モノクロ少女
「しろ」
目を覚ました彼女は、私の顔を見るなりそう言い放った。
「うん、おはよう」
――もう慣れた。私は「白」ではなく、「おはよう」と返す。彼女から「おはよう」と返ってきたことは、ない。
彼女は自ら洗面所へと向かい、のろのろと顔を洗った。前髪まで濡れた顔を上げると、鏡に、――いや、鏡の中の自分に向かって言う。
「しろ」
――もう、慣れてしまった。
さあ、朝ご飯の時間だ。といっても、彼女ははちみつミルクくらいしか飲まないけれど。
私がそのバイトを見つけたのは、本当に偶然だった。
「チャイルドシッター募集。泊まりこみできる方大歓迎。……って何これ、時給よすぎじゃない?」
四年大学卒業後、就職した会社がブラックすぎて早々に辞めた私は、アルバイト情報誌を漁っていた。本当は正社員がいいけど、全然決まらないんだもんなあ、この不景気め。……なんてことを思いながら。
蝉の鳴き声が鬱陶しいくらいによく聞こえるアパートで、スッピンで胡坐をかいて、新聞紙を読むおじさんみたいにアルバイト情報誌を見てるとか何これ終わってる。……なんてことも思った。
しかしこのバイト、本当に時給がいい。チャイルドシッターの相場がどのくらいなのかは知らないけど、子供と遊ぶだけでこれだけもらえるなんておいしすぎる。更に泊まり込みの場合は、晩御飯代までくれるというオマケつきだ。情報誌によれば、面倒を見るのは八歳の女の子一人だけでいいらしい。
「……こんなおいしい仕事、みんな飛び付くだろうなあ。倍率高そう」
けれどとりあえず、電話だけでもかけてみようか。私は情報誌を見ながら、携帯のボタンを押した。
そこからはあっという間だった。面接というのは名前だけで、そのほとんどが仕事の説明だったのだ。つまり、
「では、明日からよろしくお願いしますね」
つまり私が電話をかけた時点で、私の採用は決まっていたようだった。
面接の後で知ったことだが、私が面倒を見るのはかなり『変わった子供』らしい。大病院の院長の娘だが、とにかく変わっている子供で(時給が良かったのもそのせいか?)、その子に耐えきれず辞めていったチャイルドシッターも多いらしい。――という噂が広まり、近場の人間は誰も、そのバイトに手を出さなかったそうだ。……などという情報を友達から仕入れた時には、後の祭りだった。だってその時にはもう、私は仕事場となる大豪邸の目の前にいたんだから。
「しろ」
初対面の子供にいきなりそう言われて、意味の分かる大人がいるだろうか。私は分からなかった。というか、下着の色を当てられたのかと思って焦った。
高級そうな花瓶の置かれた玄関先。無表情で私を出迎えた少女は、私の顔を見てもう一度言った。
「しろ」
……発音から考えるに、やっぱりこれは命令文の「しろ」ではなく、「白」の方だろう。しかし訳が分からず、私は首を傾げるしかなかった。八歳の割に目鼻立ちのくっきりした彼女は私の様子を見て、満足したのかなんなのか、さっさと自室へ引きあげてしまった。
病院長の家は、それはもうすばらしい広さだった。こういう家でこそ、自動式のUFO型掃除機は役に立つんだろうなと思う。私の家で使っても、すぐに壁にぶつかるだけだ。
UFOが床を這う様子を見ながら、私は晩御飯の準備をした。冷蔵庫にある食材は好きに使っていいと言われていたので、適当に見繕って調理する。いかにも高級そうなひき肉があったので、ハンバーグにしてみた。まあ、子供の好きな定番メニューだろう。
……と、思っていた時期が私にもあったのだが。
「くろ」
私の作ったハンバーグを見るなり、彼女はそう言った。一応言っておくけれど、焦がした訳じゃない。私だってある程度料理はできるのだ。今回のハンバーグだって、(材料が良かっただけに)かなりおいしそうに仕上がってると思う。けれど、
「くろ」
彼女はもう一度そう言うと、自ら冷蔵庫をあけ、はちみつと牛乳を取り出した。それらを適当にコップに注ぐと、スプーンでぐるぐるとかき混ぜながら、
「しろ」
やはり無表情のままそう言い放ち、自室へと戻った。
噂通りというか、やっぱりその子は変わっていた。
