第十六話・雪山を超えて
まだ少し旅が続きます。
次回から新しい登場人物が?
「悪いか? この前みたいなことが起こらないとも限らないから、俺達だってこっちにある文献から魔物のあり方を学ばなくっちゃならん」
エリックの返答に納得する。
ルーデは娯楽として受け取っているが、言ってしまえば現代の既存作品は一部の妄想を除いて、何所かしら魔物に関する知識が埋め込まれているのだ。魔物同士での諍いだって然程珍しいことではなく、相手を知るための資料として決して娯楽とは馬鹿に出来ないこともある。また、言ってしまえば人間の世界――人間界において最大の敵たる国家または政府が、魔物への知識の拠り所とするのは殆どがそういった古典や娯楽作品からとのことである。
魔物と関わった者の記憶は政府の機関に見つかり次第消されるのだが、例外的に渚のように消された記憶が一部ないしは断片的、もしくは全部が思い出される現象が起こる。俗に『記憶返り』と呼ばれ、その記憶が作品の糧となっても来た。
「いえ、私も今までやってきた遊びが無駄なことじゃないと思うと、少し嬉しいです。他にも知らないことがたくさんあると思いますが、これからも精進して行きます!」
人生、意外と無駄なことなんてないという事なのだろう。
もっと魔物についての勉強を頑張ろう、と渚は鼻息荒く奮起するのだった。
そんな折に、エリックが生温かい視線を向けて水を差してくる。
「それも良いんだが、先に頑張らないといけないことがあるぞ?」
「うっ……」
嫌なことを思い出してしまったと、渚は言葉を詰まらせた。
色々と話し込んでいる間に、二人は北陸の大地へと降り立っていた。
二月の北陸。それは白銀の世界などという生ぬるい表現は通じず、もはや雪に覆われた極地の様相を呈す。越後の国の私鉄を下りて駅から一歩出れば、歩道も公道も人が踏みしめた僅かな空間を除いて、白しか見当たらない。
「流石に、この寒さは俺でも堪えるな……」
白い息とともに、珍しくエリックから気弱なセリフが吐き出される。
一部の暖地を好む魔物、または人間よりも身体能力に劣るぐらいのモノを除いては、大抵が寒さや暑さといった環境には強いとのことだ。エリックも例外に漏れず、晩秋ぐらいの格好、長袖長ズボン程度でも関西の太平洋沿岸の地ならば冬季を平気で越すことができるとの話だ。
「電車の中ならまだ大丈夫でしたけど、この格好でさえ凍え死にしそうですよ。それに比べて、エリックさんはまだスーツのままじゃないですか……」
「まぁな。けど、これからまだまだ高地へ行くんだぞ。最低限、動けなくなるようなことにはなってくれるなよ」
「グッ……。登山経験なんてほぼないような私が、いきなり雪山登山とか拷問ですよッ。寒さで死ぬか、疲れて死ぬか、どっちかなんじゃないですか!?」
そう、渚の言う通り、これから二人は標高2000メートルほどの雪山を登らなければならない。目的地は8合目の千数百メートル地点ではあるが、そんなことは微細な差でしかない。
今からでも、想像しただけで顔が蒼くなっていきそうだ。
エリックに至っては、動けなくなったら放っていくぞ、と言わんばかりの表情である。
「まぁ、頑張れよ。目的地に到着できれば、温かい温泉と料理が待ってるぞ」
「人がそんな現物的なものだけで喜ぶと思わないでください。誰しも無理なことは無理な時だってあるんですから」
ご褒美を目の前にチラつかされ、そう言う渚の足は自然と前に進みだしていた。
「待て、待て。登山口まで徒歩で行くつもりか?」
ダウンジャケットを着終えたエリックが渚を止める。
渚もハッと立ち止まり、改めて周囲を見回してみる。
駅前のロータリーには一台のタクシーが停車しており、40代と思しき女性運転手がこちらを見ている。世話好きのする顔が口角を吊り上げて、獲物を見定めた視線で一組の男女を観察し出す。雪に閉ざされたこの大地において、渚達のような客人はタイミングとしても至極珍しいのであろう。
距離とアイドリング音から車内にまで会話は聞こえていなかっただろうが、何を嗅ぎ回られるか分かったものではない。そう思い、渚はエリックと顔を見合わせる。
