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贄の王  作者: どんより堂
9/22

9 一日

「朝だよ、秋津くん」

「わかりました」

 加治の声だった。返事はしたものの、目は開いていない。声をきっかけに、覚醒が始まったというところだ。睡眠は足りていない。身体は今も重く、頭はぼおっとしている。目を開けた。加治が私を覗き込んでいる。

「広場に集合だ。いいね」

「大丈夫です」

 私は身体を起こした。加治はすでにログハウスを出ようとしている。

「じゃあ、待っているよ」

 手を振って、彼は外へ行ってしまった。沙織もすでに広場なのだろう。クラブハウスは静かだった。立ち上がる。よろめいた。疲れているのか、それとも、心が折れかけているのか。まだ何もしていないというのに。

 洗面台へ行く。鏡があった。目の下に隈がある。ふん、と自嘲した。

 外へ出ると昨日見た面々はすでに広場に集まっている。

 光月陽一も、いた。

 陰気な顔をして立っている。もうすぐ、その顔を昨日の樋口加奈子のようにどす黒く染めてやる。

 他に、知らない顔が二人。一人は化石のような老人で、もう一人は小さい男だった。中年で不自然に頭が大きく、見ていて不気味な存在である。二人は並んで立っており、ここで合宿をしている人たちは、彼らに対峙するように、横一列で並んでいる。

「この男は?」

 化石のような老人が、魔界から響くような低くしわがれた声で問う。

「異邦人、ですよ」加治は彼をまっすぐ見つめている。

 他の連中は、うつむいていた。そういえば、正丸の姿がない。

「お前の考えか?」

「ええ、僕の考えです」

「ならば、勝手にしろ」

 王に向かって横柄な口をきくこの老人は、何者なのだろう。昨日は確かにいなかった。

「何か、変わったことは?」

 私の存在などどうでもいいようで、さっさと話題を変えてしまった。

 そして、いつも偉そうに余裕の態度でいる加治が、なぜか今は真剣だった。老人に対する敵意さえ感じられる。全てが思いのままであるはずの、六人村の王なのに、だ。

 その王が、老人の問いかけに返答する。

「二人、死にました。樋口加奈子と正丸義道です」

 意外な人数。意外な人物。

「えっ」私は無意識に声を出していた。

 富士見兄弟が視界に入る。二人は、それぞれに何かを引きずっていた。目を凝らすと、その正体がはっきりする。死体だ。二体の死人を、富士見兄弟は樋口老人たちが乗ってきた車へと引きず――いや、運んでいるのだ。本当に、二人死んでいる。

 加治は首だけを動かして私を見る。

「聞こえなかったかな。死んだのは、樋口加奈子と正丸義道の二人だよ。知り合いかな?」

 心臓が跳ねる。思考が一瞬、飛ぶ。まずい。冷静さを欠いていた。ばれる。反応を間違った。老人も私を見ている。他の面々も、うつむいていながら、上目づかいで私を観察していた。それだけ私が窮地にいることがわかる。

 どう答えればいい? 頭の中で正解が出る前に、恐怖から口を開けてしまった。

「一人、死んだのは知っていましたが、もう一人とは」

 自分でも中途半端だと思った。老人の目が鋭くなる。加治の顔には何の感情も見られなかった。ここからどう展開すれば、窮地を脱することができるのか、全く見えてこない。だが、沈黙はもっと危険に感じられた。

「私は誰が殺したのか、知っています」

 昨夜の椎名の反応を思い出す。六人建設の副社長である司馬を、殺人者として告発しても無意味なのはわかっている。ただ、時間稼ぎにはなるだろう。今は、一分一秒でも欲しい。

「だろうな」

 老人が無感動に言い放った。加治は肩をすくめて、首を横に振っている。

 司馬は、薄笑いを浮かべているかと思ったが、予想に反してうつむいたままだった。静かに目立たないようにしている。

「二人が死ぬのを黙って見ていたのかい。君はそれでよかったのか?」加治が言った。

「私が見たときには、樋口加奈子は司馬によって絞め殺される寸前でした。それも、距離があった。たとえ走ったとしても、命を救うことはできなかったでしょう」

「それでも走るのが、善良な人間のすることでは?」

「人が殺される場面を見るのは初めてでした。気持ちはあっても、とっさに行動に移せるほど、私は強くありません。恥ずかしい話ですが」

「なるほど。それもまた人間らしい行動だね」加治は一つうなずく。「司馬くん、秋津くんの話に間違いはないのかな?」

「はい、間違いありません」司馬は顔を上げた。苦々しげに私をにらんでいる。

 老人が鼻をならした。「相変わらずだな。加治が副社長に選ばなかったら、とっくに殺しているわ」

 老人の悪意が司馬に直接向けられる。先ほどの加治に対しての態度といい、老人は彼らの立場をじゅうぶんに認識していながら、それを気にしている様子はなかった。彼は特殊な位置にいるのだろうか? ただ単に老人だからだろうか?

