第十四話・追う者と追われる者
第二部開始です。
一部よりもアクションは少なめになりますがご容赦ください。
渚は走っていた。
激しく息を吐いては吸い、短い不規則なリズムでそれを繰り返す。
今、渚は追われていた。
「ハァ……ハァ……クッ。ハァ、ハァ……」
もつれる足をどうにか立て直し、限界を振り切って住宅地の夜道を駆け抜ける。立ち並ぶ住宅の玄関の灯が疎らながらに渚の影を映し、その何十メートルか後ろを追跡者のものであろう影が流れる。
こんなに走ったのはいつぶりだろうか。
学校のマラソン大会では全校中、後から数えた方が早いぐらいの走力だ。持久力に関しても、数キロのマラソン程度であれば何とか完走できる。しかし、今の渚は全力疾走と持久走の合間ぐらいの速度で足を動かしている。
かれこれ十数分。もう体力が尽きてもおかしくはないころ合いだった。
「漣さん、もう諦めましょうよ」
闇夜に響く涼やかなソプラノの猫撫で声が、まるで渚の肩を掴んで引きずろうとしているかにさえ思える。
渚と同じぐらいの速度で走りながらも、追跡者である影は彼女ほど息を切らせていないのがわかる。もし追跡者が抱えるいくつもの荷がなければ、渚は容易くそいつに追いつかれていたことだろう。
「し、しつこい……! 私は、何も、ハァハァ……知りませんし、知っていた、としても……ハァ、ハァ……何も、喋りません……ッ」
そう訴えることにさえ体力を消耗する。
「そんなこと言わずに、お願いしますよぉ」
余裕を垣間見せる追跡者が距離を縮めてこないのは荷の所為だけではなく、渚に完全な敗北を味あわせるためだろう。付き合いなど長い相手ではないが、そいつはそういうことに関して言えば怪物的だ。
晩冬の寒さで汗を封じているためか、追跡者は汗を拭う仕草をしない。渚は三週間ほど前に新調した上着を脱ぎ捨てたいとさえ思うのに、追跡者の顔にはまだ笑顔が張りついたままだ。背負っているシンプルなデザインの紺色をしたリュックサックを投げ捨てたいぐらいだというのに、向こうはリュックサックに限らずスポーツバックまで抱えている。
両者の前からやってくる車が、住宅地の細い道路で彼女らを避けるため危なっかしくハンドルを切る。
数瞬、追跡者の顔がヘッドライトの明かりで眩み、スポーツバックが車にぶつからないように体を捌く。丁度、渚が今までより大きめの路地へと曲がったときだった。
渚が路地に飛び込んで数歩もいかぬうちに、目の前に立ちはだかった厚い胸板に顔をぶつける。
「ワプッ!」
「おっと……! チッ、どこ見て走ってんだッ?」
ぶつかった相手が叱責してくる。
弾き飛ばされるように尻餅をついた渚の方が受けた被害は大きいが、今は抗弁している暇もないため大人しく謝ろうとする。
「も、申し訳……あッ?」
「おう?」
渚と男の間で唖然とした間ができる。
なにせ、渚も男も顔見知りだったからだ。
「どうしたってんだ、渚?」
「りゅ、竜等、さん……ッ? そ、それより、その、助けて、ください!」
「一体全体、どういう……」
短い遣り取りに互いとも状況を掴めない。男――竜等 薫の周りにいる取り巻きである小柄な男性も、大柄な強面の丈夫も、二十歳程度の少女とボスの会話を飲み込めずに見下ろしている。渚と薫が『迷子の迷子の子猫ちゃん』で、取り巻き二人は段ボール箱を抱えた状態、という何ともシュールな光景である。
それから十秒のしないうちに、追跡者が曲がり角を曲がってきた。
渚は慌てて逃げ込んだ暗闇の中で、息を必死に殺してやり過ごそうとする。十分以上も走ってきて、肺が酸素を要求するため今にも酸欠で意識が飛びそうになる。
「すみません。こっちに私と同じぐらいの背丈の女の子が来ませんでしたか?」
そのまま走り去ってくれれば良いのに、追跡者は物怖じせずに薫達へ話し掛けている。薫はまだしも、気質には見えない取り巻き二人を前にしても態度を変えない辺り、結構な修羅場を潜ってきているのではないだろうか。
