四. やっぱりあたしが狩る
ハレはふて寝している。
ハレにあてがわれた部屋は、小さいけれど明るい、南向きの部屋だ。寝床と、衣を入れる葛篭、それから薬屋をやっている千年狐からもらった真っ赤な薬箱が小物入れとして並べられている。年頃の娘の部屋としてはあまりにも殺風景なので、百年狐たちがそれとなく野の花を置いたり、お香を炊きこめたしてくれている。
ハレがしょげ返っているので、今日は誰かが柚子と蜜柑の陳皮を置いていったようだ。部屋に充満するお日様の香りに、だが、ハレの心は晴れない。
(ばあちゃんたちの分からずや)
今日の夕暮れ前に、爪紅は出発するらしい。百年狐の女房たちが、厨房で慌ただしく弁当の用意をしているのを見た。蛇の生皮は蒲焼にされ、弁当に詰められていたようだ。
いっそ黙ってついて行ってしまおうかと考えてみたりする。爪紅の旅支度に何とか潜り込めないものだろうか。例えば行李の中に隠れて入ってしまうとか。
(むりむりむりむり)
数年前ならそれも出来たかもしれないが、ここのところハレの身体は成長著しい。手足がにょきにょき伸びてきて、胸元にも余計な重みができつつある。
爪紅の行李の中からハレの手足が生え、三婆がそれを半目で見ている様子が容易に想像できて、ハレは唸り声とともに寝返りを打った。
隠れることが無理ならば、こっそり爪紅を追いかけるのはどうだろうか。夕闇に紛れてそっとつけていくのだ。
(むりむりむりむり)
その想像を楽観的に進められるほど、ハレは自分を過信していない。ハレが社を出た瞬間に三婆は気づくだろうし、すぐに百年狐の追手がかかるだろう。第一、爪紅の足にハレがついていけるはずがない。山を出る前にきれいに巻かれて終わりだ。
(でもでもでもでもでも)
それでも、行きたい。
八尋を狩ることは、もはやハレの中で憧れに変化しつつあった。まだ見ぬ最高の獲物、蛇が太刀打ちできない獲物、千年狐百匹を必要とする獲物。もしもそれを、まかり間違ってでも、ハレが狩って帰ってきたならば。
百年狐たちが尊敬と憧れのまなざしで拍手喝采し、千年狐たちが「見直した」という顔をして出迎えてくれる。爪紅が「さすがハレ様です」と微笑み、そして三婆たちが涙目で両手を広げて待っている。
「さすがはわらわたちの娘じゃ、でかしたぞハレ」
「わたくしは信じておりましたよ、ハレはやれば出来る子ですもの」
「……………ようやった」
白面が頭を撫でてくれるのを想像した時点で、ハレは身もだえした。
「狩りたいよおおおおおおおお」
じたばたと寝返りを打って、最後は大きな音をたてて、背中を畳に打ち付けた。
大の字になって、天井を見上げる。
静寂とともに切なさがこみ上げ、ハレは自分の目をこすった。
そうだ。
いっそ、爪紅に関係なく行動したらいいのではなかろうか。今は皆、爪紅の出発のことで忙しい。今のうちにこっそり抜け出て、山を降りて、一人で蛇の山に入ってしまえばいい。
(そうだ、そうと決まれば今すぐにでも!)
「ハレ様」
爪紅の声が蔀の向こうから聞こえて、ハレは跳ねあがった。
「三婆様がお呼びでございます」
だいだい色の西日が入る大座敷で、ハレは巫女装束をまとっていた。
真新しい純白の衣と、爪紅の髪よりも真っ赤な、鮮やかな袴。胸の下で、帯紐をきゅっと大きく蝶々結びにすると、ハレは黒い瞳を大きく見開いて、前を見た。
「これは、わらわからじゃ」
そう言って、陀貴はおかっぱに切りそろえられたハレの髪に、深紅の組紐で出来た髪飾りを結びつけた。複雑な結びで牡丹の花を表現したその髪飾りは、ハレが頭を傾げるたびに、両方の耳の上でさららんと揺れる。
「わたくしからは、これをね」
玉藻がそっと近づいてきて、ハレの帯に小さな帯留めを結わえつけた。赤珊瑚で出来たその飾りものはやはり牡丹の形をしていて、花びらの一つ一つ、雄蕊の一本一本に至るまで繊細に彫り込まれている。
ハレは夢のようにきれいなそれらを交互に見やると、少しうるんだ目で、二人に言った。
「ありがと、陀貴ばあちゃん、玉藻ばあちゃん」
陀貴は少し怒ったように頷き、玉藻は目頭を押さえる。
「これ、あたしに何か危険なことが起こった時に、強力な力を発揮する最強の防具とか何とか、そんなんだよね? 」
ハレの言葉にピタリと動きを止めた二人は、低い位置でお互いの顔を見合わせると、小さく頷き合った。
「ええ、ええ、そうですとも」
