§
少し余談を差しはさもう。
それはほとんど日が暮れて、薄闇が世界を支配し始めた時間。
精巧なビスクドールを思わせる容姿、漆黒の髪をなびかせる人間離れした美貌の少女。そんな人目を引く存在は、とある学校へと向かって疾走していた。
『あれ? 今……?』
同僚のゲルトルーデに比して、日没以降であれば少し鈍足、昼間であれば十分に勝っている速度だ。明かりをほとんど失った今、人外の俊足でアスファルトを蹴る少女の姿を目視できるのは、進行方向に並走する車両の乗員のみであろう。
『気の所為か?』
それでもなお、姿勢を低く地を這うようにして駆け抜ける少女――アントニエッタの姿は車両から少しばかり死角になる。これらが全て計算づくであることを知っているのは、エッタ自身か、彼女の創造者である吸血鬼の真祖だけ。
住処である10キロほど離れた街から1時間程度で、エッタは目的の学校へ辿り着いた。
無骨なミリタリーブーツの靴底には鉄板のオプションが張り付けてあるため、急停止と同時にアスファルトが火花を散らす。
「さて、少しばかり散策いたしましょうか」
独白し、3メートルはあろうかという白い鉄製のフェンスを見上げたかと思えば、次の瞬間には頂上に飛び乗っており、軽々と学校の敷地内へと侵入してしまう。
これらのことなど、最高級の自動人形として作られたエッタにとって造作もないことだった。そして、人気が少なくなった冬の野外を、誰一人にも見つからずに移動することも。
聞こえてくるのは、校庭の運動場でクラブ活動をする学生とクラブ顧問の掛声だけだ
さて、どうしてエッタがこの学校、渚の通う高等専門学校に潜入しているのかというと、それは昼間の一件を伝え聞いたからである。
「まさか、ルーデ様とスライム君様の会話がアテレコでなかったことには驚きました……。いえ、そっちは別に良いのです。問題は、我々に対して喧嘩を売るようなことをなさったことが問題なのです」
『だからって、学校の奴らに示威行動を起こすのは違うと思うんだけど?』
エッタの独り言をインカム越しに聞いていたルーデが呆れたように言葉を返す。
「いえ、大問題です。渚を傷つけようとしたことは、我々への攻撃も同議。すなわち我が御身であるマダリン様への攻撃です。なれば、二度と我々へ逆らえないよう躾ける必要がございます」
エッタのセリフを聞いたルーデの心情としては、今日のことをエッタに伝えなければ良かった、という後悔が支配しているだろう。
ルーデの感じ得た腸が煮え繰り返りそうな怒りは方向性が違えど、エッタにとって渚への暴力は許し難いものであった。渚自身が保留を決めたならルーデは動かないまでも、エッタは違う。
『くれぐれも、渚に迷惑がかかるようなことはするなよ?』
「肯定。矮小で脆弱な人間を本気で痛めつけるような真似はしません。ちょっと、我らに盾付いたことを後悔していただくだけです」
渚に対して働いた狼藉を考えれば、それぐらいは当然だろう。だが、それは直接関わっている男子学生と女子学生に限った話だ。
咎人達の容姿こそスライム君から聞いてはいたが、学校内で彼らを探し出すのは容易くはない。けれど、そこは諜報員としての腕の見せ所だった。
『今の段階で既に迷惑掛けてね?』
技術担当のヒースコートに比べれば劣るものの、エッタも電子端末への不正アクセスによる情報収集は可能である。情報工学を専攻に含めている高等専門学校なだけあって、容易くはネットワークセキュリティを突破させてはくれなかったものの、学校のメインサーバーに入り込んで学生達の名簿を手に入れる。
当然、顔写真付き。
「ルーデ様がそれを申しますか? っと、出ました」
手に入れた名簿をルーデのノートパソコンに送り、後は一人ずつスライム君と顔写真を確かめて行くだけの作業だ。
私服だったことから4年生以上であることは互いにタメ口で話していたのでほぼ確定、さらに渚のクラスにいないならば残る学科の生徒。これらの情報から、スライム君が件の男子学生を探し当てるのに要したのは10分程度だった。女子学生の方は、ほぼ直ぐに判明した。
「機械科の加藤 蓮作ですか。サッカー部所属ということは、まだグラウンドでクラブ活動をしているぐらいですね。女子学生の方は、飯田 充子。スライム君が言うには、昼からの授業には参加していない、と」
ルーデから送られてきたメールを確認し、エッタは行動に移る。
女子学生の方は既に早退したと推定されるため、とりあえずは蓮作の方にお灸を据える。サッカー部が活動しているグラウンドへ向かえば、簡単に蓮作の姿を発見できた。
そこから先は、少しばかり早足となる。
「そっちに行ったぞー!」
「パス回せ!」
クラブ活動中はグラウンドの隅にある低木の茂みに隠れて観察しつつ、サッカーボールに高速で小石を投げつけるなどの地味な嫌がらせを繰り返す。
調子が上がらずにその日は不満をため込んだ連作が、クラブを終えて帰路に着けば先回りして前に立ち塞がる。
「クソッ、グラウンド整備サボりやがって!」
「まぁまぁ……一年坊どもには明日言い聞かせようぜ」
連作の取り巻きに数人ほどのサッカー部員が付属していたものの、エッタには些事であった。
「少しよろしいでしょうか?」
『?』
最初こそ、恭しく一礼し呼びとめてくる正体不明の少女に、訝しむか嘲笑を浮かべるだけだった蓮作含む男子学生達。けれども、次の一言で蓮作の燻っていた怒りが燃え上がる。
「漣 渚への暴力的な行いに天誅を下しに参りました」