「正丸義道の死因は?」

「首にうっ血した痕がありました。おそらく絞殺でしょう」加治が説明した。検分はとうに済んでいるのか。

 樋口老人の視線の先は、変わらず司馬だった。

「義道を殺したのも、お前か?」

 彼は嫌悪感をむき出しにしていた。軽蔑、以上の感情が事情を知らない私にも伝わってくる。司馬は司馬で、加治と同じく彼に敵意を見せ始めていた。それでも口を開いたのは加治だ。

「彼は殺していません。殺すのは好きですが、無節操ではありませんよ。外部の人間に惑わされてほしくはないですね」

「お前の価値観など、知ったことか。まあ、いい。どうせ詮索は儀式の後だ」

 老人が吐き捨てる。そして彼は私を見た。

「異邦人、名前は?」老人が私を見た。

「秋津信彦です」

「お前も、つまらんことで騒ぐな。お前は異物だ。おとなしくしていろ」

 私は何も言わなかった。ただ、老人をまっすぐに見つめる。彼の目に怒りと憎悪が芽生えたように思えた。しかし、私には何も言わない。矛先は加治に向いた。

「今日の食料と着替えを置いていく。食料は昨日の人数分用意してある。二人も欠けたのだから、この男も腹を空かすことはないだろう。いいな、これは私の温情だ。また明日の朝に来る。できる限り、勝手なことをするな。お前は六人村に保護されているにすぎない。自分の力だと思うな」

 老人は去っていった。やはり、自動車は彼のものだった。存在を忘れていた頭の大きいチビの中年男も彼とともにこの場を離れていく。代わりに青いケースが置かれていた。中には弁当箱らしきものがはいっている。これが、彼らの温情とやらなのだろう。

「一日一回とはいえ、毎日だとなかなかのプレッシャーだね。みんなもお疲れさま。今日はこれでおしまいだ。各自、自分の弁当と着替えを持って帰ってくれ。それで、あとはもうのんびりしよう」

 加治が候補者全員に呼びかける。みな、思い思いにリラックスしていた。加治は伸びをし、司馬は肩をほぐしている。安堵の息をつく声も聞こえた。椎名を見ると、彼もほっとした顔をしている。巻き込むべきではないと思い、彼のことは口に出さなかったが、それは正しかったようだ。子供に大人のむき出しの感情は毒に決まっている。

 私も弁当とペットボトルのお茶を三つずつ持ち、黙って加治のログハウスに戻った。加治が「よければ正丸さんの着替えを持ってけば? 着れるかはともかく、試すのはいいんじゃない?」と私に提案したが、正直気持ちが悪くて受け取らなかった。今着ている服は土で汚れており、不快でしょうがなかったが、それでも死者のために用意された服はいやだ。

 弁当をもらうとき、車に乗せられた樋口加奈子と正丸義道の遺体を改めて目にした。樋口加奈子はともかく、正丸義道の死はまだ信じられない。だが、確かに彼は死んだ。まるで、私から何か不都合な事実を隠すように。

 

 食事の後、加治が私のもとに来た。といっても、私は彼のログハウスの居間にいるので、不自然でも驚くべきことでもない。

「どうだい? 一夜明けて」

「目の前で人が死ぬのは初めてです。同時に二人の死者を見たのも」

「それはそうだろう。でも、食欲はあるようだね」

 加治の目線が私の傍らにある弁当へと向けられる。確かにその通りだった。思い出すと嫌な気持ちになるが、逆に言えばそれだけだ。ありがたいことだった。私はこれから、光月陽一を殺さなければいけないのだから。過ぎたこと、それも私に無関係なことに心をくだいている暇はない。

「生きるためには、食事が必要です。ひどいかもしれませんが」

「いいや、間違ってはいないよ。生きるために食べる。大事なことさ」

 加治が笑った。広場のときよりも、穏やかな表情である。

「質問、いいですか?」

 彼は黙ってうなずく。

「先ほどの老人と男性は、どういった方なんですか?」

「ああ、あの人たちね」彼の眉がゆがむ。「村の古老で、儀式の見届け人だよ。毎朝、状況の確認と食事と着替えの運搬にやってくる。王になる資格がない分、好き勝手やってる人たちでね。苦手なんだ」

「富士見兄弟と同じような?」

「ああ、そういえばそうだね。ただ、違うところもある。富士見兄弟の家は、六家に入っていない。彼らの先祖は六家とは関係ない移住者だったんだけど、見張りの役割を引き受けることで、村の発言権を多少なりとも強くしたかったようだ。六家にはさげすまれているが、他の住人には大きい顔をしている……今となっては、微妙な立ち位置だね」

「では、先ほどの老人たちは?」

「見届け人は六家の人間。ただし、分家で、それも家を継げる順位がかなり低い。例えば、あのご老体が本家の当主となるためには、十人以上の人間を押しのけないといけない。数代前の本家の兄弟だったんだ。本家に何人も息子がいて、孫がいて……という現状では彼がこの儀式に候補者として参加できる可能性は限りなく低い。だからこそ、見届け人たりえるんだけどね」

