男は誰でも心の中に永遠の少女像を描いている。アニマを飼いならすなんてできないのさ。
それをユングは≪アニマ≫と名付けた。
女も心の中に永遠の王子さま像を描いている、というか秘めている。
それを「アニムス」と、ユングは名付けた。
で、私は男なのでここではアニマについてだけ述べたいと思う次第だ。
男の心の中に秘めていてそれが悪さをしたり?
あるいは、詩人のミューズになったり、
その男のレベル?によってさまざまな現れ方をする。
すごい低レベルだと、、少女誘拐犯?ロリコン、幼女殺し、、、、、。
すごい高いレベルだと、詩人のミュウズ、世界との和解の仲介者としての永遠の女性性、になるのだろうか。
まあそれもこれもその男のレベル次第でしょうね。
さて、、、、
藤田嗣治の少女像、
レオナール・フジタの
良く見かけますよね?
あの独特のエキセントリックな
およそ、
現実には存在しないだろうような、うすクリーム色の少女たち。
猫を抱いていたり
くるっと瞳を回転していたり?
ただどう見ても、
こんな少女が
現実に実在するとは到底思えない少女ですね。
それはただちに
フジタのアニマの投影であり、
彼の心に浮かんだ
幻想の少女像でしかないだろう。
アニマとは?
男性の原風景として常に心の中にある
理想の女性像のイメージ?である。
女性ではそれはアニムスと呼ばれる
理想の?男性像である。
単純に言えば
「白い馬に乗った王子様がいつか私を
迎えに来てくれるはず、、、。」
という、、、あれである。
男にとっては
それは
『永遠の女性』という
形になる。
芸術家は、自分のアニマ(アニムス)をしばしばその作品に表出している。
特に男性作家はその傾向が強いように私は思う。
永遠の少女といってもいいだろう。
実際ゲーテは老年(確か80歳?)になってから16歳の少女に求婚しているくらいだ。
ホフマンもそう。
家庭教師で行った家の少女(14歳?)に夢中になり
求婚したが断られて失意のどん底に落ちている。このときホフマンはすでに妻帯者である。
こう見てくると
「ただのロリコンだろ?」
ということにもなろうが
それを高次元で止揚して
昇華して
永遠化した?のはさすが?
ホフマンであり、、
ゲーテだったね?
たとえばゲーテ、
ファウストを救ったのは
永遠化された?グレートヘンではなかったか?
あるいは、
ダンテは
その神曲でベアトリーチェに具象化されるような
永遠に女性的なものが
女性的な愛の概念が
世界を回転させうると断言しているではないか?
そしてあの狂詩人、ヘルダーリンにおいては、
混迷の
退廃の
そしてあまりにも乏しい
乏しすぎる
この時代を救ってくれるのは、
ディオティーマという
理想化された永遠の女性像である。
ファンタジー小説の世界でも、
アリスは、永遠の少女像の
化身?であるし、
赤ずきんちゃんは男の永遠のあこがれ?である。
詩人にその霊感を与えてくれる少女という図式は古今東西ありふれた構図?であろうか?
それを人はミューズと呼ぶ。
詩人に限らず小説家とか画家にもそれはある。
まあ一種のアニマとでもいいえるものだろう。
古くはダンテのベアトリーチェとか、
まさにダンテにとってのミューズであった。
しかし少女を普遍化して、描いたのは
ドイツロマン派である。
ゲーテのミニヨン、(ゲーテは その初期はロマン派だった)
ノバーリスのゾフィー、
ホフマンのアウレーリエ
ヘルダーリンのディオティーマなどなど、
すべて少女像を永遠化した作品である。
もっと上げましょうか?
銀河鉄道999のメーテル(これなんて、まさに、鉄郎の心の中にだけいる女性ですものね)
騎士道物語の、、あこがれの君
まだいくらでもありますよね。
ロバートネイザンのたぐいまれな作品、「ジェニーの肖像」においては
売れない三流画家?のエブンに一代の傑作肖像画を描かせるのは幻想の少女であるジェニーなのである。
少女はドイツロマン派では聖別化されて
聖なる昇華を遂げて詩人のミューズとして
救済の女神になっているからだ。
ベアトリーチェ、
ディオティーマ、
ゾフィー、
グレートヒェン、
これらの女性は
詩人たちに
霊感を与え
鼓舞し
偉大な創作へと向かわせた
詩の女神たちなのです。
もしこれらの女性に巡り合わなかったら
詩は開花せず、
詩人も生まれなかったかもしれません。
ただこれらの女性たちは
詩人のフィルターで
かなり誇大妄想的に
聖別化?
女神化されている節もあります。
現実の女性ですが
詩人の心の目で見ると
飛んでもない崇高な女神に変身させられてしまうのでしょうね。
ただこれらの女性は
尽きせぬ詩の泉となって
詩人の発想を高めたことは事実です。
ということは
詩人は巡り合う前から
その永遠の女性像を心に持っていたということにほかなりません。
つまりアニマに出会うべくして出会ったということに過ぎないともいえます。
あるいは心の中のあこがれの君を現実の女性に仮託?しただけ?
ダンテがベアトリーチェにもし出会わなかったら?
