一. 狐の娘
妖怪の朝は早い。
まず、山道を二里走って、上流の清水を大きな徳利いっぱいに汲みに行く。
下流にも水はあるのだが、泥臭くていけない。
朝の一杯は上流の、出来るだけ雲海に近い川の水が良い。春であれば、朝日をあびて雪笹から滴り落ちる雪解け水をひとしずく、隠し味で入れることが出来たら、なおよし。
「わっ、つめた」
真っ直ぐな黒髪をおかっぱにし、稚児水干と赤い袴をつけた巫女風の娘が一人、小川のほとりで雪解け水を汲んでいる。指先を真っ赤にしながら一抱えある茶徳利に水を詰めいれると、自分でもひとすくい、掌で掬って唇にあてがった。
「甘い……」
娘の唇が、水の冷たさに真っ赤に染まる。
見目の悪い少女ではない。むしろ、美しい。
里の娘よりも顔のつくりがはっきりし過ぎている感があるが、遠目からでも分かる黒目の濃さと白い首筋はなかなかに神秘的で、天の童が気まぐれに舞い降りたような印象すら与える。
娘は、紅をさしたようなその唇をゆっくりと弓形に上向かせると、
「どっこいせっとぉ」
大徳利を右の肩に背負い、大地に両足をふんばって立ち上がり、いとも身軽に駆け出す。
もしもこの時、竹の子取りの翁がここを通りかかったとしたら、十中八九、この風を蹴る娘をどこかの巫女だと思うだろう。そして、「はて、こんな山奥に神社があったかな」と道すがら首をかしげ、麓に着く頃には、「無い。神社などあるはずが無い。俺は一体何と出くわしたんだ」と、背筋を震わせることになる。
娘は、そういう存在だった。
人間か妖怪かは別にして、そういう「あるはずが無い」世界に生きていることは間違いない。
この娘、ハレと言う。
「なーにがーしさん」
水を汲んだら、お次は食べ物である。
妖怪の掟は整然とした弱肉強食で、強いものが弱いものを喰らうのが常道だ。
自分と強さが近いものほど美味。魚や鳥といった弱い生き物は喰らおうと思えば喰えるのだが、これもまた泥臭くていけない。生き物だったらせいぜい熊か人間くらいの強さが欲しいし、それが手に入らないなら、いっそ化け物を喰らうのも悪くない。
「なーにがしさん、夜釣りご苦労さま、何か釣れてる? 」
池や沼には大抵、なにがしさんたちが居る。
彼らも妖怪だが、最弱の部類に入る。
大きさは人間の子供くらい、雨の日も晴れの日も蓑と笠をすっぽりと被り、中身はススの塊みたいに真っ黒だ。彼らはもともとネズミの変化であるらしく、自分たちが食われないようにするために、池や川で夜釣りをしては他の妖怪たちに提供している。
《いいの あいます》
なにがしさんは、そう書いた木の札をうっそりと持ち上げた。
なにがしさんは、喋らない。手持ちの木札で筆談する。ただし、大抵字が間違っている。
言葉を喋れないわけではなく、極度の照れ屋か、ものぐさなのだろうと思われる。
ハレは、なにがしさんの傍らにある魚篭を覗き込んだ。
今日のなにがしさんの釣果は、古鯉であるらしい。
大きさよし、妖気もよし。色は沼の泥を掬い取って煮詰めたかのような墨色で、長い年月のうちに何を喰らったか背の鱗に凄みのある女の顔が浮き出ているのが、またよし。
「あれまぁ大物だね、なかなかエグ味がきいて、うちの婆様たちが喜びそうだ。よしっ、これもらうよ」
ハレはなにがしさんの毛だらけの掌に、桜貝を三枚、ぱらりと置いた。
不満なのか、なにがしさんは掌を引っ込めようとしない。すすけた肉球が、あいかわらず上を向いている。
「えー、がめついなあ。もうこれ以上出ないからね」
桜貝の上に、子供の拳くらいの白いうさぎ貝を置く。丸くて白くてまるまるとした貝で、朝日に濡れたように艶めいている。
なにがしさんはすばやく掌を閉じると、慌てたように懐に突っ込んだ。
なにがしさん市場価格でいけばちょっと高い買い物だが、いつも黙々と仕事をしているなにがしさんに敬意を表して、今日はこれくらい奮発してもいいだろう。
それに、この沼のなにがしさんにはことのほか世話になっている。時々ハレのために獲物を売らないで取っておいてくれることもあるのだ。
