『戻り泉』
俺が住んでいる町には、戻り泉という名の不思議な沼がある。この沼には古い伝承があって、俺もあまり詳しいことは知らないが、沼が泉と呼ばれるほど水が澄んで美しかった時代の話だ。
なんでも主人が大切にしていた皿を不運にも泉に落してしまった家来がいたんだが、哀れに思ったのか泉に住まう女神が処断寸前の家来の下に送り届けたそうだ。
どこかの童話にでもありそうな話だが、町民たちの間でただの笑い話として済ませるものは誰もいなかった。
新しく移り住んだ者を除いて、地元で育ってきた年寄りから子供まで皆知っているのだ。その話の全てが事実ではないにしろ、ただの作り話ではないことを。
町民たちの大半が子供の頃に、一度はやっていただろう遊びがある。恐らくこの遊びを通して、伝承が嘘ではないものとして漠然と認識するのだろう。
その肝心の遊びというのは、まあ遊びとまで断言できないほど単純なものである。手順としては、まず何か適当な小物を一つ持ち寄る、次にそれを沼に投げ入れる。これだけだ。しかし極めて摩訶不思議な現象が起こるのはこの後だ。
沼に沈めた物が、何故か翌朝には自宅の玄関に戻ってきているのだ。ここまでの一連の行動及び現象のことを、町では遊びと言う。
どうして捨てた物が戻ってくるのか、誰もが思いつきそうな疑問ではあるが、ある時その疑問を解消してやろうと俺の友人が行動を起こした。しかしこの友人の場合、美しい女神とやらを一目みたいという邪な思いこそが本命だった。ということで、ここからはそんな欲丸出しの友人Kの話だ。
翌朝には小物が置かれているということは、夜寝ている間に何かがあったということ。そう考えたKは物を投げ入れたその日の夜間、玄関に張り込むことにした。
そう意気込んだまではよかったが、睡魔に抗えずあっけなくもその場で寝てしまったのだ。堪え性のないKらしい話だった。
肌寒さと微かな物音に目が覚めたのは深夜だった。固い床で寝ていて凝り固まったせいか、それとも怪現象の影響下にあるせいか、身体をピクリとも動かすことができなかったらしい。それでも女神への執着のなせる業か、不思議と状況だけは理解できていた。
僅かに目を開けて未だ物音の鳴る方へ視線を向けてみると、人型の白いモヤが蠢いていた。それを見た瞬間、寝ぼけていたのか、何故かKはその人型を女性と錯覚したらしい。あろうことか目を見開いて無理やり手を伸ばしたと言うのだ。
その話を聞いた時、Kは自身を最大級のアホだと言っていた。何故なら、手を伸ばしたその人型は断じて女神などではなかった。
そこにいたのは、白い泥だらけのオッサンだったのだ。