10 混沌
顎に激痛が走る。覚醒しきらないうちに、腹部にも痛みを感じた。無理やり目を開ける。頭はまだ働かない。夜は明けている。フローリングの床。寝る前と同じ部屋だ。ただ、足が何本も見える。今度は、足に衝撃を受けた。
「起きろ」
聞き覚えのある声だった。富士見兄弟の兄のものだ。
目の前の足が、顔面を襲った。一瞬、光が脳内を駆け抜ける。口の中が、また切れた。
「早く立て」弟の声だ。
「立ちますから、邪魔をしないでください」
うまく声が出ず、想像以上に卑屈な物言いになったような気がする。少し悔しい。しかし、兄弟の攻撃はやんだ。私は痛みをこらえて立ち上がる。
「おはよう」
強がりのつもりだったが、言った瞬間に二人から殴られ、壁に衝突した。膝が笑い、へたりこんでしまう。昨日よりも、機嫌が悪いようだ。
「お前は、なんてことをしたんだ!」
斜に構えていた兄が、感情を露わにしている。言うことはなくなったらしいが、感情は収まりきらないようで、私は胸倉をつかまれた。思った以上に喉を閉められ、呼吸するのも苦しい。気道が詰まり、咳きこんでしまった。真正面からそれを受けてた富士見の兄は、私を突き飛ばすように放した。私は再び、壁にぶつかる。背中が痛い。その間も、咳は止まらない。富士見兄弟の存在を無視し、私は呼吸を整えることに全力を注いだ。
少しずつ、落ち着いていく。
「さっさと立て!」
二人のうち、どちらかが怒鳴った。だが、暴力は加えられない。本当に立ち上がるのを待っているようだ。
私も事情がわからないまま殴られたくない。まだ息は乱れているが、立ち上がりながら声を出した。
「何が起きたんですか」
ごく当たり前のことを言うのに、ずいぶんと手間がかかった。
「よくもまあ、そんな間の抜けたことが言えるものだ」
「本当だよ。僕ならもっとましな言い訳をするね」
「言い訳? 私が言い訳しなければいけないことが起きたんですか?」
二人が同時に舌打ちをする。
「加治さんが死んだ。殺されたんだ」
「これで満足かい、犯人さん?」
こいつらは、何を言ってるんだ? 死んだ? 加治が? 殺された? なぜ、殺されなければいけない?
「私は犯人じゃない!」
「犯人はみんなそう言う、違うか?」
私が声を張り上げた代わりに、二人は冷静になったようだ。弟は兄の言葉を笑って聞いている。
「疑いをかけられれば、誰だって言います」
気圧されないように。それだけを気にした。また、私は窮地にいる。少しでも隙を見せれば、殴り殺されかねない。くそ、加治の死が本当ならば、こんな無駄な問答をしている場合じゃないだろう。
「お前は黒だ。それは間違いない」
決めてかかっている。私の弁解など、はなから聞く気がないのだ。話し合いはできない。しかし、この場は脱しなければいけない。
「死体を見せてください」
富士見の兄が口の端を歪めた。
「見せてくださいもなにも、お前はこれから広場へ連行される。それまでに嫌でも見ることになる」
私は背筋を伸ばした。「それでは、連れていってください」
「最初からそのつもりだ。お前に選択の余地はない」
兄がそう言うのを聞き、弟が私を馬鹿にするように笑った。好きなだけ笑えばいい。私は私の目的を果たすだけだ。
富士見兄弟が、玄関まで移動した。そして、加治の寝室を指差す。私も、彼らのそばに行き、寝室の中を見た。
なぜ、私は気づかなかったのだろう?
どうして私は、今の今まで寝ていられたのか。
目の前には、富士見兄弟が正しく思える光景が広がっていた。
部屋中が血に染まっている。壁や窓、床やベッド、ありとあらゆるものが、赤かった。その部屋の中心で、加治は死んでいる。誰が見ても明らかだった。見間違えようがない。これで生きていたら奇跡だ。絶対にありえない。
加治の胴と首は切り離されていた。
やはり全身が赤い。自らの血を浴びたようだ。
胴体はこちら側を向いて座禅を組んでいる。そして、両手で包むように頭部を持っていた。頭部も正面を向いており、血だらけにもかかわらず、実に安らかな顔をしている。
しかし、どう見ても穏やかな死ではない。胴体と首が離れている死に方が、まともな死であるはずがない。
お前はどうしてそんなに満足そうなのか?
