五. 私の(俺の)ハレ
此花山は、五霊峰の最北に位置している。
美深五霊峰は、五芒星と同じ配置である。
北に九尾の狐が治める此花山、東に猿の妖怪・山わろの住む猿田山、西には樹木の妖怪・でえだらの住む五十猛山。下って南西は、狸の妖怪・狢の一族が治める百笑山ときて、南東がこれからハレたちの向かおうとする大蛇の領地・闇尾山となる。
五霊峰の中央、五芒でいくと真ん中の空白に当たる場所には、涙湖がどこまでも澄んだ水を湛えて静まり返っている。
神代の昔、五山の神々はそれはそれは仲が悪く、たがいに血みどろの無益な争いを繰り返した。それを見て、彼らの妹神にあたる泣澤女神が涙にくれているうちに、涙そのものに溶けて湖になったという。
それが、この湖だと言われている。
青ともつかぬ、緑ともつかぬ、夏の緑に青空を混ぜ合わせて満月で薄めたようなその色は、人にまれ妖怪にまれ、訪れる者の心を等しく癒し溶かす。
「いつ来てもきれいだねぇ……」
小舟の上で、ハレが目を細めながら笠を外した。
曇りのない黒髪が、春風にさらさらとそよいで揺れた。
ゆっくりと小舟の櫓を漕ぎながら、爪紅はふとハレの顔がもっとよく見たくなって、邪魔な前髪をかき上げた。
涙湖は、静かだ。
狐が治める此花山も五山の中では静かな方だが、涙湖にはかなわない。
ここでは、争いをしてはいけないという決まりがある。
昔、妖怪が五霊峰に飛来してそれぞれの領土を定めた時、涙湖は絶対不入不可侵の中立地帯と定められた。
湖を領土として所有する権利はいかなる者にもない。また、湖の中、水上、上空で争いを起こした場合、その者五山の長による制裁を受けて死罪、または霊峰から永久追放されるという協定が結ばれている。
妖怪という存在はこうした細やかな約束ごとがとても好きだ。また、一度そうしたことが決まると、滑稽なほどに律儀に守り通す。
大昔に結ばれたこの協定も例外ではない。それぞれの山長の血判が押された誓約書は五つに分けられ、今も各山で厳重に保管されている。
「もし、蛇めがハレ様に手を出すようなことがあったら、ここに逃げてきて下さいね。この湖ならば誰も戦うことは出来ませんから」
飴のようになめらかで重い水面に櫓を差し入れながら、爪紅は言った。
「ん~」
聞いているのかいないのか、ハレは口を半開きにして岸の向こうの森を見つめている。
「でもさぁ、それって爪紅の君とはぐれた場合ってことだよねえ」
爪紅は長い睫をゆらめかせ、「そうですね」と頷く。
「もしくは私が敵にやられた場合、ということです」
「ないよねえ、爪紅がやられるなんて、ぜったいない」
ハレの屈託の無い笑顔に、爪紅はぐっときて櫓をこぐ手をぴくりとさせた。端から見ればふんにゃりした笑顔だが、爪にとっては幾千もの星にも勝る笑顔なのだ。
爪紅は思う。ハレは、やはり美しくなった。
昨日、二人して舟の上で夜を明かした時に、おや、と思いはした。
かすかな不安を宿して、群青色の星空を見つめるハレの横顔に、「人間の娘」を見たのだ。
人間とは儚く壊れやすい生き物だと、爪紅は思っている。
例えるなら、花のような。
爪紅は、ハレがおしめをしている頃から傍にいる。正月のごちそうになるために里から連れて来られた赤子は、三婆の気まぐれによって突然屋敷の姫として迎えられることになり、以来一三年もの間すくすくと健やかに育っていた。一人の何の力も無い人間の娘が、力の無いまま、人間のままでこの山々に暮らすなど、前代未聞だと言えよう。
それぞれに強烈な強さを持つ三婆に育てられたハレは、根性のかたまりみたいな子供だった。子ぎつねたちが出来ることは自分も出来ると信じたし、うまくいかないことは出来るまでやり続けた。木登りも、相撲も、かけっこも、子供の時分は誰にも負けなかった。おそらくハレ本人はそうした努力を苦とも思っていないだろうが、屋敷づきの百年狐たちはそんな彼女のことを熱烈に敬愛し、親衛隊のような集団を作ってさえいる。
だから時々忘れてしまうのだ。彼女が人間であることを。
自分だけは忘れないでいようと、常々思っていたはずなのに。
昨夜のハレの横顔を見つめ、爪紅は自分と、そして同族を責めていた。