「またよろしく頼むね。今度はあたし、鰻がいいな。あ、いつものように物の怪入りじゃないやつをよろしくね、あたしが食べるだけだから」
《もいど》という看板とともに親指をぐっと突き上げているなにがしさんに手を振り、ハレは重い背負子を背負って立ち上がった。
茶徳利と合わせると、かなりの重量になる。が、これで婆様たちに褒められるかと思えば、嬉しい重さだ。
笹を敷いた背負子の中で、悪霊鯉がびちんと跳ねた。
「イキがいいねー」と、笑顔になる。
ハレは、物心ついた頃からここにいる。
この山、里の人々の言葉でいけば、此花山という。
もっと長く言うと、群雲国、美深五霊峰の此花山。昔から、人間が立ち入ってはいけないと言われ続けてきた神聖なる山だ。
だが、ハレにしてみれば、自分の住む山は「三婆様の山」である。隣の山は「山わろさまの山」だし、反対隣の山は「でえだらさまの山」、そのまた向こうは「狢大将の山」だ。ちなみに、麓から下の人間がいる場所はどんなに遠かろうと近かろうとすべてひっくるめて「ひとの里」である。
ここは良い山だ。少なくとも、ハレにとっては最高に居心地のいい山である。
遠い昔、ここに攫われて来た頃は随分と泣いたらしいけれど、今となってはここから出たいとは思わないし、「ひとの里」に降りたいとも思わない。
だが、妖怪と自分がまるっきり同じわけではないということは、ハレだって分かるのだ。
『かなしい、ああ、かなしい……』
背中の背負子の中で、泣き声がした。どうやら、古鯉が泣いているらしい。
「あ、きた」
泣き声とともに、背負子の重さがずしりと重くなる。ハレは眉を顰めると、やれやれと深いため息をついて立ち止まった。
「なあに、何か言い残しておきたいことでもあるの」
『かなしくて、たまらないの。悪霊になってもこの恨みをはらせないなんて。……自分がかわいそうで、哀れで……』
「あー、恨みごとね。わかったわかった、聞いてあげるから、誰の何が憎いのか言ってごらんよ」
黒目がちな目を半目にすると、ハレは背負子を背負ったまま、その場に立ち止まった。
まだ山頂は雪が多い。冬の間たっぷりと水気を飲み込んだ冬の土に、ハレの白い脚がずぶりずぶりと食い込んでいく。
鯉が、恨みを募らせて肥大化していた。
背負子の鯉が大きくなるほど、ハレの足は埋まっていく。ずぶり、ずぶうり。普通の人間であれば圧死していること間違いなしだ。
『あの男ときたら、私のお饅頭に毒を持ったんですよ。あたし、何かおかしいとは思ったんだけど、そのまま食べてしまったの。そしたら、胸が焼け付くようにあつくなって、腸が焼ききれるように痛くなって。ああ、あの痛み、あの胸の悪さ、思い出しただけで身が震えるわ』
「ふおおうっ」
身が震えると言いながら、悪霊鯉は背負子の中でびちびちと飛び跳ねた。
その大きさは今や軽く犬を超えている。それが背中で暴れるわけで、たまらず、ハレは体勢を崩した。もう身体は腰まで埋まってしまっている。
「で、その男に恨みを晴らすため、あんたは悪霊になって鯉に取り憑いた、と」
『そうなんです。鯉になって、この身をあの男に食べさせて、猛毒で苦しめて、あの男の耳元で言ってやろうと思ったの。あたしはこんなに苦しかったのよ、あなたも苦しんで死になさいって。ああ、その日をどれだけ楽しみにしてきたことか』
最早胸まで土に埋まってしまったので、ハレは諦めて、地面に頬杖をついた。
「うーん、それなのに、願いも果たせずにあんたこれから妖怪に食われるわけか」
『そうですよ。ひどい、ひどい。悪霊になっても苦しい思いをするなんて、ひどすぎる。この世に神も仏もありゃしませんよ』
「まあ、ね」
ハレとて、神様も仏様も見たことがない。
ハレはぬうと重々しく唸ると、背負子に向かって振り向いた。
大魚は昔の恨みを思い出したせいか、背負子の網目をぎちぎちに広げるくらいに膨張していた。その巨大さたるや、もはや小熊級だ。ちょうど人がおんぶをするように、胸鰭をハレの肩に乗せている。
