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三. あたしが狩る

 三婆のあんな表情を、ハレは見たことが無かった。


「ねえ、『やひろ』ってなに」


 三婆が物欲しそうな顔をしたことなど、今まで一度も無かった。


 ハレがどんなに苦労して手に入れた獲物も、婆たちはごく当たり前のように食した。ハレが過去に手に入れた最高の獲物は、悪意の塊みたいな三本足のフクロウだったが、それでさえ、三人が同時に生唾を呑むことは無かったのだ。


「ねえ、『さいぐう』ってなに」


 だが、蛇の生皮が「罪人は『やひろ』の血筋である」と明かした途端の、三人の顔ときたらどうだ。嘲笑に満ちていた彼女らの目に、一瞬羨望という感情が走り抜けていったのを、ハレは確かに見たのだ。


「ねえ爪紅の君、ねえったら。『みけど』って何」


「『みけど』ではありません。『みかど』です」


「そう。それなに」


 爪紅の君は一瞬だけ、その赤瑪瑙に例えられる濃紅の瞳をこちらに向けたが、すぐに元の方角に向きなおってしまった。爪紅のもとには金色の耳をした百年狐の少年小姓たちが六人ばかり集まり、ハラハラした表情で爪紅とハレを見比べている。


「皆、よそ見をするな。大事な申し送りの最中だぞ」


「なんで教えてくれないのう。いっつも何でも教えてくれるのに」


 ハレは針でつつけば弾けそうなほどに、頬をぶんっと膨らませる。


「陀貴様の部屋付きは小満月、玉藻様の部屋付きは青観音とする」


「いつもだったらイヤだって言っても教えてくれるのにーい」


「白面様の部屋には引き続き黄金丸が入り……」


「……爪紅のいじわる」


「…………」


 ハレがしゅんと項垂れると同時に、爪紅の言葉は完全に途切れた。


「それ以外の役割分担は後程とする」


 柳のような白い手で鼻から口を覆って、爪紅の君は百年弧たちに言った。まるで鼻血を押えているようなその仕草に、若狐たちは気を使うように足を忍ばせてその場を辞した。


「ハレ様」


 爪紅がうねりのある深紅の髪を揺らめかせながら振り向くと、ハレは黒目がちな目をくりくりと大きく見開いて顔を上げた。もしもハレが百年狐だったら、きっと耳と尻尾がピンと立ったことだろう。


「どうしたというんです、今日はやけにわがままな」


「だって、誰も教えてくれないんだもん」


 これは事実だった。


 昨夜蛇が尋ねてきてから、ハレは知りたいことだらけなのだ。あの蛇は何なのか、何をしたかったのか。三婆があんなにも興味を示した「やひろの肉」とはいかなる食材か。そして、三婆は「やひろの罪人を退治してほしい」という蛇の誘いに乗り、本当に千年弧を百匹も、蛇の山に派遣するつもりがあるのかどうか。


 なのに三婆は揃いも揃ってぐうぐう朝寝坊しているし、百年弧たちは分からないと言って笑いながら首を振るし、なにがしさんは『やひろ』の名前を出した途端にびっくりして逃げていく。


「爪紅が忙しいのは分かってるけど、でも、もう爪紅しかいなかったんだもの」


 ハレが俯いてそう言うと、爪紅は少し困ったように首を傾げて微笑み、ハレの黒髪をくしゃりと撫でた。


 爪紅はハレにとって、お兄さんのような狐だ。いや、兄、という言葉だけで片付けてしまうと少し語弊があるかもしれない。赤子の頃から傍にいてくれた、乳母のような存在と言ったほうが近いのだろうか。


三婆は確かに母親のようにハレを育ててくれたが、彼女らはあくまでも貴族階級である。手づから赤子のおしめを変えたり、よだれを拭いたり、乳を飲ませたりすることは無い。

ハレに触れていたのは、いつも爪紅だった。

爪紅が雄狐だと気付き、一緒にお風呂に入らなくなったのはいつごろのことだったか、それについては、ハレはあまり記憶が無いのだけれども。


「みかど、というのは、人間の王のことです」


 せめてこれはやらせて下さいね、と念を押して、爪紅は書類作りを始めながら言った。


「王様? 人間で一番えらいやつっていうこと?」


「そうです。ハレ様が人里にいたとしたら、そいつのために米を育てたり、魚を採ったりしていたかもしれません」


 ふうん、と、ハレは爪紅の足元に座り込み、伸ばした足をゆらゆら動かした。


「人里は大きいので、御門がすべての土地を見て回れるわけではありません。ですから御門は自分の血筋の者たちをほうぼうに派遣しているのです。その中でも、神に仕える者として最も清らかで徳が高いと呼ばれているのが『斎宮』です」