(三婆様は何故、ハレ様が人狩りに出ることを許したのか)
先代の蛇僧正が崩御してからというもの、闇尾の山は不穏な動きが続いている。
今回のおかしな依頼がその最たるものではあるが、それでなくとも彼らは人間の世界に干渉しすぎている。それは三婆とて感知しているはずだ。特に白面なぞは、蛇が群雲の国より外に出て何かしていると見て、千年狐を何匹も飛ばして様子を探っていたではないか。
その蛇の山に、彼女たちにとって最も大切な宝であるハレを放つとは、どういう意図があってのことか。
(ハレ様を人間で無くするつもりか)
ハレが人差し指を天に突き出すと、かげろうが薄い羽をはためかせて寄ってきて、その先端に止まった。
(人が人を殺して食らえば鬼になる。そうすれば、いささか寿命は延びよう)
爪紅は一人ひそかに、整った眉根を寄せた。
ハレが人で無くなることは、いずれそうせねばならないことではあるが――――
「さらば~~」
ハレがかげろうに手を振っていた。
(惜しくもある)
漣一つも立たない、なめらかな一枚の鏡のような湖。そこに、二人の乗る小舟だけが、まっすぐな線を描いていた。
「あ」
何を思ったか、ハレが舟から身を乗り出して水面に触れようとした。
小さな舟は大きく傾き、ハレの細い体は草舟の上の花のごとく、ぽとんと落ちそうになる。
「ハレ様、何を」
爪紅は慌ててハレの細い腰を抱いた。ハレはそれでも水面を見つめたまま首をひねっていたが、やがてきょとんとした顔で、爪紅を見上げた。
「爪紅、何か黒いものがいたんだよ」
「魚でしょう。水の気かもしれませんが」
鼻先が届くほどの至近距離で話しをしているというのに、ハレの反応にはてんで色っぽさがない。
「もちょっと黒かった。蟻みたいなのがいっぱい。何だろう、見たことのないものだったよ」
水面で蟻もないだろうと、爪紅はくすりと笑う。少女の腰に回した腕を離しかけたが、考えてみればこれは役得と、逆に力を込めてみた。
「ハレ様」
ハレは何故離してもらえないのだろうと、二三度身じろぎする。やがて、あっと気づいた顔になった。
「ごめんなさい、爪紅。たすけてくれて、ありが」
距離を考えないで勢いよく頭を下げるので、
「どーふ」
見事に頭突きを食らう形になり、爪紅は後ろ向きにゆっくりと倒れていく。
「うあっ、爪紅」
(こういうところは――)
こういうところはおしめをしていた頃から何も変わっていないのかと、大の字に倒れながら、爪紅は眉を引きつらせた。
***
蛇の松明と呼ばれる草がある。
ほとんど枝葉をつけない背の高い花で、ひょろりと背の高い茎だけを伸ばし、秋になると先端に実をつける。実の色は紅葉よりも赤いが、決して美味しそうではない。植物の実というよりも蟲の背中のような光沢があり、粒が密集していて見るものに不快感を与える。
その実が、炎のようにゆらゆら揺らめくので、蛇の松明。
時は春だというのに、かの松明がびっしりと灯っていた。
ここからは大蛇の司る山だという、これはその標識なのかもしれない。
「うあー……第一印象良くないなあ……」
松明の実をうっかり凝視してしまったハレは、ぞわぞわと泡立つ背中をのけ反らせた。
ハレは、山猿の妖怪である「山わろ様」の山や、樹木の妖怪である「でえだら様の山」にはよく出入りしている。友達だって多い。婆様に知られると怒られるが、狸の妖怪である「狢大将」の山にも、実はちょくちょく出かけていて、こっそり米や麦なんかを分けてもらっている。
だが唯一、五霊峰ではこの山にだけは、入った事が無い。なんとなく、本能的に避けていたのだ。
「入ってみたら大丈夫かなと思ったけど、入ってみてもだめだこりゃあー……」
山や植物には、「気」がある。
「気」の濃い場所では「気」を肉眼で見ることも出来るようになる。
ふわふわと漂う半透明の生き物で、鳥のようなくちばしがあり、手足がひょろ長い。目はうつろで、腹には空気を通すためか、大きな空洞が開いている。そういうものが、翼もないのにひょろひょろと漂っているのだ。
彼らは何かの魂ではない。妖怪でもない。
