第二十話・思惑はすれ違い動き出す2
朝、まだ七時になるか否かという時刻に、男は目覚めて動き出す。
名を竜等 薫という。
腹心の部下である二人と、雑魚寝状態の下請け社員達がまだ寝入っている間に、やるべきことがあったからである。普段であれば、忙しさにかまけてロクにすることのできない行為。一人でそれをするには、流石に時間と生活費を無駄遣いしてしまうようなことだ。生活費に困っているわけではないので、問題は時間だろう。
こうして古風な旅館に来ている時だからこそ、やらねばならない行為である。
昨日の内に、この旅館ではソレができるということは確かめていた。だから、昨晩は目覚めが悪くならない程度にお酒は飲んでいた。普段からでも、仕事のことを気にして大量の飲酒などできないのだが。
この旅館は、無駄だとか、不要だとかということを考えることなく無意味にそれを垂れ流し続ける。故に、そこに人独りが割りこんだところで何が変わるわけでもない。
人によっては、その行為に必要性や理解を示せない者達もいることだろう。
ならば、なぜそうせねばならないのかということを語っておこう。
人は、夏場であれば寝ている間にコップ一杯の汗をかくという。冬場でも、意外なことに半分くらいの水分を新陳代謝として排出する。だいたい200~350ミリリットルぐらいは体内から抜け出て行く。
そうなれば、目覚めてから直ぐにそうした方が身綺麗にできるというものだ。血行などにも良く、目覚めがスッキリするという特典もある。
要するに、朝風呂だ。
朝にシャワーを浴びるのでも構わないかもしれないが、それと朝風呂は似て非なるものである。理解されずとも良い。所詮は、ただの嗜好なのだから。
「よし!」
小声で気合いを入れ、風呂に入る準備を整え終わる。
そして、意気揚々とお風呂場に向かう薫。
既に風呂場の準備は終わっており、旅館の主の息子であるカガミとすれ違う。
「ごゆっくりどうぞ」
そう軽い会釈をして邪魔にならぬよう出て行く。まだ若いというのに、手慣れたところのある良く出来た少年だ。幼いころから両親の仕事ぶりを見ながら育ってきたのだろう。
薫は感心しながら、風呂場の状態が良好であることを確かめる。
そして、まだ誰も来ていないことも。
服を脱ぎ、日に焼けた均整の取れている肉付の良いボディーを露にした。客室に常備してある浴衣をカゴに置き、いざタオル一枚を握りしめて曇ガラスの戸をくぐり抜ける。
僅かに湿り気を帯びた天然石が朝の冷気を帯びて、足裏から伝わってくるのが気持良い。肌にまとわりつく湯気は、冬場の乾燥でささくれ立った皮膚をうるおしてくれる。
いくつもの風呂があるため目移りしてしまうが、薫はその誘惑を振り切って一つに突き進む。
露天風呂へ。
「進め、いざゆかん!」
まだ山の麓に近い所とは言え、少なからずは山地特有の寒気が流れこむ位置だ。朝の冷気が一瞬、薫の足をとどめようとする。室内風呂で良いのではないだろうか。
しかし、ここで露天風呂に入るからこそ、価値があるのだと思う。
(男には、退いちゃいけない時があるものだ!)