「どういうことですか」

「儀式の成り行きに私心がからみづらい」

「でも、王が自らの家から出れば、それは利益となるのでは?」

 加治はため息をついた。できの悪い生徒を見つめる先生のような目で私を見る。

「だから、『からみづらい』と表現したのさ。利益となるのは百も承知だよ。しかし、見届け人を六家以外から出すリスクを思えば、目をつぶるしかないのさ」

 私は肩をすくめた。言いたいことはわかるが、心情としては受け入れがたいものがある。もっと合理的な社長選出の方法があるのでは、と考えてしまう。もちろん、それが傲慢な理屈であることも自覚している。

「何事も、理由はあるんだよ」

「でしょうね」言葉だけでなく、彼にうなずいてみせる。「ところで、私は今日、どうすればいいんでしょうか? この部屋に閉じこもっていたほうが?」

 加治が苦笑した。

「いや、好きにしてくれていい。どこに行ってもいいし、何をしてもかまわない。ただ、僕のいないところで、君の命の保証はできないよ。全ては自己責任ということで、よろしく。わかっていると思うけど、君の立場は非常に危うい。富士見兄弟は無断で外に出ようとする君を殺すだろう。この空間で死がどのようなものか、すでに知っているはずだね」

「ええ、もちろん」

 監禁されないだけまし、なのだろう。ただ、これをチャンスに変えるには、もっと六人村の掟を知らなければいけない。

「じゃあ、僕は行くね。弁当は美味しかったかい?」

「はい、とても」

 嘘だった。正直、とても食えたものではない。米の飯に、何品かの野菜。どれも冷え、味はついていなかった。色もくすんでいて、腐っていないことが驚きだった。食べなければ動けないからと、無理やり口に押し込んだのだ。

「いいさ、秋津君。美味しいとは誰も思っていない」

 表情に出ていたのだろうか。意識して隠さないと、命取りになりそうだ。

「では、もう僕は行くよ」

「加治さんは何をされるんですか?」

「暇つぶし。誰か出会った人と雑談でもしようかな。僕らはここにいることが義務なのさ。何かしなければいけないわけじゃない。退屈で死にそうだけれど、しょうがないね、これは」

 加治がログハウスから出ていく。

 ここには、彼女の妹の沙織がいるはずだった。だが、物音一つ聞こえない。寝ているのだろうか。彼女の勝気そうな顔を思い出す。どちらにしろ、私一人では警戒されて、まともに情報を引き出せるようには思えない。

 私も椎名と話をしようとログハウスを出た。光月のところへ行くにはまだ早い。準備がいる。

 日差しがまぶしい。むっとする熱気が私の全身を包む。すぐに汗が吹き出そうだ。

 改めて、この儀式の場を見渡す。昨夜の印象よりも、ずっと広い。樋口加奈子が死んでいた痕跡は見当たらなかった。昨夜の記憶を頼りに、椎名がいるであろうログハウスの前まで行く。どう声をかけたものかわからなかったが、とにかくドアをノックした。室内から足音が近づいてくる。

「あ、秋津さん」

 ドアを開けた椎名が私に笑いかけた。ありがたいことに、すっかり知り合いになったらしい。性格の差か、大人と子供の差か。どちらにしろ、椎名は無邪気だ。多分、歳のわりには。

「どうぞ、入ってください」

 私は彼の厚意に素直に従った。昨日と同じ場所に腰をおろす。

「ここは、退屈ですからね。来てくださって嬉しいです」

 何のてらいもなく、椎名はいう。同じ事を他の人間がいえば、きっとお世辞にしか感じられなかっただろう。

「加治さんが、ここにいることが義務といっていたけれど、候補者は本当に何もすることがないのかい?」

「全く、です。テレビはないし、本の持ち込みも禁止されている。CDだってそうです。娯楽だけじゃない。夏休みの課題さえできないんですよ!」

 それはそれで気楽なんですがね、と椎名は笑って付け加えた。

 外部の人間である私からすれば、不思議な決まりだと思う。ただ、すじが通っている気もする。閉鎖空間での共同生活で、互いの人間性、さらには自分自身を見つめる。それが、候補者たちに求められていることなのではないか。

 そう考えると、椎名は他の候補者と話をするか、一人でいることを徹底するかしたほうがいいのかもしれない。

 余計なお世話だと思ったが、私は自分の考えを伝えた。

「かもしれません。でも、僕はいいんです。そういうのは、好きじゃない。なじめないんですよね、ここの人たちに。秋津さんならわかると思うんですけど、かっこ悪いじゃないですか」

 理屈がよくわからないところに若さを感じる。それに、勝手に同類項にしているところも。彼が私に仲間意識を抱いているのは、私自身の魅力とは何も関係ないだろう。椎名智之は、都会に憧れていて、自分が都会にふさわしい人間であると思っている。だから、『都会』に近い私は憧れであり、近しい存在だと信じたいのだろう。私はそれほど都会ではない。

「加治さんの妹、沙織さんは君と同じくらいだと思ったんだけど、彼女とは親しくないのか?」

「沙織? ああ、同級生ですから話くらいはしますよ。でも、やっぱり男と女は違うんですよ。彼女も外に出たがっているみたいですが、話題がどうも合わない。……それに、王の妹ですし。遠慮しますよ」