もっと大きなくくりに属するもので、自然の霊気や意思のようなものだと玉藻が教えてくれたことがある。季節風を運んでくる風伯や、雷を打ち鳴らす雷閣も、大きさや装束の立派さこそ違うが顔は彼らと同じだ。白面いわく、うすらすっとぼけた顔をしているらしい。
彼らは半透明で、どれもこれも同じに見えるが、よくよく見ると色がある。怒っているときは赤、落ち着いているときは青、嬉しいときは黄色、そして悪意があるときは、
「黒いね……」
春だというのに濃い緑の枝葉を張り巡らせた針葉樹の樹海が、蛇の山に深い深い闇を作っている。その木々を縫うようにして漂う気たちは、一様に黒っぽい。
「いけ好きませんね」
爪紅が女のように細く美しい眉を顰めた。彼の美貌に吸い寄せられるようにふらっとやってきた黒い気を、無情にもぴんと弾く。
「他種族の美的感覚にとやかく文句をつける気はありませんが、気色悪い植物をびっしり植えただけでは飽き足らず、こんなクソ暗い森で道を覆い隠すとは、蛇という生き物は全くもって趣味が悪い」
「今クソって言った?爪紅」
「ハレ様、ご覧の通りここからは敵の本拠地ですから、私から絶対に離れないで下さい」
「う、うん」
少しどきどきしながら、ハレは爪紅の着物のすそをつかんだ。
蛇そのものをそれほど怖いとは思わないのだが、馴染んだ大きな空が見えないのは、出口を塞がれているようで少しだけ、恐ろしい。
「ね、爪紅、あたしたち招かれた客人なんだもん、いきなり襲われたりしないよね」
「これが狐であれば、絶対にそんな品性の無いことはしないと断言できるんですが」
「だけど、相手は蛇だものねえ」
「蛇ですからね」
「蛇だもんなあ~~~~」
ハレは着物のすそだけでなく、爪紅の腕ごと引き寄せた。見事な赤毛の向こう側で、爪紅の横顔がかすかに微笑んだのが見えたような気がしたが、気のせいだろう。
蛟の僧正がいるという山寺を目指して、ひたすら九十九折の石段を歩く。
真っ直ぐ突っ切ればそれほどの距離でもないだろうに、階段はまるで蛇のうねりのように無駄な道のりを作っていた。
「ハレ様」
不意に爪紅が厳しい声を発したので、ハレは小柄に手を添えて身構えた。
前方に階段の終点があり、小さな地蔵堂がある。
その向こうの笹薮に、なるほど、妖怪の気配がする。
黒い気たちが集まり、蚊柱のように渦を巻いていた。
「私の後ろにお隠れに」
「うん」
ざ、と、笹薮が二つに割れた。
そこから、小さな影がざざざっと続けざま走り去り、目にも留まらぬ早さで一斉に石つぶてを投げてきた。
「無粋な」
爪紅の得物は長鎌だ。
柄は美しい朱塗りの棒で、先に研ぎ澄まされた鎌形の刃がついている。一度持たせてもらったことがあるが、一緒に倒れそうになるような重さだ。
爪紅は、両の手でそれを風車のように回した。
残像を残して高速で回る鎌に、ガンガンガンと硬質な音をたて、石つぶてが弾かれる。
足元に散らばったのは、ごくごく軽い小石だ。中には胡桃すらある。爪紅はそれをちらりと見下ろすと、ちっと舌打ちをした。
「ハレ様、うしろ」
「どわっ」
言われた通り振り返ると、巨大な影が彼女の視界を塞いでいた。
毛だ。
毛皮だ。
首を伸ばして見上げても、てっぺんが見えない。
八畳もあろうかという巨大なケダモノが、ハレに向かってその巨大な手を伸ばしてくる。
この、毛むくじゃらの、しかもちょっと臭い手は――――
「たぬっ」
ハレの細い体が、むんずとつかまれた。
硬い肉球とごわごわした毛皮に包まれ、大狸の顔に向かって移動する。
狸はハレをその大口にまっすぐに持っていくと、
「ハーーーーーーーレーーーーーーーー」
盛大に、頬擦りを始めた。
地上では、爪紅が沈痛な面持ちで額を押さえている。ハレは、こうなることを何となく予想していたので、はははと力なく笑った。
「あー、日向の大将、久しぶりだねえ」
「久しぶりも久しぶり、冬眠の前に会って以来よ。長かった、長かったぞ、ハレ! ちょっと見ないうちにまた色っぽくなったなぁ、ちょっとおっちゃんに顔を見せてごらん顔を」
大狸は、ちゅっちゅっちゅっちゅと頬にちゅうを続ける。
なんだかなーと思って下を見ると、爪紅がつかつかと大狸の足元に歩み寄るところだった。
