『合わせ鏡』
合わせ鏡をご存知だろうか? 詳しいことを知らない人も、小学生の頃なんかに一度くらいは耳にしたことがあるんじゃないかと思う。一言に合わせ鏡と言っても、鏡の中から悪魔を呼び出すものや、鏡に自分の死に顔を映したり、あるいは未来の歴史的映像を流したりと、地方によってやり方や目的も異なるらしい。うちの地元でもっぱら主流だったのは、将来の結婚相手だった。当時は俺も中学生で、まあ、ガキながら色恋に夢中なお年頃だったわけだ。
ある日、放課後の教室で幼なじみ2人とダラダラ過ごしていると、突然Yが「合わせ鏡やろうぜ」と言ってきた。俺たちの三人の中でも特に色恋に執着していたYのことだ、なんの脈絡もなく言い出したとしても別に不思議ではなかった。それに俺とBにしても暇を持て余していたので、Yに付き合う形でその提案に乗ることにした。
うちの学校のトイレは室内の配置が少し変わっていて、二箇所の手洗い場が向かい合う形になっていた。鏡も小さく距離もあったが、それでもなんとか合わせ鏡の体はできていた。言ってみれば、常時合わせ鏡の状態だった。そのため生徒の間では、合わせ鏡をする場所と言えば、手軽さと薄暗い霊的なイメージと相まってトイレが最適であると決まっていた。合わせ鏡と言ったらまずトイレだった。
肝心のやり方は簡単だ。こういうものは大抵が儀式的な色を帯びているものだが、我が校式合わせ鏡はおおよそ儀式と呼べる代物ではなかった。手順1、手洗い場で顔を洗う。手順2、濡らしたままの顔で鏡を見る。これだけだ。まあ、言いたいことは分かる。こんなものは児戯にも等しい戯言だと。当時の俺も思っていた。だから俺もBも乗り気にはなれなかったんだ。
事の真相としては、水で濡れてぼやけた視界と、こうなったらいいなという願望が生み出した錯覚なのだろう。だからトイレに入るなりYが顔を洗っても、何も見えるはずがなかった。見えるはずがなかった。見てしまったのだ、俺が。
あれから五度も睨めっこを繰り返したYが、やっと諦めたのか顔と前髪をびしゃびしゃにしながら俺とBに「次やってみろよ」と言った。その口ぶりが若干不機嫌そうだったため、それでYの溜飲が下がるならと俺とBは頷いた。
Bに先んじてまず俺からやることにした。素っ気ない態度を取りつつも、内心期待めいた思いがあったのも事実だった。そんな無垢なる心と霊的な波長がたまたま合ってしまったのか、鏡の中にとんでもない人物が映った。
最初、俺のすぐ後ろにYかBが立っているんだと思った。水で歪んだ視界の中、目を凝らしながらその人物にどいてくれと言おうとしたが、その人物を認識した瞬間俺は固まった。女子制服を着た、少女だった。
さすがにビビッて顔を背けようとしたものの、何とか踏ん張った。すぐさま顔を拭ってはっきりとその姿を目にしたかったが、拭っている隙に消えてしまう予感があったため、俺は慌てて「ちょ、ちょっと来てくれと」とYとBを傍に呼んだ。二人が駆けつけるその僅かな間にも、俺は瞬きしたい欲求にさえ耐えていた。
「うおっ」、最初に声を上げたのはYだった。やはり俺の目の錯覚じゃなかったんだと速攻で目元を拭ってからもう一度鏡を覗くと、そこには確かに女子生徒がいた。ブスでも美人でもない、どちらかと言えば地味系の可愛い少女だった。でも、全く知らない女子生徒だった。
翌日、YとBを含めたクラスの仲のいいやつ7人の前で、もう一度鏡合わせをすることになった。後から思えば、昨日の時点で止めておけば良かったのかもしれない。だがこの時の俺は鏡の儀式、いいや、あの少女の存在をより大勢の人の前で確かめたくてしかたなかったのだ。
手順を踏んで鏡を覗いた俺はガッツポーズをした。昨日の少女が鏡の中にいたのだ。俺の様子に皆がすぐに駆け寄ってきては歓声を上げる中、一人だけ顔を強張らせているやつがいた。俺は何となく気になってそいつ、Kに「何か気になることがあるのか?」って聞いてみた。するとKは一言だけ小さく呟いた。もしかして俺に対する返答じゃなくて、ただの独り言だったのかもれない。どちらにしても、その一言は俺に相当な衝撃を与えるものだった。「姉ちゃん・・・」
その日を境に俺の身に奇妙なことが起こるようになった。鏡合わせをしなくても、鏡を見るたびにその女子生徒が現れるようになったのだ。学校だけならともかく、自宅の鏡にも現れた。最初のうちは、隠された世界の意思のようなものに触れたような気がして心躍らせていたが、本来心休まるはずの自分のプライベート圏内でこうも非現実的な姿を見せられる日々に、「これはおかしいぞ」という焦りが次第に強くなっていった。
あの時のKの表情が引っかかって、しかも身内ということでどうも気後れしていたが、俺はついにKに話を聞くことを決めた。けれども聞けたのは姉の経歴や人柄、そして死因だけで、どうしてその姉が鏡の中に現れるようになったのか、その理由は分からずじまいだった。
あれから22年、最初の数年は鏡を遠ざける生活を送っていた俺も今では平気になっていた。むしろ当たり前の日常の一部として受け入れていた。
鏡とは通常自分自身の姿を映すものだ。でも俺が見る鏡の中にはいつも彼女だけがいる。出会った頃は能面のような顔をしていた彼女も、不思議なことに今ではヒマワリのような明るい笑顔を鏡の中に咲かしている。その事実だけが、若くして不幸な事故で死んだ彼女に対する、唯一の救いだった。
YもBもすでに結婚し、それぞれの家族を築いている。対して俺は未だに独身。まあ、理由は分かっている。
俺はあろうことか死者である彼女に、恋心を抱いてしまっているのだから。