「妹も別格か」

「いやいや」椎名が手を振って否定する。「王がシスコンなんで」

「シスコン?」

「シスターコンプレックス。妹大好き人間なんですよ。近寄る男を快く思わない」

 意外だった。もっと飄々と世の中を達観していると思っていた。加治にも案外、人間味があることに、少しほっとしてしまう。

「それは大変だね」

「想像以上に、大変ですよ」椎名はわざとらしく疲れた顔をつくる。

 社会に出たらそんなことの連続だ、と説教しそうになり、あわてて話題を変えることにした。

「ところで、君が昨日話したように、本当に候補者は補充されるんだな。正直、不思議な気分だ。閉鎖空間に候補者を置くにもかかわらず、中の人間は一定の数が確保されるなんて」

「そうですか? 大事なのは、誰が継ぐかではなく、どこの家が継ぐか、です。だから候補者は替えがきくんです。もちろん、『家』という枠組みで考えたときの話ですが。ただ、血統が重要になるんで、名字が違ったりしますけど」

「へえ、そうなのか」

「加奈子さんの代わりに明日来るのも、光月陽一さんなので名字は違ってますが、血統的には序列一位になりますからね」

 ――え?

 どういうことだ? このタイミングで聞くはずがない名前が聞こえたような気がする。大きな間違いを犯したのか? 焦りが、全身をつつんだ。

「今、なんていった? 名前、明日来るのは誰だ?」

「陽一さん、光月陽一さんです。お知り合いですか?」

「いや、人違いだった」

 彼にさえ動揺を隠し通せたように思えない。

 これは一体、どういうことだって?

 光月陽一は、あの骸骨のようにやせた中年の名ではないのか?

 私は率直に彼の名前を椎名にたずねた。

検見川俊夫けみがわとしおさんです」

 実にあっさり答えが返ってくる。しかも、予想もしなかった名前だ。

「あ、そう。変わった名前だね」

 無関心を装おうとしたが、思った以上に語気が強かったらしく、椎名の顔におびえが浮かんだ。

「ごめん、そんなつもりじゃなかった」

「いえ、いいんです。こちらこそ、すみません」

 椎名の謝罪に胸が痛んだ。だが、理由を教えられない。嫌な感覚が心に残った。

 光月陽一は、ここにいない。あの中年は光月ではなかった。私とは無関係な人間だったのである。だが、本物の光月陽一はこれから来る。明日の朝には顔を合わせることになる。結果オーライと考えるべきだろうか。肯定しきれない。

私の目的は光月陽一の殺害である。非力な私が成功するには計画性が必要だった。

標的に思惑と違う動きをされることは、計画の瓦解につながりかねない。

六人村の儀式は、かなり特殊なルールで運用されているようだ。どのように儀式が進行しても問題がないよう、準備をしておかねければいけない。

 私は内心でため息をついた。結局、情報が足りない。そこに行きついてしまうのだ。

「ところで、あの、司馬って人はどういう人間なんだ?」

 怖がらせないよう、ことさら私は明るくいった。人殺しの話題なのは、自分でもひどいと思うが、他の話題をふるのは不自然さを助長してしまいそうだった。ここで、都会の話を出したところで、椎名は私の意図に感づくだろう。昨日のことを覚えていれば、私が司馬のことを聞くのは自然と考えてくれるはずだ。

「変、ですよね、やっぱり」

 どこまで通じたのかはわからないが、椎名はほっとした様子を見せる。とはいえ、気まずい空気が完全に払拭されたわけではない。

「僕もなんとなく異常だってのはわかります。でも、それ以上に、彼が六人村で生きていけることには違和感がないのかもしれません」

「怖くはないのか?」

「あの人は頭がいいんです。いくら六人村の中でも、むやみに殺すことはしません。暴力的だったり、ひどくネガティブだったり、誰もがあの人は殺されても仕方がない、そう思っている人を殺すんです。だから、今の僕は殺されない」

 椎名の屈託のない笑顔が、話題とかけ離れていた。彼に悪いと思ったが、少しだけ気持ちが悪い。彼と私の間にある決して越えられない溝の存在に気付いた。だが、その感情は押し殺す。今の私にとって、そんなものは不要だった。いや、むしろ邪魔だ。

 だから、私も彼に向かって微笑みかけた。「なるほどね、確かに君のいうとおりだろう」

「そうですか。いや、そんなことないかもしれませんが。とにかく、ありがとうございます」

 まんざらでもないようだ。この少年は、あまり人から褒められていないのかもしれない。序列が決まっている閉鎖的な集落ではそれもしょうがないのだろう。

 椎名は世間知らずで年相応の純朴さを持った少年だった。

 彼を利用できないか考えている自分に嫌気がさしてくる。たとえ、それが私にとって必要悪だったとしても、もっと優先すべきことがあるような気がしてきた。

「――こちらこそ、ありがとう。今日はこれで失礼させてもらうよ」

 私は立ち上がった。椎名が顔を曇らせる。一刻も早く、この場から離れなければ。その気持ちが強くなる。

「また来てください。なんといっても、暇ですからね、ここ」

 私が彼に何をしてやれただろうか。自分の聞きたいことだけ聞いて、居たたまれなくなって帰ろうとしている。

 だが、気にしてもしょうがないのだ。己の器の小ささ、いや己の思い切りの悪さが嫌になる。何を思おうと、彼にできることなどない。彼の望む都会の話をしてやるような、心の余裕さえなかった。格好の悪い話だ。

