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アプリコット・ジャム

作者: asymmetry

 メープルシロップがしみ込むふっくら分厚いパンケーキに、ジャムとクロテッドクリームをたっぷりのせたスコーン、ブルーベリーソースの掛かったムースと、ふわふわとろりとクリーム溢れるシュークリーム、チョコレートやマシュマロを挟んだビスケットに、つやつや宝石のように輝くフルーツタルト。希代の大魔法使いと名高いディディエ・ヴェイユはバターの香りと甘いお菓子をこよなく愛する。今だって、焼きたてのアップルパイにぴかぴかに磨かれた銀のフォークを突き立てている。しっとりと柔らかいリンゴを噛み締めて、口いっぱいに広がるシナモンの香りに恍惚とした。

「アプリコット」

 ディディエは(から)になったティーカップを掲げてひとつ揺らした。アプリコット・ジャムは、主人の手からティーカップを受け取り、慣れた手つきで紅茶を注ぐ。

 アプリコット・ジャムという名前はディディエが付けた。いかにも彼らしいふざけた命名だが、アプリコットはとても気に入っている。あの甘酸っぱいジャムをのせて焼いたクッキーが、敬愛する主人の一番の好物だと知っているから。

「どうぞ」

「うん」ディディエはアップルパイの欠片を飲み込んでから、淹れたての紅茶を一口二口味わうと、アプリコットににっこりと笑いかけた。

「やっぱり、きみの淹れた紅茶が一番だ」

 どんな香りの紅茶でも、アプリコットの手にかかれば甘いお菓子にぴったり合う。いつかの折に主人が言っていたことをアプリコットは思い出した。

 ディディエはカップをそうっと傾けて、おいしそうに紅茶を飲んでいる。花のように柔らかな、ダージリンの香りが、アプリコットの鼻先を優しく撫でて誘惑する。

 ああ、とってもいいにおい。

 もの欲しそうな様子のアプリコットを見咎めて、ディディエはいつになく厳しい顔で、だめだめ、と首を横に大きく振った。

「だめだよ、紅茶なんて飲んだら。きみの(・・・)風味が落ちてしまう」

 そう言って、ディディエは銀のフォークを閃かせた。それはアプリコットの白い肌に吸い込まれるように剥き出しの手首にさっくりと刺さる。赤い雫が溢れてすうっと流れた。ディディエはその赤い雫を指先ですくって舌の上にのせ、うっとりと目を細める。

「あまい」

 それはそうだろう、とアプリコットは手首にハンカチをあてながら思った。微かに漂う果実の甘い香り。まっ白なハンカチにじゅわりと滲む赤いものは、紛れもなくストロベリーソースだ。しかも、ディディエ・ヴェイユのこだわりが詰まった特製のストロベリーソース。

 ディディエは、フォークの先に付いたソースも余さず舐めとっている。

「お行儀がわるいですよ」

 アプリコットが眉間を顰めると、ディディエは笑って、ごめんね、痛かった? とアプリコットの手首をそっと撫でた。それだけで、フォークの刺さった痕もこびり付いた赤いソースも綺麗さっぱり無くなって、アプリコットの肌はもとのクリームのような滑らかさを取り戻す。

「ふふ、きみを食べるのが楽しみだなあ」

 アプリコット・ジャムはお菓子と魔法でできている。チョコレートが香る髪に、ホイップクリームに覆われた、スポンジケーキの柔らかな肢体。巡るストロベリーソース。マスカットキャンディーの瞳。こんな芸当ができるのは、世界中を探したってディディエ・ヴェイユを除いて他にいない。

「そのことですが」

 アプリコットがいくらか緊張した面持ちで口を開いた。ディディエはそれを珍しく思いながら、透き通ったマスカットグリーンの瞳を見つめ返す。

「わたしがつくられてから、三年と五ヶ月が経過しました」

 へえ、もうそんなになるのかと、ディディエは感慨深く頷いた。アプリコットは、クリームの柔らかさや生地の焼きぐあい、ソースの甘さなど、なかなか上手くできたので、ディディエは食べるのをなによりも楽しみにしている反面、惜しんでもいた。ちなみに、アプリコットの前に給仕を任されていたショコラ・フォンデュは、三日でディディエの腹の中に収まっている。

 それで、とディディエが続きを促すと、アプリコットは静かな声で言った。

「つまり……つまり、わたしの賞味期限(タイム・リミット)が明日に迫っています」

 ディディエは僅かに目を瞠り、そうか、と頷いた。それから、ふっと視線を落として、カップの中で微かに揺れる紅茶を見つめる。そうか、とまた小さく呟いた。

「はい」

「では、明日はきみの好きなように過ごすといい」

 その言葉に、アプリコットはぱっと表情を明るくした。久々の休日に思いを馳せる。

 街へ買い物に行こうか。かわいい服や小物を見て回るだけでも楽しい。それとも、お気に入りのレコードをかけて、本を読もうか。とっておきのはちみつと砂糖水を持って、ピクニックに行くのもいいかもしれない。ああ、それから……。