これだけでもかなり迫力ある化け物だが、何より気味が悪いのは彼女の目だ。
魚類ではなく完全に人間の目玉になっている。
「でもさあ、ちょっと聞いていいかなあ」
ぎょろりと、鯉がこちらを見る。
「あんたをここで逃がしたとして、その男、いつ釣りにくんの?」
――びち。
「こんな山奥に来るほど、釣りが趣味なの?」
――びちびちびち。
「こんな人面魚食うほど、鯉が好物なの?」
――びちびちびちびち。
「だめじゃない、どのみち」
わあああああんっと、盛大な泣き声が背負子の中から響いた。
「ったく、もー……」
婆様たちに言わせれば、悪霊は苦しんでいるほど味が良いらしい。多分、この大泣きする鯉を御社に持って返ったら、婆様たちは手を叩いて喜ぶことだろう。
【本日のお献立 悪霊鯉の生け造り~泣きじゃくり仕立て~】
(でもあたしの趣味じゃないんだよなあ)
ハレは大きな溜息をつくと、よっこらしょと土の穴の中から抜け出た。何ごともなかったかのように、衣の土を払う。
「その男に復讐したいなら、あんた、うちの婆さまたちに頼んじゃいなよ」
ぴたりと、背負子の中で泣き声が止まった。
「うちの婆様たち、あれでもニ千年生きた九尾狐なんだよね。もうヨボヨボになっちゃって、九尾を維持するのがきついってんで、三体に分かれてお茶飲んで暮らしてるんだけど。でもまあ、その筋じゃ一目おかれた大御所だし、人間の男一人くらいちょちょいっと呪い殺してくれるよ」
『――で、でも、私の頼みなんか……』
「大丈夫大丈夫、私を食べるならナニ村のダレソレを殺してくださいねってお願いすればいいんだ。妖怪はめっぽう義理堅いからね、命をかけてそういう約束事をもちかけられたら、やらざるをえないの」
多分、生き造りの鯉が船皿の上で口をぱくぱく言わせて懇願する様を見て、三婆たちはめんどくさそうに顔を見合わせるに違い無い。
それでも、生き物が命を賭して願うことを、化け物が無視することは出来ない。永遠の命を持つ者たちは、そういう約束事の中で生きている。
『そう、なんですか……』
悪霊鯉は、感心したような、どこか怯んだような細い声で呟いた。
『でもそれって、どんなふうに復讐してくれるんでしょうか』
「どうだろうなあ、まず相手の男に、あんたが飲んだ毒の倍くらい毒を飲ませるでしょ。それから三日三晩のた打ち回らせるんじゃないかな」
『すぐに殺さないんですか』
「うん、そう簡単には殺さないと思うよ、狐は獲物で遊ぶのが好きだからねぇ」
言いながら、ハレは三婆の一人である陀貴の顔を思い出した。お洒落で派手好きで享楽的な彼女は、そうした「遊び」をこよなく愛している。
「遊ぶのに飽きたら、弱りきった男にあんたの恨みつらみを浴びせ続けるだろうね。これがまた三日三晩続く。じっくりじっくり弱らせる」
そういうことをしそうなのは玉藻だ。ねちっこいところのある彼女は、何でも時間をかけて楽しむのが大好きだ。反応が面白ければ、言葉責めは三日できかないかもしれない。
「最後にそいつが性も根も尽き果てたところで、ざくざく切ってぺろりとおいしく頂く。これで復讐はおしまい。どう?」
最後に鉈を振り下ろすの白面。なんでもキッチリ終わらせるのが趣味みたいなところがあるあの婆は、多分無感情で男の頭を落とすだろう。さらに言えば、あの婆は人間をおいしく頂く方法を、百通り知っている。
背負子の鯉は黙りこくった。
(これで、鯉も安心できたかな)
ハレは再び走り出した。
切り立った岩が針山のように突き出ている斜面を駆け下りる。このあたりまで来ると、山菜取りの人間も、木こりも、それどころか動物たちさえ近づかない。視界には常に靄が垂れ込めていて、自分のつま先さえ見えないのだ。不用意に歩いたが最後、気がついたら断崖絶壁や底なし沼に落ちていた、なんていうことということもごく当たり前に起こりうる場所である。
ひときわ高い岩の先端にすっくと立って、ハレは草笛をぴいぷう鳴らした。
物悲しい響きが靄を裂いて当たりに反響すると、靄の中にぽつん、ぽつんと灯りがともる。