 外へ出たとき、私はため息をつくことで、全てを忘れることにした。

 

 司馬と話そう。

 次は、椎名に対するような罪悪感を抱かなくてすむ相手から、情報収集をしたかった。危険ではある。だが、どうせ遅かれ早かれ会うつもりだったのだ。かまうことはない。

 とはいえ、広場に出てみたものの、司馬のいるログハウスはわからない。

 どうするか。今までの私ならどうすることもできずに途方に暮れていただろう。今なら違う選択肢が出てくる。まあ、単純に、しらみつぶしにあたってみるというだけだが。昔は引っ込み思案で世界を遠くから眺めているような気分で生きてきたが、今の私は、彩花のために舞台にあがったのだ。私が行動しなければストーリーは進まない。

 私は向かい側にあるログハウスに向かった。理由は目についたから、でしかない。

 しかし、半分ほど歩いたところで、富士見兄弟が近づいてきた。

「異邦人、どこに行くつもりなんだ?」

 兄の克己が言う。それにあわせて、和樹が「勝手に動くとは図々しいね」と自分の感想を口にしていた。

 この二人は好きになれない。私は肩をすくめた。

「つもりだけなら、ここを出たいですね。でも、それは許してくれないでしょう?」

「当たり前だ」やはり、兄が先に口を開いた。「お前の疑いがはれたわけじゃない」

「王の許可があったとしても、油断をしてはいけない」

 弟がゆっくり首を振る。そんなもったいぶった態度も気に食わなかった。

「ここは時間がたっぷりある。異邦人ならなおさら。それだけですよ」

 はん、と笑ってみた。できる限り力なくしたつもりだったが、予想外に力が入ったのかもしれない。二人が眉間にしわを寄せた。

「昨日は命乞いをしていたくせに、今日はひどく元気だな」

 兄弟そろって、一歩、私に近づいた。嫌な予感がする。暴力に訴えそうな雰囲気だ。かといって、退くわけにはいけない。根拠はない。動物的な勘だった。隙を見せれば、彼らは私を下に見る。その序列は、よほどのことがない限り変わらない。二人の顔を見れば見るほど、確信に近くなる。

 少なくとも、あと数日は対等以上の関係でないと困る。彩花の仇を討つのに、余計なハンデは負いたくない。

 私は首を横に振った。

「元気じゃありませんよ。不安と孤独で、人恋しくなっているんです」

 嘘ではない。ただ、全てでもない。

 兄弟は笑った。

「好きにしろ。俺たちの気に障らない範囲でな」

 そう言って、私から離れていく。もともと、私に因縁をつけたことに、さしたる理由はなかったのだろう。彼らも暇なのだ。そして、彼らは精神的に未成熟なのだ。椎名の成熟ぶりと対照的だった。いや、この差は六家とそれ以外の家に存在するものなのかもしれない。精神の成熟度の差は、村の立場の差を表している可能性がある。六家が思考し、それ以外はただ従うだけ。富士見兄弟が私にかみついたのは、その反動なのか。あっさり引き下がったのは、自分たちも無意味な行動をとっていると知っているからか。

 私はもう一度、首を振った。今度は否定ではなく、余計な思考を頭から排除するために。富士見兄弟にかかわっている暇はない。

「ずいぶんと、やつらに気に入られたな」

 後ろから声がして、振り向く。

 会おうと思っていた司馬がいた。

 昨日と、そして今朝と同じく、髪を後ろへ撫でつけている。鋭い目で私を見ていた。彼の瞳からは、不審でも嫌悪でもなく、私を推し量っているような不思議な光が感じられる。少なくとも、そう思わせる何かがあった。

 殺人者でなかったとしても、警戒すべき相手だろう。

「手を出されなければ、問題はありません」

 感情は極力抑える。言葉を発することさえ、利用されかねない。

「俺に対する嫌味か?」

「私に手を出そうと思っていたんですか?」

 司馬は不敵に笑った。「昨日言ったとおりだ。俺だって、相手は選ぶさ」そして、付け加える。「俺と話がしたいなら、俺のログハウスに来ればいい」

 負けたくない。胸に湧いた感情により、私は彼の申し出を受けた。

 司馬のログハウスも、他の人のものと同じである。外観からは見分けがつかない。

 私たちは唯一の部屋で向かい合うように座った。私は椎名のログハウスにいたときと同じ位置に腰を下ろしている。無意識だった。そういえば、司馬の位置は先ほどの椎名の位置でもある。何かしら通ずるものがあるのだろう。もしくは、私にそうさせる何かがあるのかもしれない。ただ、二人の私に対する感情は正反対だと思われる。