「可愛いということは、最大の危機において発揮される究極の防御じゃからな」
よく分からないが、最強の装備をもらったことは間違いないらしい。ハレが感激のあまりに唇をかみしめていると、ぬっと、無表情の白面が視界を遮った。
「うすらたわけたことを」
そう言いながら、白面はハレの帯に、細身の赤い短刀を挟んだ。
それは、髪飾りや帯留めと同じ赤い色の守り刀だった。柄と鞘に、金色に縁どられた牡丹の装飾がある。
「白面のばあちゃ……」
「言っておくがただの守り刀だ」
ハレの感動を遮るようにして、すっぱりと白面は言い切った。
「我らの妖力をほんのわずかも封じこめていないし、何のまじないもかけていない。見た目が少々可愛らしいだけの、ただの小柄だ」
念入りにそう言うと、白面はすっと大きく息をついた。そしてその切れ長の目で、まともにハレの瞳の中を覗き込んだ。
「髪飾りも、帯留めも、守り刀も、なんの力もない、ただの旅支度だ。お前を守るものは誰もいない」
ハレの小さな肩を、白面はしっかりと掴んだ。その指先がことのほか熱くて、ハレはびくりとする。
「それでも行くか」
白面の肩ごしに、射るような厳しい目をした陀貴と、今にも大粒の涙をこぼしそうな玉藻が見える。
本当のことを言うと、ハレは尻ごみをしそうになっていた。三婆のこんな真剣な顔を見たことが無い。この旅においても、もっと手厚く、もっと過保護に、守ってくれるかと思っていた。だが、何故だかそのつもりは無いらしい。
ハレが今踏み込もうとしているのは、もしかすると、三婆の手の届かない場所なのかもしれない。
ハレは目に力をこめて三人を見た。
「行くよ、あたし」
白面が、ふっと表情を和らげたのが分かった。まるで氷が一瞬緩んだような、そんなかすかな揺らぎだった。
「あいわかった」
氷のかんばせはすぐに引き締まり、シュっという絹擦れの音を立て、白面は立ち上がった。
「爪紅が待っている。早う行け」
障子が、その声を合図にして開いた。ほのかに朱色かかった障子紙の向こう側に、ハレを待って座す爪紅の影が浮かび上がっている。
何か見えないものに押されるように、ハレはそちらに歩き出した。爪紅が小さく「こちらへ」とささやき、普段は滅多に向かうことのない南門へと歩を進めていく。
廊下にはたくさんの百年狐の小姓や女房たちが待っていて、ハレに市女笠を結びつけてくれたり、弁当の入っているらしい小さな旅葛篭を渡してくれたりする。最後は二人のとびきり可愛らしい小さな女狐が、ハレの両足に草履を履かせ、膝の上まで編み上げてくれた。
門が開くと、目の前は大きな川だ。
南門は川に面しており、ここから出ることはすなわち舟旅を意味する。
爪紅が船に飛び乗って櫓を持つと、白い腕を差し向けてハレを導いてくれた。
ハレは舟の真ん中に誂えられた丸茣蓙に坐して、はじめて三婆の社を振り返る。
たくさんの若い百年狐が手を振っていた。ちらほらと年老いた千年狐の姿が見えたが、その人垣の中に三婆の姿は無い。
当然であろう、彼女らは貴族なのだ。
「御無事で」
口ぐちに言う狐たちに、ハレは大きく手を振ってこたえた。
「うん、いってくるね。留守中、ばあちゃんたちをよろしくね」
舟に結ばれていた太い綱がほどかれ、ゆるゆると小舟は動き出した。何匹か子ぎつねが川べりを追いかけてきたが、やがてそれも見えなくなる。
「あっ」
流れに背を向け、遠ざかる狐の社を見ていたハレは、大きな声を上げた。
社の、大鳥居の上に、三つの影を見たのだ。
それは、三匹の老狐に間違いなかった。
若作りもしないで、吹き抜ける風に危なっかしく衣をはためかせ、こちらに大きく手を振っている。
「ばあちゃん」
ハレは声が枯れるほどに叫んだ。
「ばあちゃん、ばあちゃん。ばあちゃん」
千切れるほど手を振った。
「へんなもの食べちゃだめだよ、けんかしたらだめだよ、なるべく早く帰ってくるからね」
川は渦を巻き、大きく揺れながら進んでいく。
やがて深い霧と黒々とした森が、九尾の狐の住処を完全に覆い隠した。
ハレは振っていた手を、きゅっと握り込んだ。身体をひねり、舟の進行方向に座り直すと、膝を抱き寄せるようにして小さく身をかがめた。
爪紅が気遣わしげにこちらを見たのが分かったが、ハレは唇を強く結んだまま、ただ進行方向だけを見た。
上がる水しぶきに、完全に落ち切ろうとしている西日が砕けて、飛び散った。