しかし、バスを待つには難儀する環境である。
「……仕方ない。腹を括るぞ」
「か、可能な限りボロを出さないように気をつけます……」
二人は覚悟を決めて、柔らかくスノーシューズに纏わり付くパウダースノーを踏みしめてタクシーの方へと歩みを進めた。世間話程度に留めれば下手なことは喋らずに済むはずである。
女性運転手も舌舐めずりを隠するかのように笑窪を凹ませ、後部座席のドアを運転席で操作して開く。口腔が渚達を飲み込まんとして、車内に溜められた暖房の熱が頬を撫でる。
悔しいが、寒気に固まった心身を溶かすようなこの温もりが恨めしい。
「……」
「突っ立ってないでお乗りよ」
自信が揺るぎかけていた渚に、運転手が急かすとも気遣うとも違う口調で声を掛けてくる。
「タクシーに乗るなんて初めてか。まぁ、田舎の学生じゃそうあることじゃないか」
エリックはお上りさんを演じるつもりらしく、それとなくフォローを入れて先立ってタクシーへ乗り込む。
「お二人さんはご旅行かい? お嬢さんは学生ってことだから、そっちのお客さんはお兄さんかね? まぁ、いずれにせよ年上が先だね」
運転手もさりげなく世間話へ持って行こうとしてくる。上座と下座のマナーだけでも、熟達した運転手は二人の関係を読み取ることができるのかもしれない。
エリックに続いて渚も後部座席に乗り込み、扉が閉じると共にここが脱出不可能な監獄へと変わるように感じた。
「ここへ向かってくれ。地名は間違ってないはずだ」
下手に会話をしないよう、エリックが目的地である登山口までのメモを手渡す。思いのほか用意周到なのは、こういう経験が何度かあったからだろうか。
「こんな山へ何の用だい? そりゃ、この季節の登山者だっていないわけじゃないけど。こう言っちゃ悪いけど、お兄さん達が登山に慣れているようには見えないんだよ」
席次に続いて、目的地から二人の関係や目的を割りだそうとしてくる。
バックミラー越しに向けられた、制帽からのねめつけるような視線がどことなくケイに似ていなくもない。ケイのようにヤマ勘で相手を見破るタイプではなく、経験と観察眼に裏打ちされた勘で暴き立てるタイプだろう。
「か、観光ですよッ。そこで知り合いと落ち合うことになっているんです!」
流石に喋らないのは拙いと思い、なんとか口を開くもどことなく上擦ってしまっている。
「観光かい。この季節はどこも真っ白で華やかじゃないけどさ、ゆっくりして行きなさいな。それにしても、その知り合いとやらも奇特だねぇ」
冬景色にもそれなりの見どころはあるものの、どう考えても観光向きの季節ではない。そして思わず雪山の魔物達を知り合い扱いしてしまったのが、さらに疑念を加速させる。
「えっ……あ、その……」
これは拙い、と何か言葉を続けようとして思いつかず、口の中で出てこないモノをこねくり回す。
「渚……」
見事な渚のコミュニケーション不足っぷりに、エリックから呆れた顔が向けられる。
仕方ないというものだ。出鱈目な存在であるエリック達とも違い、薫のように元から日常生活にいなかった人物でもなく、クラスメイト以外の他人との接し方などアパートのお隣さんぐらいしか知らないのだから。小波がコミュニケーションの下地を作ってくれているため近所の人とはなんとか言葉を交わせる。それでも、初めて会った大人を相手に、しかもこちらの腹を探ってくる勘繰り深い人物であれば、なおさらというものである。
ついには、視線を外の景色へと移してしまった。
「この景色も悪くないと思いますよぉ……。私達の住んでいるところだとこんなに降ることも珍しいので、とても新鮮な光景に見え、ます」
ゆっくりと流れていく代わり映えしない町並みを褒めて、なんとか誤魔化す作戦にでる。こちらでは珍しくないのだろうが、雪で二メートルばかりの壁ができている光景など、渚にとっては本当に驚くものなのである。
話を逸らせたかどうか、横目に運転手を一瞥する。表情はこちらからだと伺えないが、意識は未だに渚へ向いている。渚が落とし所だと暴かれたようだ。