「聞きたいことが、あるんじゃないか?」

 唐突に、司馬が切り出した。

 心の準備が整っていないが、誘いに乗らない手はない。

「人を殺すのは、楽しいですか?」

 私は、正直に言った。私が最も彼に聞きたいことだ。そして、聞かなければいけないことだと思ってもいた。ただ、必要だと感じている理由が、復讐者としてなのか、人間としてなのかは、定めきれていない。

 司馬は余裕そうだった。動揺など、ひとかけらも覗かない。

「お前もマスターベーションをするだろう? それと同じことだ。毎日必要ではないかもしれないが、まともな生活を送るには、欠かすことができない行為と言えるな」

 私を試すような目で見ている。

「理解できません」

「理解する必要はない。そもそも、誰も求めちゃいないんだ。君は勝手にここに来ているだけ。ここにはここのルールがある。俺はその中に収まっていて、君は外れている。外の世界の理屈がどうだろうと、邪魔者は君なんだ。忘れるな」

 司馬は怒っているわけでも、脅かしているわけでもない。笑っている。私が孤独と笑っているのだ。彼は揺るがない。

「でも、マスターベーションと違うところもある」司馬の戯言がまだ続く。「わかるか?」

「考える気も起きません」

 私の返事に、司馬は笑った。

「正義感ぶるな、偽善者が。俺の話が聞きたかったくせに」

 司馬の言葉は癇に障るが、もっともだった。確かに私は、自らの常識で話を進めようとしている。それが無駄だとわかっているはずなのに。

「すみません。そういうつもりじゃありませんでした」

 殺人鬼に謝るのは、ずいぶんと気持ちが悪かった。

「まあ、いい。君は善人じゃあないが、変人でもない。外の人間は、大抵同じような態度を取る。見慣れているよ」

「そうですか」返事はするが、どうしても気持ちが入らない。司馬に偽善者と呼ばれて困ることなど何もないだろうに。

「で、君の答えを聞いてない」

 よく聞こえなかったが、聞き返す気にはならなかった。司馬の殺人とマスターベーションの差、というやつか。私の人生で、ここまで最低な質問にであったことはない。だが、仕方ない。

「一人でできるか、できないか、では?」

 司馬は目を見開いている。驚いているようだ。「正解だ。当たったのは、君が初めてだ。まあ、片手に数えるほどしか聞いちゃいないがな。なんだ、ただの同類か?」

「ご想像にお任せします」

「そうさせてもらおう」司馬が皮肉げな笑みを浮かべる。唇が不自然なほど歪んでいた。「俺はマスターベーションで満足できる人間がうらやましいと思っている。いや、セックスでもいい。あれは双方の合意があればできるからな。でも、俺の殺しは違う。相手の同意は得られない。だから、俺の行為は一方的だ。それに、選び方も違う。俺は自分の好みで殺しができない。殺してもかまわない人間を探して殺すしかない。これが大いに不満でね」

「だから、二人を殺したんですか?」

 司馬が自分勝手な理屈を語り始めたのが不快になり、私は強引に話の方向を変えようとした。ただ、単純に話を変えただけではない。これも気になっていたことだった。朝、加治は否定していたが、司馬は限りなく黒に近いように思える。樋口加奈子をあのように殺せた人間が、正丸義道に手をかけなかったと素直に信じる理由はないだろう。

 司馬はやはり全く表情を変えずに、首を横に振った。

「残念ながら、お前の期待には添えないな。樋口のおばさんはやったが、正丸は俺じゃない。一度に二人は、食いすぎだ」

 

 司馬の言葉を信じるかどうか。私は決められなかった。ただ、彼と一緒にいる必要もないと感じ、外へ出る。司馬は別段引き留めようとしなかった。そして、特に何かを言うわけでもない。彼は私をどのような存在と捉えているのだろう? また機会があれば聞いてみようと思う。嫌な気持ちになるのだろうが。

 私は加治のログハウスに戻った。寝室の扉は閉められている。ただ、そこから人の気配はしない。

「やあ、おかえり」

 加治が居間にいた。椎名や司馬のログハウスで私がいた場所に、彼が座っている。逆に私は椎名や司馬が座っていた場所に腰をおろした。

「何をしていたんだい?」

 朝のことが夢だったかのように穏やかな顔に戻っている。とはいえ、この空間の異様さに、温和な表情があっていない。かえって心がざわめいた。

「人と会ってきました。この儀式のこと、六人村のこと。知ることができたのは、大雑把な概要だけですが」

「とも……いや、椎名君あたりかな?」

 椎名の顔を思い浮かべ、少し心が痛んだ。加治にも予想がつくくらい、椎名は話しそうな人間だった。ここにいる連中からしたら、私は椎名を利用しただけに見えるだろう。そして、それが大きく外れていない。

 私は加治の言葉にうなずいた。

「ふうん。順調だね。どうだい? 村のことや儀式のことが、わかってきたかな」

「知識としてなら。ですが、その意味までは共感しかねます。正直に言って、殺人者が平然としているところが特に」

「ははあ、それはもっともな話だ。でも、司馬の事情は六人村の本筋ではないことはわかっているよね? まあ、彼が許されているのは六人村の副社長だからで、その立場にいるのは、僕のおかげなんだけど。とにかく、とにかく、六人村はそういうところだと認識しておしいな」