 ディディエはいつものように笑って、楽しんでくるんだよ、とアプリコットのチョコレートブラウンの髪をふわふわと優しく撫でた。

「ぼくがお腹を空かせる頃に、戻っておいで」


   *


 おいしく焼けたバタークッキーは、街へ出かける際にかかせない。

 行きつけの服飾店を訪れたアプリコットを、店の子供たちが出迎えた。ふっくらとした小さな手にクッキーをのせると、わあっと歓声が上がる。まるい頬をリンゴ色にして、幸せそうにクッキーを齧る子供の姿に、アプリコットも相好を崩した。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥から壮年の女性――この店のオーナーであるレジーナが顔を出した。レジーナは、クッキーを片手にはしゃぐ我が子を見て、目尻を下げた。

「いつもありがとう。この子たち、あなたのクッキーが本当に大好きで」

 ありがとう! おいしい! 子供たちが口々に言う。

「いいえ」アプリコットははにかんで小さく返した。喜びがじわりと胸に広がる。レジーナが微笑んだ。

「メアリー、アラン、外で遊んできなさい」

 レジーナが優しい声で促すと、子供たちは元気よく返事をして、アプリコットに手を振った。「またね、クッキーのおねえさん!」

 バタバタという足音が、ドアの向こうに消えるのを待ってから、レジーナはアプリコットに向きなおった。アプリコットの用向きがいつにないものだと、うすうす勘付いていた。

「なにかお探しかしら?」

「父に、プレゼントを贈りたいんです」

「お父上に? 素敵。バースデイかなにか?」

 いいえ、とアプリコットは首を振っていらえる。

「実は、しばらく父に会えなくなるんです。その間、父が寂しくないように」

 側に居られなくなるアプリコットの代わりに、寂しがりやの(ディディエ)の、慰めとなるものを。アプリコットが言うと、レジーナは子供への慈しみを込めた、優しい眼差しをした。

「お父上が、大好きなのね」

「はい、とても」

 アプリコットは大きく頷いた。

 レジーナは、それなら、とカウンター近くのショーケースを指し示した。

「大切な人に贈るなら、やっぱりリングよ。指は、始まりの女神が魔法を授けた場所と言われているの。これ以上ないお守りになるわ」

 アプリコットはショーケースを覗き込み、金や銀の美しい煌めきをぐるりと見渡した。その中で、小さな青い石がはめこまれた指環に目を止める。石の中で金の星がちらちらと瞬いている。夜明け前の空を写し取ったラピスラズリは、ディディエの瞳の色だ。

 これにしよう。

 アプリコットは俄かに決めて、レジーナに声を掛けた。


 斜めに掛けたポシェットにプレゼントをしまう。ラピスラズリの指環はアプリコットの思う以上に高価で、財布の中身を全て出しても少しばかり足りず、気を利かせたレジーナが足りない分を値引いてくれた。戸惑うアプリコットに、レジーナは、いつもおいしいクッキーをくれるから、と優しく笑った。

 アプリコットはレジーナの店を後にすると、立ちならぶ露店をひやかしながら、あてもなく歩いた。一文無しとなったアプリコットだが、その足取りは軽い。楽しげに揺れるポシェットを横目に、次はどこへ行こうかと思案する。

 するり、と足元を撫でる存在がアプリコットの気を引いた。視線を下げると、艶のない白毛の小さなねこが、アプリコットの足にまとわりついている。珍しいことではなかった。アプリコットの甘い香りは、なにかしらを引き寄せる。お菓子が好きな子供であったり、空腹のけものであったり。

 アプリコットは仔ねこをそっと抱き上げた。

 薄暗い路地に入ると、街の喧騒は遠ざかる。その先には小さな川があって、そこにかかる小さな橋の下にアプリコットは腰を下ろした。仔ねこは身じろぎ、アプリコットの腕をすり抜けて、しなやかな動作で地面に下りた。アプリコットのスカートに爪をたて、みい、みい、と仕切りに鳴いている。アプリコットは、仔ねこの額を撫でて、ポケットからハンカチにくるんだクッキーを取り出した。クッキーを草の上に並べると、仔ねこがすぐさま食らいついた。下り立つ鳥が、クッキーの欠片を啄んでいる。

 柔らかな風が吹いた。

 アプリコットの膝の上に、萎れかけの花がぽとりと落ちた。アプリコットは、花の飛んできた先を辿って顔を上げ、その瞳に人影を映した。

 薄暗がりの中、痩躯の青年が静かに佇んでいた。青年の手には萎れかけた花の束が握られていて、腰に吊るされた藤の籠からも、ピンクやオレンジといった花の色が飛び出していた。花売りの青年は、手に持った花をアプリコットの顔の前で揺らし、掠れた声を出した。