まだ若い百年狐たちが、ハレのために道の先々で提灯を灯してくれているのだ。
皆、ハレを見るとうやうやしく太い尻尾を上げてお辞儀する。
『あなた、一体何者……?』
「え? うーん、それはけっこう難しい質問だなあ」
『お偉い狐なんですか?尻尾は無いみたいだけれど』
「いや、狐ってわけでもないんだよねぇ」
ハレは口ごもり、桜色の頬をほりほり掻いた。耳元に結わえた赤い飾り紐が、さららんと揺れる。
「あ、ここからが婆様のお屋敷だよ」
ひときわ濃い靄が、湖を前にぱっかりと割れていた。その中央に、巨大な朱塗りの鳥居が荘厳な間口を開けている。
鳥居は、一本ではない。湖の真ん中にある中ノ島に向かって、水面から生える葦のごとくに一列、無数に並んでいる。等間隔で延々と続くそれは、まるで悪い夢の中のようでもある。
「あの中ノ島にお屋敷があってね、そこまで、飛び石を跳んでいくんだよ。落ちたら大変だから、ここからは暴れないでおくれよね」
言いながら、ハレはぴょんと一つ目の飛び石を跳ぶ。
びちびちびち。
『待って下さい!』
「わたたっ」
不意打ちに身体の均衡を失い、ハレは危うく湖に落ちそうになった。
この下には悪霊鯉など比較にならない怪魚がうようよといる。ハレはぎりぎり見逃してもらえるだろうが、悪霊鯉などミミズのように一呑みされてしまうはずだ。
「もー、言ったそばから! ほんとシャレにならないって」
手近な鳥居に抱きついて、なんとか水面への落下は免れた。足元を、熊ほどの大きさがある巨魚が、ゆらありと旋回して消えて行き、ハレは冷や汗を拭った。
一旦陸へ戻り、魚篭を下ろして改めて説教をする。
「今度は何? もう覚悟決めたんでしょ。黙って婆さまたちに食べられなさいねって小さくなってない?」
『――ごめんなさい、あの人が狐に呪い殺されると思ったら、急に悲しくなってきてしまったの……』
「はぁ?」
顎が外れそうになり、ハレは魚篭のへりに捕まった。
「何で? あんた、そいつを殺したいんじゃないの?」
『そう――だったんですけど』
化け鯉は、もじもじと背びれを動かした。
『いざ本当に殺せるんだなあと思うと、なんだか切ないような、彼に生きていてほしいような、そんな気持ちになってきてしまって……』
「え、え、え、え、待って、だって、憎い男でしょ? あんたに毒を盛ったすごく悪いヤツなんでしょ?」
非常に悪い予感がしてきて、ハレは背負子の中に顔を突っ込むようにして呼びかけた。鯉の体積がみるみる縮んでいる。もっと悪いのは、真っ黒だった身体の色が薄くなりかけていることだ。
「おわわ、イキが悪くなってる! 鯉さーん、もっと恨んで~。その男は悪い奴だよね、罪もないあんたに毒を持ったひどいヤツだよねぇ。あんたはなーんも悪くないのにねえ。恨んでー。さあ憎んでー」
『……いえ、考えてみたら、私の方こそ悪い女だったのかもしれません』
まずい。
『――あの人には随分と不義理をしました。うふふ、あたし、これでも売れっ子の女郎だったんですよ。色んな男を手玉にとってね。あの人、もしかしたらあたしを独り占めしたかったのかもしれませんねぇ』
鯉が、色っぽくしなりと尾をひねる。
「えと、待って、なんか不吉な光が」
籠の中に光が集まりつつある。背中に女の鬼面を背負い、闇のように真っ黒だった鯉が、じわじわとその鱗に光を集めていた。
『――あら、光……光が見えてきたわ。きれいな光の川』
「うわ三途の川向こうから来た!」
今や鯉に降り注ぐ光の量は、ちょっとした小さな滝だ。ほとんど垂直に降りてくるその滝の下で、化け鯉は戸惑うように円を描いて泳いだ。と、ふいに、その動きが止まる。
『……向こうにいるのは、あの人、あの人だわ』
「いかんっ」
慌ててハレは手を伸ばし、ぬらつく魚体にしがみついた。腰ヒレを捕まえ、後ろに引き戻すつもりで力任せに引いた。
だが、ハレの渾身の力を持ってしても、悪霊鯉は胸ビレを一生懸命に動かして前へ前へと前進する。ついに、彼女はその巨体を光の川面の中へ埋めてしまった。
「うぉぷ」