「はぁ? 何ふざけたこと言ってるわけ? 漣……って、あの眼鏡のクソアマか」
「くそ……でございますか」
そこからはもはや、喧嘩と呼べるようなものではなかった。
一度も攻撃を掠らせさえせず、全ての暴力を躱し、時には受け流す。ほとんどの敵は、エッタの軽い一撃で沈んだものの、中には立ちあがってくる者もいた。それでも結果は変わらない。
それは、蹂躙。圧倒的な力により、捻じ伏せるというだけの事。
「アナタ方の方が、クソにふさわしいかと存じます」
十数分で、道端には数人の男子学生が転がることになった。
年端もいかぬ少女に、喧嘩にもならず敗北した者達は、その僅かに残った自尊心からこの一件を黙秘する。その事件は『サザナミの守護天使』なる名で、渚が卒業した後もひっそりと伝えられ続けたという。
無論、渚の身の回りにも少なからずの変化が訪れたことを注釈しておこう。
§
時刻は19:00を回ったころ、漸くエッタは自分のホームへと戻ってきた。
戻ってきてすぐ、エッタの目に飛び込んできたのはオフィスがオフィスではなくなっている光景であった。
エッタの説明を求める胡乱な視線と、エリックの諦観したような視線が交わる。
「お前が帰還の報告した後、止める間もなく準備を始めたもんでな……」
「どうせ、ルーデ様の発案および、渚を無理やり巻き込んだのでしょう」
たったの二時間足らずの間に、よくぞここまでしてくれたものだ、とエッタは内心で溜息を吐く。異様に静かだったのは、これを狙っていたからのようだ。
今現在、『アドリアーナ・ルクヴルール』のオフィスは、酒気と揚げ物料理、そしてスパイシーな茶色いスープないしは食べ物の香りで満たされていた。ルーデの机を見やればスーパーマーケットの揚げ物惣菜が多種多様、お酒もビールやらウィスキーやらと博覧会状態だ。
「カレー……? 渚は、これを電車で持ってきたのでしょうか?」
エリックの机にもスパイシーな料理の入ったお鍋が置かれており、それがカレーであることを理解するのに数秒も要しなかった。
スナック菓子の袋も数時間前より増えている気がする。
室内の壁に至っては、どこから持ってきたのか不明なイルミネーション用のLEDが貼り付けられている。
説明をしていたエリックさえ、片手に炭酸割りのウィスキーを片手に持っている始末。
「にゃはは~! エッタァ、お前も飲め飲め! せっかくの渚の新人歓迎会だぁ! なぁ、エッタァッ……フベッ!」
ほぼ出来上がったルーデがアルコールハラスメントを仕掛けてくることには、もはや慣れてしまったものである。抱きついてくるセクシャルハラスメントを捌くのもお手の物だ。
「エッタ、酷ぅい!」
力を流されて転倒したルーデがぼやく。
「新人様に抱きついておけば……と、その新人様はどちらで?」
室内を見回し、歓迎されるべき主賓の姿を探す。すると、目に着くのはルーデの定位置である横長ソファーに倒れ、幸せそうに寝入っている少女の姿。
顔がやや赤味を帯びており、こんな時間から寝ているとなると、大体は何があったのか予想がついた。法律違反を強行させた原因に冷たい視線を送る。
「渚様は確か、まだ19歳のはずでは?」
「ハハハッ! 半年なんて誤差だよ、誤差! ジュースみたいな奴を一本飲ませたらつぶれちまった!」
言うに事欠いて、これである。
昨日とは違う奇麗な上着がかぶされている渚を見るに、どうやら弁償は果たされたようである。たぶん、エッタが渚の学校へ出ている間に買い物などを済ませてきたのだろう。
それはさておき、渚が起きるのには後数時間は必要と思われる。
「このまま寝かせておくと、下手をすれば未成年者略取も含まれてしまいますよ? 親元への連絡はしたのですか?」
「昨日は早く帰ってきたみたいだけど、今晩から明日にかけて泊まり込みなんだとよ。一人寂しく残りのカレーを食うぐらいなら、歓迎会をしちまおうってことになったのさ。
って言うか、お前っておかしなところで法律とか気にするよな。さっきまで不法侵入した上で、一方的な暴力を振り撒いてきてさ」
エリックの返答に、エッタは目を細めて渚を見つめる。次に、渚の頬を突っついて遊んでいるルーデを見た。
「なるほど。途中でルーデ様が拾ってきたのですね」
どうしてカレーがオフィスにあるのかという理由にも納得ができ、杞憂だったことを知るエッタ。
普段は能面のように変わらない表情が、薄っすらと微笑みを浮かべていることにすら気付かないほど、ルーデの強引な自然体を思い知らされる。
「ほら、お前も飯食って、飲め。それと、雑魚を相手に御苦労さん」
「しゃぁ、にょめ、にょめッ!」
そしてエリックの心にもない労い。ルーデに缶チューハイを差し出される。いつもの光景だった。
「えぇ、いただきましょう。でも、意外と苦労しましたよ……」
「はぁ? お前が単なる人間のガキども相手に? 超高校生並の奴でも居たってぇのか?」
「『ワレワレノギョウカイデハゴホウビデス』なる未知の回復魔法を使って何度となく立ち上がってくる光景は、流石に怖気が走りましたよ……」
死霊使いが操る生ける屍の如き無限の尖兵との戦いを、缶チューハイを今にも破裂しそうな勢いで握り絞めながら思い出す。
「そりぇ、かいふゅくまひょうとちぎゃぅ……」
「そ、そうか……。御苦労さま……」
珍しくエリックが本気の労いを掛けてくる。
なんだかんだとあったもののこうして、渚と魔物の諜報員達の新たな一ページが始まった。