まず、その子は学校に通っていない。本人が拒否しているのかなんなのかは知らないが、一日中家にいるのだ。なのに、恐ろしいくらいに勉強はできる。多分、国立大学の試験でも通るんじゃないだろうか。
それから、彼女はご飯をほとんど食べない。お菓子も食べない。食事は、来る日も来る日もはちみつミルクだけだ。
数日間、彼女の分もご飯を用意していた私は遂に諦めて、自分の分だけ作るか持ってくるようになった。
更に彼女は、表情が欠落している。笑わないし泣かないし、怒らないし喜ばない。何を考えてるのか分からない。ポーカーフェイスも通り越しているようなその顔は、八歳の子供には酷く似合っていなかった。
そして何よりも一番変わっているのは、
「しろ」か「くろ」しか言わないのだ。
挨拶も何も言わない。肯定の時に頷いたり、否定の時には首を振るようなジェスチャーも見せない。彼女が言うのは「しろ」か「くろ」だけ。「しろ」と「くろ」の基準もまた不思議で、私は「しろ」、彼女自身も「しろ」、朝ご飯の焼き鮭は「くろ」、電線にとまっているカラスは「しろ」。かと思えば、窓の外を歩く黒猫を見て、
「くろ」
やはり無表情に、そう言うのだ。
「カラスは白色で、あの黒猫は黒色なの?」
私が質問しても、彼女は答えない。ただ、何かを確かめるように
「くろ」
そう答えるだけだった。
「噂通り、変わってる子だなあ……」
彼女の家に一泊した帰り道、明け方の爽やかな空気の中で私は呟いた。昨日も相変わらずはちみつミルクしか飲んでなかったし。はちみつミルクが好きと言うよりも、それにこだわってるように見える。ドラマか何かで見たけれど、自閉症の子に似ている気もした。
自分の昼ご飯は何にしよう。そんなことを考えながら歩いていたら、携帯が鳴った。私の雇い主、つまりは病院長からだった。
「はい、もしもし?」
「娘を病院に連れて来てくれ! 大至急だ! もちろん、君の残業代は出すから!」
病院長は切羽詰まった声でそれだけ言うと、一方的に電話を切った。
「……なにごと?」
携帯の画面に向かって尋ねてみるが、もちろん返事はない。しかしなんだか急ぎの用事みたいだし、残業代も出すと言われたし、行くしかないだろう。私は踵を返して、彼女の家へと向かった。
道中、血まみれの黒猫が道路に横たわっているのを見た。
大病院の中は、ただならぬ雰囲気に包まれていた。というか、血まみれの人で埋め尽くされていた。
「え、な、なに!?」
状況が飲みこめず慌てふためく私とは対照的に、少女はさっさと処置室へと歩き出す。ロビーにいる人たちは脚や額から血が流れていたり、ソファーに横たわっていたり、――腕にガラスが刺さっている人もいた。彼女はその人たちの横を平然と通り過ぎながら、
「しろ、しろ、しろ、しろ、しろ」
一人一人に指をさしながら、「しろ」だと言い続ける。状況が全く理解できない私は、彼女についていくしかない。ただ、相当頭の悪い私ですら、何か大きな事故があったのだという事だけは分かった。「爆風でガラスが……」という声も聞こえてきたし、爆発事故だろうか。
けれどどうして、患者のあふれるこんな場所に院長は娘を呼んだのだろう。
「うわ……」
奥に進めば進むほど、重体の人が増えている気がする。明らかに脚が変な方向に曲がっていたり、腕だけではなく体中が血まみれだったり、爆風のせいで皮膚が焼けただれていたり。……吐き気と戦う私をよそに、彼女は相変わらずの無表情。ざっと辺りを見渡すと、視界の左にいる人間から順に指をさし始めた。
「しろ、しろ、しろ、くろ、しろ、しろ」
いやここは、白でも黒でもなくて赤だよ……。と考えていたら
「どの人を指差して『黒』だと言った!?」
背後から声をかけられ驚いた。振り向くと、白衣を着た男性がそこには立っていた。白衣には若干血が付いている。
「黒はどれだって!?」
医者らしき男性に同じ質問をもう一度され、私は首をかしげた。
「えーっと……」
「しろ、しろ、しろ、くろ、しろ、しろ」
私の代わりに、彼女はもう一度左から順に指を指していく。それを見た男性は頷き、看護師たちに指示を出した。