決意を固めて、薫は突き進む。
震える足を早めに動かす。桶を取ろうと手を動かせば、風が肌に当たって寒さが増す。急いで天然石の枠に溜められた源泉かけ流しの熱い湯を汲み、冷えた体へかけた。
外気との温度差で火傷するのではないかというほど熱く感じるが、次に吹きつけてくる冷気が程良く体を冷ましてくれる。それを二度、三度繰り返してから、桶を風呂の傍らに置くと、恐る恐る足を湯船へと入れて行く。ジワリと刺すような、痺れるような熱さがこみ上げる。さらに太もも、腰、そこから一気に肩までをめり込ませる。
「ふいぃ……」
大きく息をついて、体がお湯に馴染むのを待つ。
もちろん、タオルはお湯に浸けない。
しかして、もうじき40歳のおじさんがお風呂に浸かるシーンなど、いったい誰が見たいと思うのだろう。混浴でなかったことが恨めしい。
「良い湯だなぁ……。湯気に霞んだ白い影、ってか」
一人、陽気に懐かしい歌の一節を口ずさみながら、雪景色を眺望する。
もうもうと立ち上る湯気が視界を遮り、確かに歌と同じような感じだ。少し前に進み出て行くと、針葉樹林をバックに純白の世界が一望できる。決して面白いものが見られるわけではないが、朝日を受けて煌く雪が宝石を散りばめたようだ。
しかし残念なことに、この宝石の海を捧げるような女性がこの場にいない。
横手に見える竹造りの仕切りの向こうは女湯みたいだが、さすがにこの時間では誰も入ってきていないようだ。
「というか、この旅館で宿泊してる女性客って渚ぐらいじゃねぇか」
ルーデ達も直に来るという話をしていたが、いずれにせよ、例え混浴だったとしても一緒に浸かっていては気を揉みそうだ。
そんな失礼なことを考えつつ、一人で苦笑を浮かべるのだった。
そうしているうちに、遠目に人影を捉える事ができた。浴衣ではなく白いローブのような衣装をまとっていた所為で、針葉樹林が背景になるまで気付くことができなかった。
やや小太りの体躯に低い目の身長、禿頭の男だということは把握できる。
「記憶に間違いなけりゃ、あれは下請けの社長殿だよな。こんな時間にお出かけですか……」
名前は確か、後藤 前時。「後藤翁ところの小倅」と呼ばれていたが、そんな名前だったのかなどと思ったものだ。
薫とて、この接待に応じた目的を忘れていたわけではない。
あまり目を見張りすぎても相手を警戒させるだけなので、こうして適度に気を抜くのは悪いことではないはず。ないはずだ。
だが、こうして早くも前時が動いてくれるとは嬉しい誤算であった。
入ったときとは逆の温度差に震えながら、薫は急いで風呂を出て外へ飛び出していく。ここで何か証拠を掴めれば、組織の上部に露見する前に止めることができるかもしれないからだ。
先代の後藤翁こと後藤 宗時には、幹部候補と下請け会社のという関係だったものの、本当にお世話になった。裏の世界で生き抜く技術というよりも、商売人としての心得やマネージメント能力だろうか。
宗時という男は、白髪を蓄えた柔和な顔立ちの老人で、裏社会の人間というよりかは根からの商売人だった。今、業績を伸ばせているのも宗時の教えがあったからで、生前には返せなかった恩を返したいと思っていた。
その矢先、倅の前時が組織の武器を横流ししているという情報を得たのである。宗時が築き上げた財産は残っていたはずなのに、どうして組織に逆らうようなことをするのかがわからないのだ。
調べた略歴の上では、確かに高校卒業の直前に問題を起こして停学処分を受け、自主的に退学している。建前であろう理由としては、校内での喧嘩による負傷事件という話だ。深く調べた限りでは、女子生徒に対する婦女暴行事件というのが事実らしいが、当時の真相を語る者にたどり着くことはできなかった。
宗時がもみ消したのだろう。とは言え、幹部でもない宗時がそんな権力を持っているはずないので、上司の手を借りたのだと思う。
ただ、薫が前時という男を観察する限り、女性に対して不埒な行いができるタイプではない。当時の学校で撮られた集合写真も手に入れたが、今より少し痩せていて髪の毛が残っているくらいの違いを除けば、朴訥で気の弱そうな印象を受ける少年であった。見る人が見れば、根暗とも取れそうだ。
『遺言の件は悪かったな。せっかく後藤翁が厚意で遺産を寄こしてくれるっていうのに、俺の都合で蹴っちまって』
『いえいえ、父なら竜さんの気持ちを組んでくださいますよ。その分、俺が頑張らないといけねぇんでやすがね……』