「西の太平洋側から来た人には珍しい景色なんだろうね。山の景色も素晴らしいよ」
「はい、たっぷり堪能させてもらいますね……」
「どれぐらいこっちにいるつもりだい? 宿泊先は決まってる?」
「二泊三日だな。その件の知り合いが旅館を営んでいるんで、そこに逗留させてもらうことになっている」
運転手の言葉に渚とエリックが順に答えて行く。
そこで運転手の反応が変わった。
「あれま、本当に観光だったの?」
『?』
当然、渚達は首を傾げる。
「ごめんなさいね。様子がおかしかったから、二人して愛の逃避行してきたんじゃないかって勘ぐっちゃったわ。おばさんったら、早とちりぃ」
頭を軽く拳で小突いて、舌を出す、年に似合わないお茶目な仕草で思惑を暴露してくる。なぜそうなるのか問いただしたい気持ちだったが、それよりも渚は非常識なセリフに頭がいっぱいだった。
「そ、そそ、そそそそれって、駆け落ちって意味ですかッ? 違います! 普通に、会社の慰安旅行です! 後から他の人も合流する予定になってるだけです!」
「妙な勘繰りはやめて欲しいぜ。俺にだって選ぶ権利はある」
渚は白い背景に映えるほど顔を赤くしながら慌てて、エリックは戸惑いこそすれ平静を装いながら否定する。
「エリックさん、それって私じゃまったく女としての魅力がないみたいじゃないですか!?」
「魅力があると思ってるのか?」
「い、いえ……。おこがましいことは申しませんが、それでも、ちょっとその言い様は傷つくと抗議したいだけでありまして……」
「諦めろ。持って生まれてこなかったものを、無い物ネダりしたところでどうしようもないぞ。あるもので勝負するしかねぇだろ」
続く二人のやりとりを見ていた運転手が、不意に笑いを漏らす。
「ハハハハッ! 勘違いしたのは悪かったわ。けど、あながち全部が間違いってわけじゃなさそうだね」
今のやりとりを見て、一体、運転手は何を思ったのだろう。
確かに他人よりも話し合い安い相手ではあるが、基本的にエリックは人間を嫌っている。渚に対する態度は優しくも事務的なもので、ルーデに守るよう言い含められているための義務でしかない。渚もまた、同じ仕事をする仲間としての関係にとどめようとしてしまっている。エリックとルーデの関係のような、互いを認め合っているが故に許されている会話ではない。
関係には丁度良い距離というものがあるのだ。
人間と魔物では越えることのできない壁があるように思えて、渚は顔を俯かせて小さくため息を吐いた。
「ごめん、ごめん。若い子をからかうのはこれぐらいにしておくわ」
自身の発言に落ち込んでしまったと思ったのだろうか、運転手が口を噤んでしまう。
「あ、いえ、大丈夫……いえ、からかわれるのは勘弁して欲しいですけど、別に気を悪くしたというわけではないので」
「そう? 何か悩みがあるなら、解決しなくとも誰かに相談なさいよ? 少しでも気が晴れるってこともあるからね。私も長い仕事一筋の人生だから、いろいろなお客さんを見てきたわ。
あれは十数年前のことよ。女性だけのお客さんが乗ってきてね、貴方達と同じように登山口まで運んだのよ。暗い顔をしていたからどうしたのかって聞いたら、男に捨てられた傷心旅行って話だったわ。この真っ白な景色を見て、まっさらな気持ちになってもっと良い恋を見つけなさいって言ってあげたの。
あの人は今、どうしてるのかしら。今は、ちゃんと良い男を見つけて幸せになっているかおしれないよ。他にも、家出してきたって男子学生を乗せてドライブしたことも。あれは夏だったねぇ」
そう運転手が、滔々と昔に載せたお客さんのことを話し始める。
登山口に到着するまでの残り二十分ぐらいは、そんな調子で過ぎて行った。
タクシーは雪が取り除かれた坂道を登って、三十台ほどが停車できるくらいの駐車場で渚達を降ろした。駐車場の先には渡り鳥の名を冠した温泉があるらしいが、名称の由来は不明である。
「わざわざありがとよ」
「ありがとうございました」
代金を支払い、エリックと渚が謝礼を述べる。
「あぁ、遭難なんてすんじゃないよ」