傍で段ボール箱が積み下ろされる音がする。こっちは忙しいんけどお嬢ちゃん、と示すかのように三人が仕切りなしに50センチ四方の段ボール箱を車から下している様子。
「それなら、向こうに走って行ったよ。左に曲がったかな」
話しかけてきた人物に引き下がるようすが見られないためか、薫が仕方なさそうに嘘を伝える。
「向こうですか? 左、ですか? おかしいですね。漣さんの足では、私より早く曲がり角へ到達することのできないはずの距離だと思うのですが?」
変わらぬ猫撫で声で、薫の嘘を暴き立てようとする。
「おいおい、人様の車を覗くのは失礼だぜ。何と言われようと、向こうに走って行って左に曲ったのを見たんだ。それとも、人に物を尋ねる時のマナーを教育し直して貰いたいのかい?」
「そうですか。どうも、失礼しました」
流石に薫や取り巻きたちに凄まれては、追跡者も諦めざるを得ないようだった。
数秒ぐらい、闇の中で足音が遠ざかるのを待つ。もはや意識さえもが暗闇に落ちそうになったころ、薫の声が掛かる。
「もう出てきて大丈夫だぞ」
すると、無地の段ボールが一気に溶けてなくなり、渚を残して地面に1立方メートルばかしに収まる水滴めいたものが現れた。その様子に、三者三様で感嘆ともつかぬ声を上げる。
「ほぉ」
「これがねぇ」
「む……」
薫はどちらかと言えば、車の中ではなく水滴のような半透明の生物を段ボールに見立てて隠れたことへの称賛だろう。猫背の小さな取り巻きさんは、スライム君という物珍しい存在に対する関心だった。強面の人は、表情があまり動かないので良くわからない。
とりあえず、渚は漸く肺へ大量の酸素を吸入することができる。
「ハァ……ハァ……ハァ……。助かり、ました。竜等さん、ありがとうございます。他のお二人も、ほんとに……」
「いや、そいつは構わねぇんだけどさ。何なんだ、あの子? 同じ年ぐらいに見えたが、友達って雰囲気ではないよな」
「あッ……ちょっと、待ってください……」
渚の謝辞に続いて薫が問いかけてくるも、彼女は慌てて三人から見えない車の陰へと移動した。それに合わせて、半透明な生物も体をゼリーの如く揺らして追従していく。
ボンネットの前にうずくまりながら、不定形生物――スライム君が下着と肌の間に滑り込んでくる奇妙な感覚に耐える。息も絶え絶えだったのに合わせて、全身に走る浮上感にも似た刺激で背筋が条件反射的に跳ね上がる。ボンネットに頭をぶつけなければ、しばらく頂点に達した余韻に浸ってしまうところだっただろう。
有難い点としては、汗腺から噴き出してきた体温調整をしてくれる体液さえも同時に吸いつくしてくれたことぐらいだ。
『……』
その様子を覗きにくるでもなく構えていた三人の頭上には、きっとクエスチョンマークが幾つも浮かんでいたかもしれない。
「おまたせ、しました……」
なんとか体裁を繕って、渚はボンネットの陰から立ち上がった。
「お、おう……。何か、いろいろと大変みたいだな」
顔が上気しているのだけは抑えることができず、それを察した薫がやや気恥しげに視線を逸らして労ってくれた。
ある程度の事情を汲み取ってくれているのはわかっていても、実情を話すのは渚としても踏ん切りがつかないのである。渚が大切にしている仲間達と差を、関係性に壁を隔てているのが申し訳なくも思う。
「まぁ、はい、いろいろとですね……。その、あの子はクラスメイトの西京 経さんです。言ってしまうと、私の秘密を暴こうとしているパパラッチでしょうか」
助けてもらった以上、どうして追跡者――ケイに追われていたかぐらいは話しておかないといけないだろう。
ケイは渚が通う学校の情報工学科4年生で、純然たるクラスメイトという間柄でしかない。いや、クラスメイトを除く関係がないからこそ、あのような強行に出られるとも言える。