『これ以上恩を受けたんじゃ、流石に返し切れねぇってもんだ。それに、今じゃ倅のお前さんにしか返せなくなったからな。そもそも、お前の代わりに俺が世話になったのも経営不振の原因の可能性があるもんな……』
『やめてくださいよ。俺が不肖の身でやしたから、今になってこうして竜さんが力になってくれるって睨んで、目を掛けなさったんでやんすよ……』
昨晩、酒の席で持ち出した会話の様子から推測するに、遺産を食いつぶしてお金に困っているとか薫への恨み辛みの類でもなさそうだ。サスペンス物の話に見られる、動機がわからない罪ほど胸に支えることはない。
渚にも言っていたが、人を見る目は宗時譲りの慧眼があるつもりだ。故に、横流しの件は十中八九本当で、薫の知らぬところにその原因があると読んでいる。
慰安旅行に来る前にした、側近の二人との会話を思い出して、それが薫の勘を裏付けていると信じていた。
§
「以上が、後藤 前時について調べた結果ですな」
小柄で猫背の側近が、前時の情報に関する概要を説明し終わったところだった。手には資料の束が握られており、一番上部の用紙には概略のメモが書かれているに違いない。
薫は、二人用のソファーの中央に鎮座したまま、腕を胸の上で組つつその報告を聞いていた。目の前のそこそこ高級なローテーブルにも、資料の束が数組ほど乗せられている。小柄な側近の説明に伴って資料を手に取ったため、整然としていたものは無造作にちりばめられてしまっているが。
「ご苦労」
薫の言葉に小さな背中を折り曲げて恭しくお辞儀をすると、対面から横へずれて控える。強面で大柄な側近の側で、共に不動の体勢を取って佇むのだ。
「至らず申し訳ございませぬ。裏帳簿でも見つかれば早いのですが、こちらの動きを悟られたら高飛びの可能性もありますからな」
普段は薫の傍に控えていて口を閉ざしていることが多いものの、口を開くといつの時代かと問いたくなるような古い語尾が突いて出る。
「ぅん……放っておけない」
強面の丈夫が、口少なに意見を出す。
長い付き合いの薫や猫背の二人だからこそ、大男の言いたいことは察しがつく。
「まだだ。まだ慌てる時間じゃない。強引な手段に出て、こちらの読み違いだったら後藤翁に顔向けできねぇからなぁ」
恩義がある手前、確証もなく前時の仕事場に踏み込むのは気が引けた。大きく動けば上の知るところとなり、何か証拠が見つかった時点で前時を諭す暇もなくなるだろう。そうなれば、薫のできることなど組織の上層に減刑を申し出るぐらいしかない。力ずくの解決により、なりふり構わない自爆に巻き込まれる可能性だって捨てきれないのだ。
甘いことを考えているのは、薫にも分かっていた。
昔馴染みの側近二人から見れば、これまでになく薫が甘くなっているように感じるかもしれない。自身でもそう思うのだから、そうなのだろう。
原因は諸々あるだろうが、一番の原因は何なのか薄々感づいているかもしれない。が、側近の二人は口に出すことを憚っている様子だ。
その代りに、二週間ばかし後にくるイベントのことを言い出す。
「今度の接待、お受けするですかな?」
「罠……」
「受ける。罠の可能性はあるが、こうなりゃ懐に飛び込んでやるしかねぇだろ」
悩みもせず答えた。
「こうも目ぼしい動機が見つからねぇんじゃな……。過去の怨讐、金、女、私怨、反逆、どれもしっくりこないんだよなぁ」
前時という男の戸籍謄本、高等学校時点の履歴書に、孫請け会社に入った際の履歴書だの、関係者へ聞き取りした会話記録など、小・中・高校の卒業アルバムに至るまで、多岐に渡る情報がローテーブルには広げられていた。そのいずれからも、組織を裏切ってまで商品の横流しをしようとする動機が見えてこない。
気になる点を上げるとするならば、会話記録にあるいくつかの不審な行動だろうか。
まず、前時は自主退学とされる高校生活を含め、小学校の頃から一切のクラブや同好会と言った活動をしてこなかったのは、各々の履歴書からも判別できる。
「白い……」
「ここまで個性が見当たらないことも珍しいと。何か、小規模の活動を隠れてやっていた可能性はございますな。そう、非公式、秘密の活動……」
側近二人の言う通り、前時という人間は白紙のスケッチブックに人の形を描いているのではないかと思うぐらい、空白の存在だった。履歴書の『趣味・特技』の欄には、取ってつけたような『読書・英会話』などの文字を無難に並べて、ご丁寧な教本を書いてくれている。