 加治が茶目っ気たっぷりに笑う。

 肯定も否定もしづらい。人の死を脇ととらえてしまっていいものだろうか。はっきりと自分の意見を口に出すのが、危険に思えた。私は、客人なのである。いや、囚人のほうが近いだろう。常識の通じない場所で、今はかろうじて懲役刑で済んでいるが、いつ死刑に変更されるかわかったものではない。懲役はいい。まだ彩花の仇を討つ機会がある。しかし、死刑だけはいけない。なんとしても避けなければいけない。

 私は、話を元に戻されるかもしれない不安を抱きながら、あえて題を変えることにした。賭け事は嫌いなんだが。

「私は、自分の置かれた立場を明確にしたい。だから、ここの人たちと会って話を聞いています。しかし、加治さん。あなたが私にそれを求める理由はわからない」

 加治は、私の目を見据えた。鋭さはない。ただ、心の奥底には何かどろりとしたものが粘ついているように感じた。朝の真剣さとも違う、もっと異様な何か。六人村らしい、何か。

「知ろうとするのは悪いことじゃない。しかし、知りたいと態度に出すことは決して賢いやり方じゃない」

「私は部外者です。見ず知らずの人々に何も語らずに意図が伝わると思うほど、虫のいいことは考えていません」

「へえ」といって、加治は沈黙する。

 私の言葉の真意を探ろうとしているのか。それとも、単に揺さぶろうとしているのか。もしくは、想像を超えた意味があるのだろうか。

 私は、彼の目から視線を外さなかった。子供の喧嘩のようだが、他にとれる選択肢がない。彼が話を続けるぎりぎりのところで、私は自分の主張をしなければいけない。

 ふう、と突然、加治が息を吐いた。

「ご大層な話ってわけじゃないよ。単純に、君に知ってほしいだけさ」

「何を、ですか?」うまく声が出ない。

「僕たちだって、自分たちがいびつであることを理解しているってこと。そして、そんなものはクソくらえだってこと」

 ずいぶんと似合わない言葉だ。「クソくらえ」なんて、一体、いつの時代の言葉だ。おかげで、彼の言いたいことが、うまく頭に入ってこない。どういうことだ? 六人村の人間は、自分たちが不自然な『常識』で生きていると自覚しているという意味か。そもそも、『自分たち』の『たち』とはどこまでを指すのか。加治と沙織だけなのか、司馬も入るのか、今朝の老人も入れていいのか。そしてそれを、私が知ってどうするのか。もっともらしい言葉と見せかけて、これほど意味不明なのも聞いたことがない。

 私がどう返答すべきか悩む前に、なぜか加治が話を続ける。

「君には、期待している。通りすがりの君だからこそ、できることがある。いや、もっとフェアに話そう。君には、六人村に囚われている人々を解放してやってほしい」

 加治は私に何を伝えようとしているのだろうか。

「私には、その資格も権利もありません。そもそも、あなたがたの問題に立ち入ることができないと思います」

 加治が首を横に振った。

「確かに、君に資格も権利もない。だが、生きたいと願うなら、少なくとも六人村の問題に無関係のままではいられないはずだ。それはきっと、義務になるだろう。六人村の問題は君の問題に変わるんだ」

 真剣な表情だった。ただの忠告ではない。私の魂に刻みつけようとしているようだ。しかし、彼の言葉は私の目的と合致していない。このまま彼の言葉に流されてしまうほうが、楽なのかもしれない。けれど、それではここにいる意味を失ってしまう。

「お言葉ですが、私は漂流者です。ご期待には添えません」

 拒絶を示したにもかかわらず、加治の表情は和らいだ。

「漂流者が無関係であることの証明にはならないよ。部外者が変革を行った例なんか、世界中にいくらでもある」

 言われても、これぞという具体例が思いつかない。チェ・ゲバラか桃太郎くらいか? 自分でも、少し場違いな例だと思うので、口にはしないが。

 代わりに黙ってうなずいた。

「心の底から納得したわけではないと思うが、頭の片隅に入れておいてほしい。君には君の役割があるはずだ。この場所でもね」

 

 その後は、たわいもない雑談に終始した。楽しくはない。趣味のことや最近のニュースなど、毒にも薬にもならない暇をつぶすためだけの会話だった。

 窓から差す光に赤みが増してきたころ、加治は自分の部屋へ引き上げていく。

 私は一人、残された。ふう、と息をつき、部屋の扉を閉める。加治の妹が帰ってきた気配はない。机の上に弁当が二つと500ミリリットルのペットボトルのお茶が二本、置かれている。もちろん、二つとも私のものだ。そういえば、昼を食べていなかった。

 意識をすると、急に空腹を感じる。弁当の一つを手に取り、蓋をあけた。昼と同じである。さほど大きくない容器の八割に白飯が入っている。そして、残りの二割には、煮干しと昆布。味気ない。どこかの店が作っているようなものではない。六人村の人間が作っているのだろう。