「この人たちを処置室へ!」
医者の言う「この人たち」は、「しろ」の人間だった。私は「くろ」と言われた人間へと目をやる。腕の角度がおかしくて血まみれなところ以外、「しろ」と言われた人と大差ない。むしろこの人には意識もあって、
「くる……し……」
そのうめき声を聞いて、私は思わず看護師の腕を引っ張った。
「ねえなんで!? なんでこの人は処置しないんですか!?」
私の言葉を聞いた看護師は、呆れたような顔をした。何も知らないのねと呟き、少女へと目をやる。そして、
「その子が、『黒』だと言った。だからよ」
そう言い残して、処置室へと消えた。立ちつくす私と、無表情の彼女と、呻く男性。
「たす、け……しにたくな……」
男性を一瞥した彼女は、
「くろ」
やはり無表情に、そう言い放った。
死者二名、重軽症者十八名。隣町で起こった爆発事件の速報を院内ロビーのテレビで見ながら、私は何とも言えない気分でいた。死亡と書かれた人間の顔に、見覚えがあったからだ。
『たす、け……しにたくな……』
彼の最期の言葉が、頭をよぎる。口元を押さえて俯く私に、
「お疲れ様。さっきはごめんなさいね」
先ほどの看護師が、緑茶の缶をこちらに差し出しながらそう言った。それを見た少女は言い放つ。
「くろ」
「はいはい、あなたはこっち」
看護師は彼女のために買ったらしいパック入りの牛乳を差し出した。
「しろ」
少女は確認するように呟いてから、それにストローをさした。
「……あの、あれってどういうことなんですか」
看護師のくれた緑茶の缶を握りしめたまま、私は尋ねる。
「――あれって?」
「彼女が黒だと言った患者は放置する。どういうことですか。もしもちゃんと処置してくれていたら、あの人は……!」
「処置しても無駄なのよ」
看護師の声は、酷く冷たかった。いや、何かを諦めたような声だった。
「あなた、トリアージって分かる?」
「とり……?」
「赤はすぐに治療、黄色はその次、緑は軽傷。そして黒は、死んでいる人間もしくは治療を施しても死亡するのが明らかな人間。……大災害なんかで怪我人が大勢いるときはどうしても、治療する患者の優先順位を決める必要がある。だから、患者の状態を判定してそれぞれの色のタグをつけるの」
私は眉間にしわを寄せた。
「彼女が、そのトリ……をしたっていうんですか」
「厳密には違うんだけどね」
看護師は少女に目をやる。ちびちびと牛乳を飲んでいる彼女は、こちらを見ようともしない。
「……この子はね」
看護師は、秘密の話をするかのように声を潜めた。
「生きている人間は白色に。死んでいる人間、もしくは近々死ぬ人間は黒色に見えるのよ」
聞こえていたはずだけど、少女は何も言おうとしない。私は一瞬言葉を失ってから、
「……何言ってるんですか」
ひっくり返った声を出した。
「信じられないかもしれないけれど、本当の話なのよ。彼女が『黒』だと言った人間は、どんな治療を施しても必ず死んでしまうの。たとえそれが、軽傷に見える患者でもね。医者の腕も関係なく、本当にそうなってしまう。だからいつからか皆、彼女が黒だと言った人間は諦めるようになった。彼女の言葉はトリアージなんかよりも、はるかに正確なの。百パーセントだと言ってもいい」
「そんな……」
「人間だけではなく、生物も白か黒かで見えてるみたい。だから彼女には、緑茶だって黒色に見える。……お茶の葉を摘んで作ってるんだものね。焼き魚は、焦がしてなくても真っ黒に見えてるはずよ。――彼女にとって白色に見える食べ物は、牛乳とはちみつくらいなんじゃないかしら。食べ物って言えるかどうか、分からないけれど」
私は彼女へと視線をやる。相変わらずちびちびと牛乳を飲んでいて、パックは徐々に潰れはじめていた。
「……彼女が黒だと言ったら、治療も何もしないって言うんですか」
「何度も言うけど、本当に死んでしまうんだもの。ここに来たばかりの新米医師はいつも、彼女が黒だと言おうがどうにか救おうとするわ。あなたと同じような言い分でね。……まあ、みんな数か月で諦めるけれど。だって、本当に死んじゃうんだもの」