「ここまで徹底的に個を隠せる方法のハウツー本なら本屋さんに並べたくなるね」
薫が呆れるほどに、机の上の男は無能な天才だ。誰よりも優れていないのに、誰よりも劣っていない。
矛盾している。
そんな前時が、高校生活を営む傍ら、学校終了時刻まで姿を眩ませてやっていた放課後倶楽部とはいったいどんなものなのか。
§
二週間前のことを思い出しているうちに、薫は前時が残した足跡を追って森の中へと入っていた。そして、駆け足気味に歩いていたらしく、気がつけば肩で息をし始めている。
加えて、薄曇りの空が雪を少しずつ落してきていた。道理で朝から寒かったわけだ。
大降りにならなければ良いが、と薫が心配しながらたどり着いたのは、『氷境荘』とは正反対の西洋風な建物だった。屋敷とか館と呼ぶような建物だ。平たくいえば洋館。
小豆と砂糖を煮詰めた餡を寒天で固めた和菓子ではない。
「人里離れた場所に、建つ洋館ねぇ。ゾンビとか、出てこないよな……?」
建物の前景を眺めながら独りごちる。
建物があるということ自体は遠目からわかっていたものの、ただの別荘か何かだと思っていた。今でも、単に前時が建てた別荘なのではないか、くらいに考えてしまう。それならば、わざわざ『氷境荘』でなくても良いわけだから、この洋館では拙い理由があるのだろう。
見上げれば建物の四方の角に尖塔がそびえ立ち、正面に視線を下っていけばバルコニーがある。その更に下がエントランスになっている。そこを中心に左右対称のベージュ色をした造形が広がっているため、景色に酷く不釣り合いな大きい民家というイメージが先立つ。左右の壁を抉るようにしてテラスが作られているが、ただそれらしさを考えて作っただけの物のような気がした。
モダンさという面では『氷境荘』と近しいのかもしれないが、違う。
何がと言われれば、温かさがこの洋館から感じられない。
レンガのタイル張りか木造かという違いだけでもなく、装飾も両者を比べたところで遜色がないほどに地味だ。最近できたものではなさそうだが、新しさでは洋館に軍配が上がる。
もしオーラとかそういうものが薫に見えたなら、彼の感じたものの正体に気づけたのかもしれない。そこに、人の欲望が渦巻いているのだということに。
「さーて、鬼が出るか蛇が出るか。鬼とゾンビと幽霊は勘弁だが」
意を決した薫は、半分くらいが雪に埋もれたエントランスを潜る。前時が先に入ってくれたおかげか、あまり苦労はしなかった。
黒塗りのありきたりな木製の一枚扉には、擦り切れた真鍮製のドアノブがつけられている。冷え切ってしまったノブに身震いしながら捻ると、軽く蝶番の擦れる音が響いて薄暗いロビーが姿を現す。
埃っぽさは感じられず、頻繁に人の出入りがあるのがわかる。
天井にはシャンデリア、壁には燭台、いずれとも電光ではなくロウソクの炎が灯っている。淡く揺らめく明り一つ取っても、くつろげる空間なのか不気味な光景なのかが違ってくるのだから不思議だと思う。
その原因は、温かみのない鼠色のカーペットが入口から階段の上へ続いているからか、簡素でほとんど何も置かれていない内装だからなのか。
言い知れぬ物悲しさを覚えながらも、薫は一つだけ確信する。
「こりゃ、人が住むために作ったわけじゃねぇな。住んでるとすりゃ、幽霊ぐらいなもんかねぇ」
口に出した通り、生活のための建物ではない。簡単な寝泊まりぐらいはできるのだろうが、ひと月以上暮らし続けるのは難しい空間だ。
物が置かれていないかどうかは、人によって違ってくる。薫も華美な内装を好まないタイプだ。奇麗に掃除されているとしても、それはただ建物を大事に使っているかどうかだけだ。
人が住んでいるとは思えないぐらいに、変化していない。床も、壁も、天井も、修繕されていたりするものの、それはただ元通りに直したというだけのこと。服の穴を塞ぐのにハートのパッチワークをつけたりする、そういった遊び心がない。
「後は、てめぇみたいな何もない奴が住んでそうだぜ」
横から突き付けられた黒光りする筒に気づき、薫は悪態を吐きながら両手を挙げた。
遅くなって申し訳ございません。
章のタイトル通り、狂った人間というものはなかなか描くのが難しいと思いました。
ここで書くようなことではございませんので、ここらの作者的持論を読んでやってもいいよ、という方は活動報告を御覧ください。
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