ケイがなぜ渚をしつこく追い回していたのかと言えば、遡ること冬休みに入る直前のことだった。終業式にケイは渚に突撃取材を敢行してきて、その内容は『サザナミの守護天使について』というものであった。
側頭部で纏めた緩くウェーブの掛かった艶のある茶色混じりのツインテール、ブラウンの光彩が興味深げに光るどんぐり眼、それに反して小顔な童顔が特徴的なケイ。体躯も幾分か渚よりも細いが、しなやかな四肢と邪魔っ気のない体つきから想像できないほどの身体能力がある。頭の方は補習常連組でも勘は冴える、まるで標的を狩り立てることに特化したような人物だ。
「あれはヤブカ(パパラッツォ)というよりも、猫か何かだな。俺も仕事の関係で、公安やらジャーナリストどもに目をつけられることもあるが、あの手のタイプは面倒この上ないぞ。素人だから俺達には痛くも痒くもない相手だけどよ」
薫が評する通り貪欲で、一度でも目をつけられると根こそぎ秘密を暴き立てられるという話だ。
「それで、そのパパラッチ嬢ちゃんが調べている――」
「――はい、『サザナミの守護天使』事件というエッタさんが起こした暴行事件を、私に対する抑止力として……半分は好奇心みたいですけど、ある人の差し金で嗅ぎ回っているようなんです」
言い方としてはいかがなものかと思うが、ケイに渚を取材するように依頼したのは一悶着あった飯田 充子である。
アントニエッタことエッタが件の騒ぎを引き起こしたことは、初耳だった渚がケイに尋ねて容姿などから確信した。一部でそれが、渚の事件への関わりを示唆してしまったのは否めない事実ではあったが。
「一応、まだ皆さんのことはバレていないんですが、流石に今日みたいに家まで探り当てて待ち構えられるのは辛いです……」
冬休みの間に何らかの手段で住所を調べ上げたのだろう。一時の平穏も、ストーカー紛いの取材で打ち砕かれることとなった。
「そりゃまた、災難なことだな。しかし、その主犯格はどうしてそこまでして渚の秘密を? 抑止力ってぇ言い方は、どうも敵対してる相手に対する表現に聞こえるんだが」
「話すと長くなってしまうので詳細は省きますけど、主犯格の飯田 充子は私からの報復を恐れているか……もしくは、スライム君の存在に勘づいている可能性があるようです」
充子の凶行から逃れるためにスライム君の力を借りた際、逃げだした彼女がスライム君の姿を確認した可能性はないとは言いきれなかった。あの日以来、充子が渚に直接的なちょっかいや接触を図ってくることはなかったため、真意を探るだけの材料はないのだ。
いずれにしてもエッタと渚の関係が明るみにでれば、暴行事件への関与で学校を停学、悪ければ退学させられてもおかしくはない。渚としてもそれは避けたいため、エッタのこともスライム君のことも知らぬ存ぜぬを貫き通さなければならなかった。
今のところ、被害者であるサッカー部の男子学生達の話が独り歩きしている状態であるため、表だって騒ぎになっていないことが救いだった。
「どうするつもりなんだ? お仲間に任せれば、パパラッチ嬢ちゃんも飯田って嬢ちゃんも簡単に追い払えるだろうが」
「うーん、私としてはそういうところで手を煩わせたくはないんですよね。最悪、手を借りるかもしれませんが、学校のことは私がなんとか解決しないとダメなんじゃないかって思うんです」
「そうか。まぁ、その辺りは渚の好きなようにしたらいいさ。もし助言をするとしたら、渚が勝てると思う勝負にのっけてやることかね」
「私の勝てる勝負ですか?」
「そう。あのパパラッチ嬢ちゃんは好奇心を満たすためなら多少の無茶は厭わないタイプ……というか、情報を手に入れることさえ趣味の一環として見ている節がある。嗅ぎ回られるぐらいなら、こちら側から情報を盾に勝負をふっかけてやれば良い。よっぽど割に合わない条件じゃない限り、大概は提示した賭けに乗ってくる」
薫の助言とやらに渚は思わず感心した。