運転手と別れを告げ、走り出したタクシーの後を見送る。見えなくなったころ、二人も背後の雪山へと振り返った。
言うなれば、雪の山だった。それは当然だが、ところどころに針葉樹や葉を落とした広葉樹の木々が茶色く見えるものの、雪を盛って作った巨大な山が遥か遠くへと続いている。荘厳なまでの景色に、渚は自然の偉大さというプレッシャーに押しつぶされそうに感じた。
こんな尊大な山を登っていかねばならぬと思えば、無意識に固唾を呑みこんでしまう。
「行くぞ。俺の後をついてこい」
先に歩きだしたエリックを追って、未だ慣れぬ僅かに雪解けが凍った道を進んでいく。
登山口は駐車場から進んで、途中の温泉街を通り過ぎた二合目にあり、そこから四合目手前までは舗装されたアスファルトの道が続く。途中に露店風呂への分かれ道があったもののそちらへは向かえず、帰りに堪能しようと考える。四合目を過ぎるころにもなれば傾斜こそ厳しくなって山道らしさが出てくる。
降り積もった粉雪は決して重くはないというのに、大きく足を上げねばならぬ分は体力を消耗する。エリックが先行してくれていなかったら、少なくとも六合目に到着する前にヘバっていたかもしれない。
「結構、息が上がってきてるみたいだな。ここから先はもっときつくなるが、大丈夫かよ?」
「だ、大丈夫、です……」
挑発するようなエリックの言い様に、渚はムキになって答える。
そんな渚の様子を応援するためにか、スライム君がダウンジャケットの中で僅かに蠕動した。
『頑張れ渚。一応、身体能力を上げる魔法はあるけど?』
今まで黙っていたヒースも、周囲に人がいないことを良いことにエールを送ってくれる。
「これぐらいなら、フゥ……まだ行けます。ありがとう、スゥ、ハァハァ……ございます」
まだ魔法を頼るほどのことではないと、呼吸を整えながら渚は返事をした。足を奮い立たせ、エリックの背中を追った。
放っていくとかなんとか言いながら、筋道を作るように足を大きく上げずに進んだり、歩くペースを緩くしたりしながら登って行ってくれているのがわかる。水分補給は大事だ、とのたまっては小休止を挟んでくれたりもする。
五合目になればもはや道という感じはなく、岩が敷き詰められた坂という様相を呈する。階段を上るのと同じ調子になるため、足腰への負担がここで肥大して心を折り曲げようとしてくる。
『頑張れ、頑張れ! 渚なら行けるって!』
どこぞのプロテニスプレイヤーばりにヒースが応援しくれなければ心折れていたことだろう。
六合目に差し掛かって岩肌だけになり、ロープがところどころに張られていて足だけではなく腕にも負担がかかってくる仕様になる。
「グヌヌ……。こんなこと、小学生以来ですよ……」
小学校の遊具はロープでこそなかったが、良くも当時は苦もなく上れたものだと感心する。
しかし、当然ながらそんなことに気を割いている余裕はない。
「あッ……」
元から身体能力は平均であり、疲労の溜まった身体に加えてスキーグローブは厚みがあって器用に動かせない。少し手の力が抜けただけで、一メートルもない高さを滑り落ちそうになるのだ。
頭を打ちこそしないだろうが、下手な落ち方をすれば怪我の可能性はある。それでもどこかで抗うことなどできず、渚は間抜けな顔をして自由落下に身を任せた。
だが、それは途中で止まる。
「気をつけろ。足でも挫いたら、旅行が悲惨なことになるぞ」
腕がエリックに掴まれており、彼は片手で握ったロープで体幹を支えるだけで、渚を軽々と持ち上げている。流石はオーガだ、と状況に似合わない感想が出てきた。
「助かりました」
呆けながら、呆けたお礼を言う。
「ここからはもう少し楽になる。もう一息だ。気を抜くな」
叱咤激励してくれる。
「はい……」
エリックが振り返って再び山を登り始めたところで、頭から火を噴くとでも言うような感覚が襲う。それを沈めるため、勢い良く頭を左右に振り回す。
『記憶返り』による失われた光景の再現ではなく、もっと短絡的な情動である。タクシーの運転手がおかしなことを言った所為で、おかしな意識の仕方をしてしまっているようだった。