「いりませんか」

 アプリコットは、ポシェットに手を掛け財布を取り出そうとして、お金がないことを思い出した。アプリコットが首を横に振ると、青年は、そうですか、と頷いた。クッキーを食べる仔ねこに視線を移し、青年の目がすっと細くなる。ぎらつくローズグレイの瞳。アプリコットはその目に見覚えがあった。

「クッキーはもうないんです」

 アプリコットが告げると、青年ははっと息を呑み、クッキーから視線を外した。ぎらぎらと鈍く光る瞳を隠すようにうつむいた。

「すみません。一昨日からろくなものを食べていなくて」

 アプリコットは青年の顔を覗き込んだ。ローズグレイの瞳が煌々と光っている。その中に美しい生命(いのち)の輝きを見付けて、アプリコットは立ち上がった。

 肘より上の、柔らかい部分。アプリコットは、おのれのそこにハンカチを被せ、上から逆の手で掴んだ。指先に力を籠めて手首を捻る。

 抉りとったそれをハンカチで丁寧に包み、青年に差し出した。

「ケーキはお好きですか?」

 青年は躊躇いながらも受け取り、ハンカチを広げた。ごくりと喉を鳴らして、甘く香るケーキにかぶりついた。柔らかいスポンジケーキを咬み千切る。ふわふわとしてたまごの優しい味がする。なめらかなホイップクリームが口の中で溶ける。その甘さが舌に絡み付き、じんと脳が痺れた。

「うまい」

 二口、三口。

「うまい」

 青年の目から涙が溢れた。大粒の雫が頬を伝い、尖った顎の先からぼたり、ぼたり、と落ちた。

 アプリコットはその涙を、何よりも美しいと思った。手を伸ばして拭うと、青年の瞳がアプリコットを映した。濡れたローズグレイの瞳に目を奪われる。

 見つめあい、青年が笑った。

 いとしい。

「花を」

 アプリコットの囁きに、青年は涙とクリームにまみれた顔を上げた。

「花を、買いたいんです」

 でも、お金がなくて。その代わりにと、アプリコットは青年のてのひらにリボンの掛かった小さな箱を乗せた。蓋を開けると、青に沈んだ金星がちかっと光る。

「たくさんのお花をください」


   *


「おかえり」

 楽しんできたかい? と尋ねるディディエに、アプリコットは肯いた。後ろ手に持っていた花冠をぱっと出して、ディディエの頭の上にのせる。

「おみやげです。よくお似合いですよ」

 アプリコットはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。

 ディディエは花冠を手に取りじっくりと眺め、その出来栄えに、ほう、と息をついた。色とりどりの花が一本一本丁寧に編まれている。ディディエがその花弁を指先でなぞると、萎れかけの花に瑞々しい輝きが戻った。

 ディディエは花冠をまた頭の上に戻して、にっこりと笑った。

「ありがとう」

「いいえ」

 幸せのおすそわけです、と紡いだ唇は、たおやかな微笑(びしょう)をのせていた。アプリコットの面差しは、ほころぶ花のようで、はっとさせる美しさを持っている。

 ディディエが目を瞠った。

「恋をしたんだね、アプリコット」

「わかりますか」

「わかるさ。きみをつくったのはぼくなんだから」

 きみはもうすっかり一人前の淑女(レディ)だよ、とディディエが言った。それを裏付けるように、アプリコットはいつにもまして甘くかぐわしい香りを身に纏っている。

「もったいないなあ。きみを食べてしまうのは、とても惜しいよ」

「ですが、そうしなければ、わたしはただの生ゴミとなってしまいます」

「それこそもったいない!」

 ディディエはおどけたふりで返して、テーブルに並べられたナイフとフォークを掴んだ。曇りのない銀の食器。アプリコットが前もってぴかぴかに磨いたものだ。

 銀のナイフにうつったディディエの顔は、ぐにゃりと歪んでいる。

 アプリコットは、ディディエの頬に手を添えた。全てを見透かしたマスカットグリーンの瞳で、ディディエを見つめる。

 アプリコットが口を開いた。

「おいしいお菓子を食べると、ひとは笑顔になります」

 寂しさだって、薄らぐはず。

 そうだね、とディディエは囁いて、アプリコットをゆるく抱きよせ、そのひたいに親愛を込めたキスを落とした。銀色に輝くフォークの切っ先を、アプリコットの胸の真ん中にそっと押しあてた。

 ディディエは笑った。

「きみを食べるこのときを、ずっと楽しみにしていたんだ」

「光栄です」

 アプリコットはまどろみに身を委ね、微かに震える睫毛を下ろした。

 優しい声が降りそそぐ。

「おやすみ、アプリコット。いい夢を」

「はい」


 召し上がれ。


Fin.


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