加治があまりにも無責任に思え、怒りさえ湧いてきた。それと同時に、恐怖も。私の居場所を保証していたのは、彼だ。彼が死んだということは、私の立ち位置が危うくなることでもある。加治の死は私の死に直結しかねない。いや、すでにその状況だった。
「加治が、死んでしまった」他には何も言えなかった。
「しらじらしいね」兄か、弟か。どちらでもいい。
落ち着くために息を吸う。
血の臭いが、鼻を刺した。なまぐさい、死の香り。胃が拒絶をした。意識で抑える間もなく、内容物が逆流し、口から噴き出した。私にできたのは、死体にかからないよう、下を向くことくらいである。
「何をする!」
兄弟のどちらかに蹴られ、私は吐きながら、加治の方へよろけた。踏ん張ろうとしたが、口と足の両方に気を配ることはできなかった。頭から血だまりの中に倒れる。鼻と口に血が入った。鉄の味。死人の血。舌に感じる、他人。汚い、気持ち悪い。反射的にそう思った。また、吐く。喉が胃酸で痛んだ。同時に、咳き込む。最悪だ。血から逃れるため、私は這いつくばりながら後ろへ下がった。
「お前も、血だらけだな」
横から声がする。床には私が這ったところ以外に血はなかった。急いで身体を起こす。
「うわっ」
目の高さに、加治の首があった。いや、もう首から上はない。加治の首の切り口が、目に飛び込んできたのだ。目を逸らした。富士見兄弟のいる前で、露骨に視界から外すと、何をされるかわからない。とはいえ、首切り死体を正面から受け止める勇気もない。
半袖で、顔をぬぐった。どろり、と想像以上の血が袖につく。
肉体も精神も不快感を抱えたまま、私は立ち上がった。
「さあ、行きましょう」
富士見兄弟は黙ってうなずく。
私を先頭に加治のログハウスを出た。
広場には、すでに人が集まっている。
兄を失った沙織と椎名の未成年二人は、私の顔を見て青ざめた。血まみれの顔にショックを受けたのだろう。
司馬は薄笑いを浮かべていた。やはり、髪はオールバックである。自らのスタイルを確立させている快楽殺人者というのは、何度見ても不気味だった。外見だけではわからないが、そうとわかって見ると、どこかしら欠落がある人間に思えてくる。
彼の隣にいるのが、私がてっきり光月陽一だと思っていた、検見川俊夫だった。彼は私をにらんでいる。ただ、そのような表情をしているだけ、という印象もあった。威圧感はないのだ。
昨日の朝にいた外部からの監視者二人もいた。彼らは前日と同じく苦々しげな顔をしている。王が死んだのだから、その表情に違いはあるはずだが、私にはわからない。
そして、見知らぬ人間が二人、いる。
一人は、ハワイに観光旅行するときの現地ツアーガイドのような男だった。地味で平凡な容姿ながら、陽気で親しみやすそうな雰囲気を持っている。四十代だと思うが、肌は小麦色で張りもあり、若々しさは感じられる。
もう一人は、意志の強そうな青年だった。短髪で筋肉質な大柄の若者。私と同じくらいだろうか。死んだ加治が線の細い端整な人間だったのとは対照的に、彼は雄々しい英雄然とした魅力を持っていると言っていい。一瞬、彼が次代の王となっている姿が見えた気さえした。
二人とも私を見る目に何の感情も浮かんでいない。ただ、私から目を離そうともしていなかった。私という存在を凝視している。
私は、緊張した。
二人の内、どちらかは必ず光月陽一である。私の人生に唯一光を与えてくれた存在、正丸彩花を殺した人間なのだ。それなのに、私は怒りよりも緊張が上回っていることに愕然とした。武者震いのたぐいであればいいのだが、冷静に自分を顧みる余裕はない。
「来たな、秋津信彦」監視者の一人、老人が言った。
私はうなずくこともなく、黙ったまま、老人の真正面に立った。
「儀式が始まってから今日まで、王が途中で死ぬことはなかった。お前が来たからだ。そう思わないか?」
「思いません。私は全くの部外者です」
傲岸そうな老人は、首を横に振った。
「部外者にはただちに死を与える。この儀式の掟だ。しかし、お前は死ななかった。なぜなら、お前を生かすことを王が望んだからだ。王は掟を超える。生きている間はな」
老人がにたりと笑った。周囲にいる何人かも同じようにしたようだ。上下の唇が離れるときの、にちゃという音が聞こえた気がする。
次の言葉は容易に察しがつく。私は覚悟をした。無念ではあるが、打つ手はない
が、老人の言葉は予想と全く違っていた。
「お前は運がいい。今日からは別の理由で生きるチャンスが与えられる」
背後で誰かが舌打ちをした。誰がしていても、不思議ではない。
「秋津信彦、父の名は?」
「学です」なんだこの質問は?
「母の名を言ってみろ」
「慶子」唐突にもほどがある。それがなんになる?
老人は、私の答えに満足したようで、一度うなずいた。
「私の名は、樋口公良。この儀式の見届け人だ。よく覚えておけ。お前の両親は六人村の一員であった。つまり、お前も六人村の人間なのだ」