「どうした? 早くいくぞ」
なかなか動き出さない渚を不思議に思ってか、エリックが振り向いて急かしてくる。怪我の有無を疑われて直視されては堪らないと、渚も慌てて動き出す。
「だ、大丈夫ですッ。直ぐ行きますから、何ともありません!」
やや顔を俯き加減にして赤い顔を隠した。
零下数度という寒さで顔が紅潮していなければ、直ぐにでも顔を染めていたことがバレてしまったことだろう。
二人はまた歩き出し、七合目にまでなんとかたどり着く。
傾斜こそきつい目の道ではあるものの、岩を這い上がるように登っていかない分だけ楽ではないだろうか。
目的地は八合目とのことなので、ここで少し休憩を入れてラストスパートをかけることになる。
ここで、気になることを尋ねる余裕ができた。
その合間を利用して、七合目には天狗の名が冠されているため、それについて聞きこうと思った。
しかし、尋ねこそすれ渚はエリックの顔を見ていない。時刻は18時を回っている所為で周囲に気を配っていても不自然に思われないのが救いだった。
「ふぅ……。質問なんですけど、天狗も魔物なんですか?」
「あぁ、鬼人種テングのはずだ。カラス天狗は翼人種か獣人種に属していたりするから一概には言えないけどな」
「やっぱり天狗も鬼に分類されているんですね。鞍馬の天狗とかも、もしかして実話だったりします?」
「さて、俺だって同じ鬼人種だからって全ての同種族に会ったことがあるわけじゃないからな。生まれてから五十年も経ってないし、人間界に来たのも20年前か15年前だ。こっちでの逸話やら伝承やら、全ての魔物に事実確認をしてる暇なんってないぜ。
マダリンの姉さんならもしかしたらそう言うことも詳しいかもしれんけど。ただ、話させるには結構なコツが要るけどな。姉さんってあんまり自分のことを話そうとしない人だから、俺達が知っていることは大概が風聞だ」
「長く生きていると、口にしたくないこともたくさんあるんでしょうか……」
「さてね。ま、そろそろ休憩も良いだろ。それだけ喋る元気があるなら残り数百メートルぐらい余裕だぜ」
そこでエリックが話を切り上げてきて、出発を促してくる。
暗闇が山を支配し始めている時刻だ。月明かりは薄曇りの空から僅かに落ちてきているだけで、辛うじて足元が見えるかどうかである。これ以上時間を食えば、本当に遭難してもおかしくないため二人は急ぐことにした。
一キロメートルもない残りの道程だったが、目的の八合目に到着したころには19時に差し掛かっていた。
「ここ、ですか……」
息を整えながら渚は小さく呟く。
立札があり、その隣の方には地下から冷風が吹き出す小さい穴があるはず。『はず』というのは、それを確認しているのが渚以外の人物だけだからである。
渚はゆっくりと風穴が開いているはずの場所へと近づいて行き、恐る恐る手を伸ばしてみた。確かに風が吹き込んでくる感触はわかるのだが、渚にはただ普通に風が吹いているのと変わらない。
「?」
怪訝そうな表情のエリックを尻目に、渚はその景色へと手を触れる。
岩肌ぐらいしかないはずのところには大きく雪原が見えており、俯瞰するように遠くの建物から洩れる明かりを眺めているためか、違和と幻想が入り混じって胸を打つ。まるで、岩肌に絵画をはめ込んだような感じで、それはとても神秘的な光景だった。プロジェクターマッピングを見ている様子を想像してもらいたい、というのが渚の最も説明し易い言い回しだろうか。
明かりを灯した木造の建造物から奥には針葉樹林が広がっており、雪国の原風景というものを理解する。雪を掲げた枝葉のずっと先にポツリと何か尖塔とでも呼ぶのか、先の木造の和風建築とはかけ離れた洋風の館らしき存在が酷く不釣り合いに感じる。
だからその夢幻の存在を確かめたくて手を出してしまった。その瞬間、絵画の景色がたわみ、波打った。
「え……!? 嫌ッ!」
そしてキャンバスが弾け、風景が流れ出て渚を飲み込んだ。
意外と渚は欲望に忠実ですよね。
私も欲望に従って、感想やら評価やらブックマークやらを要求しましょう。
ください(平服)。