 御門の次にえらいのが、斎宮、と、ハレは単純に捉えた。


「その斎宮の血を引いている一族が、『八尋』です。彼らが治めている土地が、我々の住むこの山に最も近い人里である、群雲の国というわけです」


 ハレは指を折って考えると、そうか、と目を輝かせた。


「やひろも、人間の王様の、親戚なんだ」


「そういうことになりますね」


 婆様たちが垂涎したのが分かるような気がする。妖怪の王様なら、例えば貉の国の王様ならば、そんじょそこらの妖怪よりも力が強い。力が強ければ強いほど、その肉は美味だ。人間も、普通の人間ではなく王様ならば、妖怪に負けずとも劣らぬほどに美味なのだろう。


「でも何で、そのやひろが罪人って呼ばれるの?」


 尋ねると、爪紅は少しだけ表情を曇らせた。


「そのあたりは、私も詳しくありません。ただ、人間というのはとても愚かで、もろい生き物です。寿命も短い。ゆえに、争いごとが絶えないのです」

 

「ばかなの?」


「ええ、ばかです。ハレ様は違いますが」


 慌てて言い添えられて、ハレは初めて自分も人間であったと思い出す。


「だから罪人と呼ばれていても、本当に悪いことをしているのかどうかは分かりません。案外、権力争いに負けて追放されただけなのかもしれませんね。まあ、いずれにしても、本人は怒りと恨みでいっぱいの状態でしょうが」


 高貴な王様の血。


何かの争いに負け、怒りと恨みでいっぱいの魂。


 これが、美味くない道理が無い。


 悪霊鯉ですら、地震鯰ですら、三婆の美肌と滋養強壮に効くのだ。


 八尋の肉であれば、その効能はいかばかりだろう。


 罪人の血肉は、どれだけ、彼女らの美しい命を長らえさせることができるだろう。


「しかしハレ様がこんなに心配してくださるとは思いませんでした。ですがどうぞご安心下さい。八尋という人間がどれほど腕が立つかは知りませんが、この爪紅が派遣されることに決まった以上、必ず二日三日で生け捕りに」


「ありがとう爪紅。あたしすっごくやる気になってきた」


 ハレはすっくと立ち上がると、お腹に力を込めた。鼻息で髪飾りの紅紐がさららんと揺れる。


「あたしも行く。ばあちゃんたちに頼んでくる」


 紅い袴をたくし上げ、ばたばたと廊下を走っていくハレの後ろ姿を茫然と眺め、爪紅は絶望とも喜びの絶頂ともつかない複雑な表情を浮かべると、再び白い手でおのが鼻と口を押えた。






「分かるように言っておくれ、ハレ」


 陀貴と玉藻と白面が大座敷に顔を揃えていた。まだ日は天頂にあり、三人とも目覚めて間もない姿だ。その顔は老婆でこそ無いものの、慌てて身支度を整えたと見えて、白面以外はいつもよりずっと、化粧も衣装も地味である。


「だからね、あたしも、八尋とりに行って来るの」


「そんな竹の子とりに行ってくるみたいなことを言われても」

 

 玉藻は狐に化かされているような顔で、まだ眠そうな垂れ目をしょぼしょぼと瞬かせた。


「昨日の話の続きをしているのなら、それは爪紅の仕事と決まっている」


 白面が鋭利な声で言った。三人の中で唯一、襟元がぴしっと整っている。


「お前が行っても足手まといだ。うすらとぼけた寝言は夜だけにしなさい」


 白面にこう言われるのは、ハレとしても想定内だ。ぐっと唇を噛みしめて、ここに来る前に何度も頭の中でまとめていた言葉を口に出してみる。


「でも、ばあちゃんたちの食べ物を取ってくるのはあたしの仕事でしょ。それに今回のごちそうは、特別中の、特別でしょ。それはあたしが取ってくるのじゃなけりゃ、意味がないよね、あたしの仕事なんだから」


 三婆は一斉に首をかしげた。勢いだけで放たれた子供の言葉を理解するには、年寄りには少々の時間が必要なものだ。


「えーと白面、わらわは、よく」


「玉藻の姉者、私も理解不能で」


「つまりハレは、これは自分の仕事だと言いたいんじゃな?」


 陀貴が言うと、ハレはぶんぶんと首を縦に振った。


「ばあちゃんたちのごちそうは、あたしが取るの」


 千切れそうになるくらい唇を噛みしめるハレに、玉藻が優しげに手を伸ばす。


「ハレや、お前の優しい気持ちはとてもうれしいわ。でもね、今回はあんまりにも危険な……」


「危険じゃなけりゃ、美味しくないでしょ」


 玉藻の言葉を、ハレは目に力を籠めて遮った。拳をぎゅっと握り込み、赤い袴の上で小さく震わせた。


「ばあちゃんたちの美味しいご飯は、危険なくらいの相手じゃなけりゃ、できないでしょ。だったら、あたしだってそういうところに行かなきゃ。いつまでも、美味しくないものを取ってくると思われるのは、いやなの」