確かに、ケイは相手が薫達であっても恐れることなく話しかけていた。簡単に答えてはくれないと分かっている返事を求めて、渚や薫に情報を求めた。渚に対しては追い駆けっこで完全に打ち負かして手に入れようとした。薫達に対しては嘘を見破るという推理力だが、さすがに常識の範疇ではないと察して諦めたようだ。
「なるほど。でも、今晩出会ったばっかりで、良く西京さんの性格がわかりましたね?」
「伊達に裏の界隈で生きちゃいないさ。ガキ一人の人間性も見抜けずに危険なブツを取引なんざできんよ」
亀の甲より年の功、という言葉を渚は飲み込む。さすがに三十路過ぎ程度の薫にその諺は失礼だ。
いささかの閑話ではあるが、後に渚がケイに挑んだのは数日後に行われる期末試験の全教科の合計点数で競うというものだ。結果として辛勝の末、『サザナミの守護天使』事件に関する質疑を一切しない、という条件を勝ち得たのであった。
閑話休題。
「それで、竜等さんはこんなところでお仕事ですか? その段ボール箱の中身……いえ、流石に野暮ですね」
「仕事というより、ウチのトコの孫請けが援助を求めてきてな。年末の成績が芳しくなかったから、こっちで手の回らなくなった営業先の顧客リストを譲ってやることになったんだ。しかも、安く買い叩かれて品薄になってる分の補填もしてるわけ。
本当なら叱りつけてやるところだけど、あそこの先代には俺も世話になったことがあるから恩返しってところだな。ま、その代わりといっては何だが慰安旅行に招待してもらえることになったけど」
見事な営業マントークである。
慰安旅行と言えば、渚も『アドリアーナ・ルクヴルール』という会社の面々と慰安旅行に行く予定がある。二月の中旬に、慰安旅行という名の仕事に行く予定が。
「まぁ、慰安旅行って名目にしないと、またお母さんを心配させることになりますしね……」
魔物達の諜報員が集う会社で働く渚に全うな旅行の機会など無さそうで、寒空を仰いで独りごちる。
「それはそうと、渚は早く帰らなくて良いのか? まだ八時を回ったぐらいだが、夜の独り歩きは危ないぞ? 家は近いのか?」
「時間は別に大丈夫ですけどね。大きな県道への抜け道を少し行ったところです。公民館の向かいの道を行った、わかりますか?」
案じられて、思わず渚は答えてしまう。
以前にも、個人情報は迂闊に漏らすなと薫に注意されたことを忘れて。
「ほれ、まただ。ホント、渚は危機意識が足りんな」
「痛ッ。うぅ……」
お仕置きのデコピンが飛んできて、そこが丁度古傷だったために予想外の痛みが襲う。加えて、今頃になってスライム君にマナ――いわゆる活動に必要なエネルギーを魔物側が呼ぶ場合の名称――を吸われた影響が出てしまう。
片膝をついた渚を見て、薫が慌てる。
「な、渚!? すまん、そんなに痛かったかッ?」
「い、いえ、デコピン自体は……痛かったには痛かったですけど、そっち、じゃなくて……」
体の力がごっそり抜かれるような感覚に襲われ、薫達の姿が反転しながら闇に包まれていく。体力とマナを大量に消耗した時に起こる抗い難い睡魔に捕らわれ、ほんの微かに薫が呼びかけてくる声だけが耳朶へ響いていた。
「おい! 渚ッ! なぎ……! な……!」
体を包みこむ温もりが酷く気持ち良く、脳内で飛び交う声が煩わしかった。
それも聞こえなくなるころ、渚は薫の腕の中で静かに寝息を立てていた。
きっと、薫は安堵と呆れ半々の溜息を吐いて渚を抱え上げただろう。援助とやらが終わるまでセダンの中で寝かしつけ、後々に渚の仲間である魔物達に連絡を取ったはずだ。
翌朝、気がつけば自分の家であるアパートの一室、しかも自室のベッドに昨晩の服装のまま寝かされていた。
渚は、自分がやらかした粗相を知って、良い知れぬ気恥しさを覚えたのは彼女だけが知る話である。
新キャラが登場しました。
本編では、渚の周りを嗅ぎ回るパパラッチ兼情報屋キャラといった立ち位置でしょうか。
書く暇があれば、番外編での主人公代行に据えたいと思っています。