 新しい王を決める儀式の間、候補者たちは非常に禁欲的な生活を強いられている。

 娯楽はなく、食事も貧しい。ただ、他人と会話をすることぐらいしか時間をつぶす手段がない生活。王の資質を見るためのものなのだろうか。なぜか、私はそれが違うように思えている。これは、王となるための通過儀礼であるような気がしていた。選別するための試練にしては、何もなさすぎるのだ。加えて緊張感もない。私が会った候補者たちは、みな暇を持て余していた。

 物思いにふけるのはやめて、弁当に箸をつける。すでに冷たくて硬い。懐かしい味だった。子供のころは、いつも冷たいご飯ばかり食べていた気がする。

 私の育ての親は、私に興味がない人だった。幼いころから、遠い親戚から押し付けられた存在だと聞かされ続けた。

 食事はいつも自室で一人。残り物がほとんどだった。レンジで温めてさえもらえなかった。忘れられた日もある。でも、私は言えなかった。

 食事だけではない。学校に入ってから友人らしき存在ができても、友人を家に呼ぶことはおろか、外で遊ぶことさえ許されなかった。学校の時間割を確認し、帰宅時間を計算していたくらいだ。私から友人となりえそうな存在は離れていくし、私も他人とは距離を取るようになっていく。

 娯楽のたぐいも許してもらえなかった。おもちゃや漫画や小説はもちろん、居間にあるテレビも私が見ることは禁止されていた。

 だが一方で、不思議なことに大学までの最低限の金は出してくれた。

 生かさず殺さず。そうやって育てたかったのだろう。理由は全くわからないが。

 ともかく。

 冷たい食事は、心も凍らせる。

 大学で一人暮らしを始めてからも、自炊ばかりしていた。だが、いつも冷えてから食べていた。自分でも温かい食事を食べようと思わなかった。食べてはいけないように思えたのだ。

 私が、食べ物が美味しいものだと知ったのは、彩花と出会ってからだった。

 いや、食べ物だけじゃない。生きることに関する全ての喜びを教えてくれたのは、彼女だった。

 彩花と出会ったきっかけは、知人の紹介である。その知人は大学のゼミの仲間だった。大学以外では交流がなかった知人が、あるとき急に電話をかけてきたのだ。もちろん、銃を手配してくれた本間順平ではない。

「君に合いそうな人がいるんだけど」

 半信半疑、いや九割は疑だったが、だまされても失うものはないし、暇だったからという理由で、知人の指定する居酒屋に行った。五月の雨が激しい日だった。

 先に到着していた知人の隣で、ちょこんと座っていたのが、彩花だ。私の姿を見るや立ち上がり、

「正丸彩花です。今日はお忙しいところ、ありがとうございました」

 と、たどたどしく、でも早口で言うと、あっという間に座ってしまった。

 不思議な人だなあ、と私は笑ったと思う。自然と笑顔になったのは、あのときが初めてだろう。でも、話はあまりはずまなかった。私は女性と話す機会がほとんどなかったせいで、非常にあがっていたし、彼女も緊張していたようだった。結局その日は、携帯の番号とアドレスを交換したくらいで、知人が私に紹介してくれた理由もわからなかった。そういえば、知人も口数が少なかったような気がする。

 その後、どちらともなく連絡を取るようになり、少しずつ交際と呼べるものが始まった。明確な始まりはなかった。毎日のようにメールをし、休日平日問わず会うようになった頃、「わたしたち、付き合ってるよね」と彩花に言われて、ああそうなんだと思ったくらいだ。

 自分にそんな縁があるとは想像もしていなかった。恋愛や結婚など、自分とは違う世界の出来事だと考えていた。

 だから、最初は幸福よりも、場違いなところに迷い込んだような感覚が強かった。とまどいばかりで、あまりうまく彩花の好意を受け止められなかった。

 それでも、彩花は私に愛想を尽かすことなく、付き合ってくれた。

「なんか、放っておけないんだ」

 私のことを、彩花はそう言っていた。嬉しくもあり、照れくさくもあった。

 徐々に、私も彼女のことを人並みに愛せるようになった……と思う。自分では精一杯、この感情を表に出したつもりだが、彩花はどうだったのだろうか。

 ……。

 これ以上、考えるのはよそう。

 大事な食料を残すつもりはないが、目の前のまずい弁当は、ただ命を長らえさせるためのもので、それ以上でも以下でもない。少なくとも私にとっては。

 かきこんで、さっさと食べ終わってしまいたい。しかし、米の飯は冷たく固まっていて、噛んでも噛んでも唾液と混ざらず、口の中に留まろうとする。煮干しや昆布も同じだ。腔内にいることを至上命令とでも考えているのか、顎が痛くなるまで噛まないと、喉から先に進んではくれない。

 弁当の容器が二つとも空になったとき、心底ほっとした。

思い出と一緒に食事をするのはつらい。日は落ちていた。立ち上がり、部屋の明かりをつける。しかし、特にやることはない。本、テレビ、ラジオといったものはなく、私の携帯電話も取り上げられたままだ。寝てしまうことにした。

 黙って横になり、目を閉じる。一刻も早く意識がなくなるのを願った。

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