薙刀の柄で、思い切り大狸の足の甲を、突く。
「いでーーーーーーっ」
足元で悲鳴が上がり、盛大な煙とともに大狸の変化が溶けた。
三匹が一番下で四つんばいになり、その上に二人の狸が、それぞれ同じ姿勢になって三角形を形作っている。どうやらこうして一斉に変化の術をかけることで、巨大な狸のまぼろしを演出していたらしい。
しかし今、爪紅に突かれた一番下の若い狸がこらえられずに崩れた。なだれのように、組み体操がずだだだだーんと崩れる。
「わーはっはっは」
一緒に横倒しに倒れながら、ハレを抱きしめて豪快に笑っているのが、百笑山に住む最強の狸、日向の大将その者である。
「いてててて、大将、早く降りて下せえよー」
「重いっすー、大将、じゃまっすー」
ハレの尻の下で、若い狸たちが口々に文句を言っている。日向の大将は降りるつもりはさらさらないらしく、逆によっこらせと部下たちの地すべりの上で胡座をかいた。
「よっ、久しぶりだな、爪紅の」
「相変わらずだな、日向の」
爪紅が、白面ばりの冷凍光線を目から放ちながら狸に近づいて来た。日向の大将は鷹揚に笑うと、ハレを膝の上に乗せる。どうやら、離してくれるつもりはないらしい。
眉目秀麗で洗練された美貌を持つ、いかにも貴族然とした爪紅に対し、日向は筋骨逞しく、日に焼けた顔が人なつこい、武将とはかくありなんというような伊達男だ。この真逆を絵で書いたような二人は、五霊峰に妖怪が住み着くようになって以来の好敵手だと聞いたことがある。
「ハレ坊をつれて、こんな所に何の用だ。ここはもうじき戦場になるぞ、帰れ帰れ」
「お前たちこそ、遠足気分でこんな所に来て大丈夫か」
一匹の狸が寝そべりながら握り飯にかぶりつこうとしているのをチラ見して、爪紅がやり返す。
「遠足だとう? 聞いて驚け、俺たちは戦に来たのだ。蛇どもからの正式な要請があってだな」
大将は胸を張る。
「我らもだ」
しれっと言われ、日向は肩透かしを食らったように身をすべらせた。
「本当か、ハレ坊」
水を向けられ、ハレはこくりと頷いた。
「本当だよ。青大将の生皮が来て、力を貸してくれって言われたんだ」
「青大将か……我が軍と同じだな」
日向は握り飯を食べ続けている若狸の頭をべしと殴った。
「ナントカいう罪人を、自分たちの代わりに仕留めてくれという話だったか」
「八尋だ。相手の名くらい覚えろ、たわけが」
爪紅の売り言葉を日向が即座に買いそうだったので、ハレはくるりと狸の大将を振り返って襟元を引いた。
「日向の大将も人間を狩りにきたの?」
「おうともよ。しかし小ずるい蛇どもめ。頼れるのは狸しかいないと泣いてすがったくせに、まんまと狐んとこにも行ってやがったか」
「泣いてすがられて出した軍勢がこれっぽっちか」
爪紅が言うと、日向はクセ毛をばりばりと掻いて豪快に笑った。
ハレの尻の下に若い豆狸たちが五匹、日向を入れても六匹。多分蛇は狐と同じように化け狸を百匹要求してきたはずだから、どう考えても少ない。
「いや、春の田植えの盛りでな、正直蛇なんぞに人手を貸していられんのよ」
狸は、一番人間に近い暮らしをしている。
畑や田を耕して堅実に食べ物を作り、蚕を飼い、機織りだってする。時には里に下りて市に出ることもあるらしい。狐が上流階級に取り入るのが得手なら、狸は庶民に紛れ込むのが得意だ。人間との素朴なつきあいを好む彼らは、それゆえに妖怪としてはいち早く武家社会を取りいれ、今ではすっかり武士団を気取っている。
「で、ハレ坊は爪紅と一緒に何をしに行く? さしずめ、三婆様の使いで蛇に断りを入れに行く、ってとこか?」
「ううん」
ぐりぐりと猫のように頭を撫でられながら、目を細めてハレは否定した。
「あたしと爪紅も、やひろを仕留めに行くんだよ」
「な――……」
日向の顔からさっと笑みが消えた。武将は、精悍な眉を剣呑な角度に持ち上げて、まじまじとハレを見る。
「本当に、お前が、罪人を仕留めるのか」
「うん。ばーちゃんたちがどうしてもやひろの肉が食べたいって言うから、あたしが狩るんだ」
日向は無精髭の目立つ口元を強く曲げ、鋭い視線を爪紅に向けた。
紅色の狐はついと目を逸らすと、親指の爪を拳の中に握り込んだ。