ハレはぎりぎりのところで息を大きく吸い込んだ。三途の川が本物の水でできているのかどうかは知らない。だが、自分を圧迫するこの感触はまぎれもなく水だ。
思いがけず、三途の川を鯉とともに遡上することになってしまったハレは、少しだけ焦っていた。いかに化け里育ちとて、こんなに明確にあの世に足を踏み入れたのは初めてだ。鯉のヒレを離して泳ぎ帰ったほうが得策だろうが、はたして自分が来た方向はどっちだったろうか。戻りつく岸を間違えたら、もう戻れないような気がする。
おそるおそる目を開けると、水は存外澄んでいて、視界は良好だった。
水晶みたいに透明で硬質な水の中を、ひっきりなしに天上へ天上へと上がってくる小さな泡つぶ。見下ろせば、川底にはびっしりと、まるで白サンゴのように人骨が積もっていた。そこから、泡つぶはとめどなく湧き上がって消えていくのだ。
涙だな、と、ハレは思った。
『いないわ、さっきあの人を見た気がしたのに、どこにもいないわ』
ハレの腹の下で、鯉がせわしなく尾びれを動かす。大粒の涙が一粒、魚類の瞳から湧き上がって、同じように水あぶくとなり昇ってゆく。
勝手に人を好いて、勝手に恨んで、勝手に呪って、それでもって勝手に許して。ほんとつきあいきれないよと腹の中でため息をついたハレは、薄汚れた小さな鮒が、のろのろとこちらに近づいてくるのを見た。
みすぼらしい鮒だ。鱗があちこちはがれかけ、ところどころ白く膿んでいる。目も白濁して、このままいつ陸に上がって死んでもおかしくないように見える。
ハレははたと気づき、泣き叫ぶ悪霊鯉の腹を一つ、叩いた。
「ほら」
口からあぶくを出しながら呼びかけると、鯉は身もだえするのをやめた。ハレがまっすぐに示した指先の、その向こうにいるちっぽけな魚に、鯉は視線を止めた。
『あんた……?』
これはあくまでも、ハレの推測だが。
女郎を毒殺した後、客の男も一緒に死んだのだろう。
女郎は知らずに悪霊鯉となり、男を呪い殺す日を夢見た。男は一人で三途の川を渡れずに、どっちつかずの川の中で女を待ち続け、いつしかこんな小さな魚になったのだろう。
『あんたが待っていてくれたなんて知らなかったんだ』
時に横倒しになりながら、それでも懸命に泳いでくる鮒に、鯉は我を忘れたような、うすぼんやりした声で言った。
『ごめんよ、あたし』
ハレの手のひらの下で、ずるりとした感触があった。
鯉の外皮が、黒い鱗もろとも抜け出しているのだ。例えるなら、それは掌の下を最上級の黒い絹が滑りぬけていく感じだった。
鯉は、身二つになった。
今、ハレの目の前で、悪霊鯉が本体を投げ出し、鱗だけでできたしなびた干魚のような姿になって鮒に近づいていた。弱弱しい鮒は黒鯉の胸ビレあたりに、体をこすりつけるようにして寄り添った。
『ああ、そうだねあんた。心中した身じゃ、とても御浄土には行けやしない。二人して三途の川にうち上げられるなら本望さ』
そうして、大小二匹の魚は、残った力を振り絞るようにして水流に逆らい、泳ぎだす。一度だけ、鯉が振り向いた。
『ありがとうよ、お嬢さん。このご恩は忘れない』
その時、だしぬけに鉄砲水のような急流が、こちらに打ち寄せた。有無を言わせぬ巨大な力に押し流され、ハレと、悪霊から捨てられた鯉の本体は、あれよあれよという間に渦の中吸い込まれていく。
そして。
ハレはどすんと大きな音をたて、春まだ浅い山の地べたに尻もちをついた。
小刻みに呼吸して、これまで吸入できていなかった分、空気を取り入れる。不思議なことに、身体は濡れていない。衣を払うと金色のさらさらした砂が零れ落ちただけだった。
ハレが空から落ちてきてから間もなくして、今度は自らの肉体を捧げるように、大きな鯉がどさりと背負子に落ちてきた。
「あーーーーーーーー」
ハレは背負子を覗き込むと、腹から鼻に抜け出るような間の抜けた声を出した。そしてへなへなと全身の力を抜いて、背負子に覆い被さった。
「まーた……やっちゃったよー」
駕籠の中では、神々しいまでに純白の鯉が元気よく跳ねていた。