 赤ん坊の頃、ハレは狐に攫われてきたらしい。


 その記憶は、無い。


 どういう経緯があったのかは知らないが、結局ハレは食われることなく、物心ついたころから三婆に育てられ、三婆を親だと思って過ごした。


 何一つ、不自由は無かった。


 自分に尾が無いことに気づいたのは、いつの頃だったろうか。


 尾っぽが欲しいと泣いてねだるハレに、三婆は、ハレが狐の眷属ではなく、他ならぬ人間であることを教えてくれた。


 人間は、妖狐にとって、食べ物だ。

 知っていても、どうしてか、悲劇とは思わなかった。


 ただ、弱いままでいてはいけないと思った。うすぼんやりしていたら、いつか酢漬けににして食べられるに決まっている。そうなる前に、何とかしなければいけないと思った。


 尾っぽが無い分、腕っぷしを強くしなけりゃならない。

 逃げ足を早くしなきゃならない。

 泳ぎも達者にならくちゃいけない。


 そう思い、身体を鍛えた。


 怪魚相手に棒切れを振り回しながら、池の飛び石を飛びまくった。

 百年狐と一緒に、断崖絶壁の針山を走りまくった。


 そうして暮らしてみれば、妖怪の世界はそれほど殺伐としたものではない。


 山にあるものを食い、空にあるもの、地にあるもの、水にあるものを季節が変わるごとに取り込み、受け入れて過ごす。寒ければ寒い、暑ければ暑い。人間のように工夫しない代わりに、寒いことや暑いことの喜びも知っている。


 ハレはこれまで、思うままに生きて来れた。


 自分は普通以上に幸せだと思ってもいる。


 だけどそれもこれも、「九尾の三婆」という後ろ盾があるからこそだ。


 三婆のおかげで生かされているのに、三婆のために何もできない自分というのは一体なんなのだろうと、ハレは今、そう思うのだ。


 彼女らのために食べ物を持ってくる。飲み水を持ってくる。


 自分が娘であるのならば、せめて、せめてそれくらいはしないと、いや、


「それくらいは、させてくれなきゃ、嫌なの」


 三婆が顔を見合わせている。


 もともとは一体であった三人の狐女たちの、それは無言の会話であったのだろう。


 音声にならぬだけで、妖狐たちの議論が白熱しているのが分かる。念波の飛び交う大広間は、まるで目に見えぬ電気が隙間なく飛び交っているような、切迫した空気に包まれた。


「ハレ」


 口火を切ったのは、陀貴だった。


「お主はもう一つ、大事なことを忘れているようじゃ。……今回の獲物は、人間ぞ」


 陀貴の問いに、ハレは音を立てるような瞬きを一つした。


「うん、そうだよね」


 うすらとぼけた答えに、白面の眼光が鋭くなる。


「え、でもそれ、何か問題があるの。今までだって、人間をいっぱい狩ってきたじゃない」


「あれらは、悪霊ですよ」


 お前がほとんど成仏させてしまったけれどね、と、玉藻が付け足す。


「人間そのものではない、人間が恨みや悲しみを募らせて化けた、別の者たちです。生身の人間ではないのですよ、ハレ」


「だが、今回は違う」


 白面が後を受けた。


「お前が狩らなければいけないのは、お前と同じ人間だ。お前にそれが出来るのか」


 問われても、ハレには分からない。悪霊と人間の違いが、頭の中で全くピンと来ないのだ。ハレは正直に三婆に思った通りのことを告げた。


「わかんないけど、でもあたしやるよ」


 三人は目配せをしあい、見事なくらい同時に、長い長いため息を漏らした。


「清々しいほど分かっておらぬな」


「わらわは心配で死んでしまいそうです」


「しかし姉者様、先ほども申しましたように」


 おそらく脳内会議のことを言っているのであろう、白面は二人の姉に、正座した膝をすっと向けた。


「時が来たと言うことかもしれませぬ」


 二人はそれきり黙し、やや老けた顔をそれぞれにあらぬ方向に向けた。


 ハレは結局三婆の明確な許しを得られぬまま、部屋に戻された。


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