いいえ、
出会うように決まっていたのです。
それが宿命だったのですから。
さて、、いらぬ補足かもしれませんが
ベアトリーチェとは
あの「ディヒナコンメーディア」(神曲)に
絶大なインスピレーションを与えた
ダンテ・アリギエリの
永遠の女性です。
ディオティーマは
狂気のギリシャ憧憬詩人
ヘルダーリンの
永遠の女性です
ゾフィーとは
ドイツロマン派の
思想的な中心人物である
ノヴァーリスの
アニマ(ミューズ)です。
グレートヒェンは
あの「ファウスト」に
登場する
薄幸の少女ですね。
こうした詩人たちに
インスピレーションを与えた
永遠の女性は
ほかにもたくさんいるでしょう。
というか詩人が100人いれば
100人のこうした
ミューズが存在するのです。
なぜならそれは
現実に存在しようがすまいが
結局のところ
どうでもいいことなのですから。
心の中にいる
アニマが現実化しようが
夢の中だけで
存在しようが
同じだからです。
私にも
実はアニマがいます。
つまり永遠の女性です。
それはグレートマザーであり
二世の妻であり、
おとぎ話の幼馴染であり、
要するに、、、、
私の「アニマ」です。
現実に存在しているかって?
いいえ、
現代というややこしい時代には
それはむしろ
夢の女性のほうがいいのです。
もし現実に存在したら?
下手すれば
私はストーカーとして
犯罪者?になっていたかもしれませんからね。
詩人の思い込みが
その現実女性に通じればよいですが
もし一方的な
思い込みだったとしたら?
現代ではそれを
ストーカーと言って犯罪行為なのですからね。
低次元なたとえで、申し訳ありませんが
もしダンテが
他の男と結婚した
ベアトリーチェを
付け回しでもしたら
現代ではそれは
犯罪なのですから。
夢の中にいるだけの永遠の女性のほうが、、ややこしい?現代では
好都合?なのです。
夢の中だけの永遠の女性は
まさにあなただけのもの
あなただけのミューズ(詩の女神)でしょうからね。
ただし
現代の小説家の描く少女像はより写実的、現実的なものがほとんどだ。
「ロリータ」とか要するにそういう系?
ナボコフの「ロリータ」では少女はあくまでも肉化された存在で
聖別される由もない存在として描かれているばかりだ。
実際問題、
少女なんてものは、そんなドイツロマン派の詩人たちの描くような
聖別化されうるものではなくて
肉化されただけの存在なのだが
あえて詩人はそれを聖別して昇華させて
心の中で、、、ミューズに祭り上げたわけなのだろう。
そういう意味ではミニヨンもゾフィーもアウレーリエも
妄想の産物?でしかない。
まあ、、しかしこれも芸術のたまものであり
たとえば藤田嗣治描くところの「猫を抱く少女」みたいな少女が現実にいるはずもないからと言って
それでフジタ芸術が貶められるわけもないとの同一であろうか。
そんなこと言えば
アリスだって
ドロシーだって
ロートケップヒェンだって
現実にはありえない少女たちですからね?
まあ作家の妄想の産物
というか
その作家のアニマそのものでしょうね。
私の潜在意識の中にもそういう
妄想の聖別された「永遠の聖少女像」ってありますものね。
それは完全に清められた
聖別された
犯すことができない
「聖少女」像ですよ。
現実の生身の肉なるものとして少女ではないです・
いわゆるロリータ趣味とは隔絶した
まあいってみれば
聖処女マリア信仰みたいなものでしょうか?
付録
ミニヨンの歌
憧れ知る人だけが
私の心の苦しみを知ってくれるのです。
ただ一人で私は幸福からも見放され
かなたの空を見晴るかすのです。
ああ
私を愛し、私を知る人は
はるかかなたです。
眼は回り
胸は張り裂けそうです。
憧れ知る人だけが
私の心の苦しみを知ってくれるのです。
ミニヨンの歌
君知るや南の国
レモンの木は花咲き くらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわわに実り
青き晴れたる空より しづやかに風吹き
ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く
雲にそびえて立てる国や 彼方へ
君とともに ゆかまし
(森鴎外 : 訳)
(以下私の拙訳です)
君知るや、かの屋敷。列柱の屋根は高く、
広間は輝き、居間は明かるく、
大理石像はわが顔を見つめ、、
あわれ子よ、いかなるつらきことのありや、と。
問いかける。
君知るや。
かなたへ、かなたへ
君と共に行かまし、わが頼みの方よ。
kennst du das land ,wo die zitronen bluhn.
im dunkeln laub die goldorangen gluhn.
ein sanfter wind vom blauen himmelweht.
die myrte still und hoch dre lorbeer steht.
kennst du es wohl?
dahin dahin
mocht ich mit dir, o mein geliebter ziehn
付記
まあ
だいぶ話があちこちと、飛んでしまったが
フジタの少女像も
彼の心に常在する
永遠のアニマ
永遠の女性像の
具現であるのであろう。
こういう少女の典型というか
いわゆる永遠のアニマ
としては
たとえば
アリスであり
赤ずきんであり
ドロシーであり
これらが
より堕落した?現代の世俗系では
ロリータであり
キャンディであり
プリティベイビーであるのだろう。