管ではなく頸動脈を圧迫されていることにより、脳に酸素が供給されない。酸欠状態に陥ったことで意識が遠退き始めた。
最後まで言葉を紡ぐことができなかった。
「~~ッ!?」
男が何を拷問しているのかも聞こえなくなった頃、側のプラスチック扉が拉げただろう音。
人影が飛び出してくる。
そして、鋭い低空ドロップキックが男を吹き飛ばした。
「こぉのッ、馬鹿エリックゥゥゥゥッ――!」
呼吸が戻り、頭に酸素が巡り始めた渚の耳朶を劈いたのはそんな怒声。それと、雑居ビルの間に木霊する聞き覚えのある残響だった。
「チッ!」
エリックと呼ばれた男は、ルーデの繰り出した低空ドロップキックの威力を殺すため、渚を解放して横手に飛び退く。体を丸めるように空中へ体を浮かし、単身で向かい側の煉瓦の壁にぶつかって尻餅をつく。
「か、カハッ! ゴホッ! はぁ、はぁ……。る、ルーデさん?」
渚が漸く声を漏らす。昨日の格好とは打って変わって、地味な鼠色のスウェットの袖を捲り上げて、毛のない白い腕を晒したルーデが振り向く。
「大丈夫か、ナギサ!? エリック! 可愛い新人候補になんてことしてくれやがる! これで、怖がって『来たくありません』なんてことになってみろ。頭を地面に押し付けたまま街中を引き回してやる!」
渚のことを思ってのことなのだろうが、人一人が紅葉オロシになるのを想像して気分が悪くなる。
ロボットを半壊まで至らしめるほどのドロップキックを受けてなお、エリックは苦痛に顔を歪める程度でルーデに食って掛かる。
「はぁッ!? コイツが昨日言ってた新人候補だぁッ? てめぇ、どう見ても人間じゃねぇか!」
「そうだよ、人間だ! 問題あるかッ?」
「大有りだよ! てめぇらの立場分かって言ってやがんのかッ?」
「分かって言ってんだよ! とぼけるのは馬鹿面だけにしやがれ!」
「てめぇこそとぼけんのは顔だけにしろ! キャンキャンやかましいんだよ、このメス猫!」
言い合いは益々ヒートアップしていき、最終的にはただの罵詈雑言の応酬へと変わっていく。
流石に、疎らな人通りもこちらに視線を向け始めたため、渚も見かねて仲裁に入る。
「あ、あの……お二人とも、こんなところじゃなんですし中に入りませんか? ルーデさんも、私は大丈夫ですから……」
「くッ……。渚が許すっていうのなら、今日のところは勘弁いておいてやる!」
「誰に向かって言ってやがる! こんなところじゃなけりゃ、血反吐が出るまで殴り倒してやるところだよ!」
取っ組み合いの喧嘩になりかけたところで二人は止まる。
ルーデも地味なスウェットを軽く直し、渚をビルの中へと促す。
渚は落としたスマートフォンを拾い、壊れていないか確かめつつビルへと足を踏み入れる。
余談だが、プラスチック扉もルーデの蹴りがトドメとなったらしい。その時を最後に壁から生き別れることとなった。後に、扉は新しくしたようである。
「あ……液晶が……」
トップ画面が表示されたときの音声こそ聞こえるのに、画面がブラックアウトしたままだ。
「コートに続いて、携帯電話まで……。ナギサ、ごめん! 本当にごめん! おい、エリックぅ!」
「そんな恨めしそうに見るな……。弁償すりゃ良いんだろ? 幾らだ?」
「い、いえ……保証が利くかもしれませんから、また後日でも構いません……そ、その札束が詰まった分厚い財布は仕舞って置いてくださいッ……」
諜報員というのはそんなにも儲けられるものなのか。人生のうちで未だに見たことにない諭吉さんの人数に、渚も気遅れして一時は断ってしまう。
「まぁ、後で領収書でもくれや」
「はい……」
それだけを交わし、渚が階段を上る。
エリックも渋々といった様子で後に続き、階段を二つ上ったところにある扉の前で立ち止まる。
廊下の裸電球が全て不規則なリズムで明滅し、唯一の採光窓もビルとビルの間にある日陰を見降ろせるだけで、陰湿な薄闇に包まれていた。毎日は掃除していないであろう廊下はところどころに食べ物のパッケージが転がり、角には埃の小玉が逃げ込んでいた。
オフィスの入口である扉はやや重厚な金属製。
「コク……」
そう、喉を鳴らすのが聞こえそうなくらいには静かだ。
ルーデがドアノブを回して開けば、表通りに面した窓から差し込む光が廊下へ漏れだして、渚を中へ引き入れんとばかりに戻っていく。
こんな感覚を味わったことが今までにあっただろうか。
今の学校への入学が決まった時も、数々の人生の節目にさえ、渚はそれを惰性のように受け入れていた。感慨も感傷もなく、希望を抱くことが無駄だとわかっていたのだから。
「……」
また固唾を飲み込み、オフィスの中を見渡す。
おかしな方向へ向いているわけではないが、無作為に置かれた種類もタイプも違う机は、各々の城と言わんばかりに好き勝手なものが乗せられている。
表通りに面した窓の下一角を占領するソファーとテーブルは、漫画にノートパソコン、お菓子の袋とお酒各種が散らかっている。ウェットスーツらしき衣装が脱ぎ捨てられていることから、直ぐに誰の城か察しがつく。
「ははッ……あまり見んといて……。昨日の今日で来るとは思わへんだから、片付けてないんや」
「あ、いえ、気にしませんから……」
渚の僅かな視線の移動に気づき、恥ずかしさのあまりおかしな関西弁で弁解するルーデ。
次に、エリックが部屋の中央近くにある小ざっぱりとしたシンプルな作業机へと向かい、出ていた書類を纏めて引き出しに仕舞う。あまり人間の渚には見られたくない書類と言った様子だ。
「いつに来ても、どうせ片付けてなかっただろうが」
エリックの城の向かい側に、少し距離を取ってラップトップパソコンおよび様々な電子機器を並べた勉強机が二つ。人の姿は見当たらない。
窓から離れた出口側にも、場違い感も見受けられるアンティークで立派な机がある。こちらにも人は座っておらず、書類などよりもアンティークなティーセットが目を惹く。
アンティーク机の隣は、木箱に囲まれたレジャー用の簡易椅子が一つ。整理されているものの、職人の作業場の如く様々な工具が置かれている。それらの工具は一般的なものから、ガンアクション系の映画で見るような代物であるため、ちょっと恐ろしささえ感じた。
(本物……だよね……?)
さらにルーデの縄張りに向かって右、扉の前に動線を無視するかの如くスチール製の用具箱が鎮座している。
「おーい、昨日言ってた新人が来たぜー。ナギサちゃんって言うんだ。よろしくしてやってくれよぉ」
渚とルーデ、エリックの三人しか見えないオフィスに声をかけるも、やはり返事はない。
まるで誰かがいるかのような振る舞いだが、魔物の隠れ家なのだから透明人間とかそう言うのがいてもおかしくないのかもしれない。天井裏とか、怪しい用具箱の中とか、渚を驚かせるために隠れている可能性だってある。
「しかしよ、新人なんて連れ込んでどうするつもりだ? いや、仕事の割当とかじゃなくて、姐さんがこの時間に出てくると思うか?」
「あッ……」
エリックの問いに、ルーデが呆けた顔をする。
いくらかストックはありますが、2~3日ごと。遅くとも一週間に一回は投稿したいです。
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次回から数話、仲間達の紹介が続きます。