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閑静な住宅地。道路を挟んで田畑と家屋が向かい合うか、時に圃場と隣接するように建造物が立ち並ぶ。
街灯は疎らにあれども、闇もまた疎らに点在する世界だ。そこで、一匹の獣は明かりの中に影を残すことなく疾走する。
「――ッ」
獲物もまた闇に姿を眩ませて、渚が入って行ったアパートの一室を四方から観察していた。
夜の猛獣と化したルーデには、そんな監視者達の姿が明確に見えている。いずれも一定の距離を開けて、アパートの両側面、正面、裏手を囲い、隙間なく渚の動向を見張る。
正面の道路にいる見張りは、ワンボックスタイプの乗用車に乗って待機。後は、通行人を装ったサラリーマン風の男達。
『……』
標的の位置を全て確認したところで、全員が戦闘能力のあまり高くない監視専門の人員だと把握できた。
まずは、裏手の農道で渚の部屋を監視する男から沈黙させに行く。
「女の子の部屋を、覗くんじゃありませんッ」
「ぅッ……」
言い終わる頃には、亜音速の弾丸となったルーデが拳の一撃を叩きこんでいた。
続いて、足場の悪い田畑などなんのその、両側面の男達に接近して、変わらず拳の一撃で沈黙させていく。これがエリックやエッタであれば、二人目のあたりで襲撃の連絡を入れられていたところだろう。
「ほいッ! ほい!」
エッタはルーデが隠密を不得手としていると思っているが、こと瞬間的に目標を無力化するのであれば、武器を使うエッタや怪力馬鹿のエリックなんかよりも向いている。
単に、玩具を前にした猫が、それにじゃれ付くのと同じで堪え性がないだけなのだ。
「どうよ? 私だってやる時はやるんだぜ? さて、後一人、ちょっくら挨拶してくるわ」
『否定。こちらからではルーデ様の動向がわからないため、何とも答えようがありません。ただ、普段から手を抜いていると解釈してもよろしいでしょうか?』
『その場でのベストを尽くさないという意味じゃ、ルーデは手を抜く癖があるわな。あと、なんか俺のことを馬鹿にしなかったか?』
エッタの辛辣な評価と、エリックが鋭い指摘を挟んでくる。
「て、手抜きゆうな……! エリックも、何でそう言うときだけ勘が鋭いのさ!?」
『てめぇ、帰ったら殴る』
「あ……。はッ、ハハ……」
墓穴を掘った。
エリックのお怒りを買ったことはさておき、気絶した三人の黒服を持ち上げて最後の一人へと近づいていく。車内で待機しているため、流石に強襲するわけにもいかず、気絶した三人を連れ帰ってもらうことにする。
「……ッ?」
仲間が三人とも、一切の連絡もできず沈黙させられたことに驚いた黒服。
邪魔なのを道路に落し、車内の男と睨み合う。
仲間をやられて、相手も黙っていられず車から降りてくる。
「黙って、むさ苦しいこいつらを連れ帰る気はないかねぇ? それとも、痛い目を見てからじゃないと、はい、って言えない性質?」
ルーデの問いには答えず、男は黙ったまま拳を握りしめて戦闘態勢に入る。
しかし、勝負は一瞬だった。
駆け引きなど一つもなく、男が地面を蹴って懐へと飛び込んでくる。鋭いジャブを右手でいなされると、振りまわされる身体を捻り、遠心力のままに後回し蹴りを繰り出してくる。
それを、後に下がって紙一重で回避すると、男が停止するのを見計らって正拳を顔面の前で寸止めしてやる。
「……」
男は目を見開いたまま、ルーデの拳を直視する。みるみる内に怒りが表情を支配した。
舐められたと思ったのだろう。
「あんたが動けなくなると、そこの奴らを連れ帰ってもらえないからな。あんただって分かるだろ? 人間じゃ及ばない魔物との実力差って奴が」
ルーデは男を見下しながら言う。
肉体的な性能のみで人間が敵う範疇など、魔界の序列で800位以下からがやっとだ。対して、ルーデの序列は300位程度。敵う道理がない。
男は圧倒的な実力差、絶対の敗北の味を噛みしめる。
しかし、まだ怒りが現実を受け止めさせようとしていないようだった。
「退け。でないと、てめぇら四人とも、永久に寝てもらうことになるぞ?」
だから、全力で脅した。
恐れさせ、怖れさせ、畏れさせる。
今のルーデは獲物へと食らいつく前の獣。四人の力無き小動物達を弄り、殺生与奪の権限を持つ絶対の支配者だ。
もしここで退かなければ、作り物ではない真の恐怖を与えられるであろう。
足元に転がる三人の男達から、手足の一本ずつでももぎ取れば十分だろうか。
理性ある生物は、人であれ獣であれ魔物であれ、恐怖という根源的な感情に逆らうことなどできないことをルーデは知っていたから。
「……ッ!」
怒りに満ちていた男の顔が、みるみる内に青ざめていくのがわかる。
もはや敵わぬと見て、慌てて仲間三人を車に連れ込むと、エンジンを噴かせて走り去っていく。
邪魔者がいなくなったのを確認して、ルーデはエッタ達に連絡を入れる。
「こちらルーデ、お邪魔虫は片付いた。任務を続行する」
『了解。任務続行に支障はないと判断します。
「それで、エッタは何が気になったんだ?」
男達を追い払う前に、エッタが口にしたセリフは忘れていない。
自分で言うのもなんだが、ルーデは大して高い頭脳を持ち合わせていなかった。けれど、男達の行動に違和感があるのには気付いていた。ただ、それを正確に分析して、言語化することができないというだけだ。
『確証はありません。ただ、監視者達の行動が不自然です』
「あ、いや、待て……。話しは後だ」
エッタが説明しかけたところで、ルーデがそれを遮る。
背後から近づいてくる気配と、今日一日で少ない脳内の記憶領域に叩き込んだ人物の匂いを察知したからだ。
『……?』
「いや、どうやら渚にバレたみたいだ。任務終了ってことで、なんとか言い訳して帰還するよ」
そう、男達にかまっている間に渚の匂いが直ぐ後に迫っていたのである。
さてさて、どうやってこの状況を誤魔化そうか、と考えながら振り向く。スライム君の擬態で上手く変装しているらしく、少し様相が変わっていた。
「えっと、これは、だな……。その、別に渚を尾行してたとかそういうのじゃなく……て?」
苦しい言い訳を口にしようとして、ルーデは自身の嗅覚と視覚がとんでもないミスを犯したことに気づく。
背後で立ちつくしていた人物は、確かに渚とほとんど変わらない匂いを発していた。それはそうあって当然なのだが、匂いの主が渚ではなかったが為に、続く言葉を詰まらせる。
「どなたか存じませんが、渚のお友達か何か?」
渚がもう少し年を取らせて、髪をセミロングぐらいまでに伸ばせば、確かにその人物は彼女とほぼ同じと言えるだろう。視界に入った人物が誰なのか、見た目とセリフを追えば容易に推測できた。
「拙い。第一種接近遭遇だ……」
妙に買い物用のエコバッグを持つ姿が似合う彼女が、漣 小波――その人でなければ、こんな過ちは犯さなかったことだろう。