看護師は頬杖をつくと、テレビ画面を見ながら言った。
「逆に、どれだけ重体に見える人間でも、彼女が『白』だと言えば絶対に助けられる。要らない治療は排除して、百パーセント救える人間だけを救う。それが、ここの方針なの。暗黙の了解ともいう」
ちょうどその時、牛乳を飲み終わった彼女が立ちあがった。玄関ホールを見つめてから、帰ると言わんばかりにこちらを振り返る。それから看護師の方を見て、
「しろ」
空になったパックを差し出しながら、言った。
「そう」
パックを受け取りながら、看護師は笑う。
「よかった、黒じゃなくて」
その日から、私は彼女の前でご飯を食べられなくなった。というか、極端に小食になった。
「……これも黒なんだろうな」
コロッケパンを見ながら呟く。パンに使われている小麦もジャガイモも引き肉も何もかも、彼女から見ればきっと黒だ。
一泊する時なんかは特に、彼女と同じはちみつミルクばかり飲むようになっていった。
朝起きると彼女は、私の顔を見て「おはよう」の代わりに言う。
「しろ」
……もしも、黒だと言われたら? そしたら、私は。
チャイルドシッターが次々と辞めていく原因が分かったような気がする。
彼女は私の考えを知ってか知らずか、いつも通り自分のペースで顔を洗い、鏡の中の自分に向かって言った。
「しろ」
その後も何度か、病院に呼ばれることがあった。彼女の親が経営する病院だけではなく、他の病院に『貸し出される』時もあった。
「どの人が白で、どの人が黒か、教えてくれるかな?」
わざとらしい医者の頬笑み。
ICUにいる人たちを見て、彼女は左から順に指をさした。
「しろ、しろ、くろ、しろ、しろ」
……彼女は、これを望んでやっているのだろうか。
私は彼女の手を強めに握った。彼女は、握り返してこなかった。
「あらあ、また来てたの。久しぶりねえ」
帰り際、待合室でテレビを見ていたお婆さんに声をかけられた。どうも、この病院に来るのは初めてではないようだ。このお婆さんの他にも、何人かの人に声を掛けられていた。無表情で無口だけれど、彼女は人気があるらしい。
「今日は学校はお休み?」
お婆さんの質問にも、やはり答えない。しかしそれにも慣れているらしいお婆さんは、ポケットから蜂蜜キャンディーを取り出した。パッケージには、『蜂蜜だけで作りました』と書かれている。これなら彼女も食べられるだろう。
「また来てね」
笑いながら手を振り、病室へと戻るお婆さんの後ろ姿に、彼女は小さな声で呟いた。
「……くろ」
その日の夜、お婆さんは亡くなった。
限界を感じ始めたのはその頃からで、私はいつこの仕事を辞めようかと考え始めていた。彼女と一緒にいると、いつか「くろ」と言われてしまうかもしれない恐怖が、常に纏わりついているように思えた。
そんなある日、彼女は珍しくリビングで絵本を読んでいた。
「……何読んでるの?」
案の定、答えはない。けれど、その本を貸してくれた。私は彼女の隣に座ると、声に出して読み始めた。――が、途中から声を出せなくなった。
内容を簡潔に言うと『人間の寿命が分かる猫』の話だった。主人公の猫は、死の近づいている人間を励ましてやりたい一心で『そういう人間』に近寄るのだけれど、そのせいで『この猫に近寄られた人間は死ぬ』という噂が広まり、忌み嫌われてしまうのだ。そして、一人ぼっちになってしまう。
絵本だけれど、子供向けの内容とは言いづらいような、なんとも言えない内容だった。
なんとなく、誰かと、何かと被っている気がした。
「……大丈夫だよ。あなたは一人じゃない」
絵本に目を落としたまま呟くと、彼女はゆっくりと顔をあげた。
確認するように、私の顔を見る。
「…………しろ」
「あなたも。白」
私が笑うと彼女は俯き、リビングから出て行った。
きっと彼女は生まれた時から、モノクロの世界で一人ぼっちで生きてきて。
それがどれだけ辛いことかは、彼女にしか分からない。
自分の好きな人が、自分を好いてくれている人が、黒色に見えたら。
――言われるのと見えるのでは、どちらの方が怖いのだろう。
モノクロの世界から抜けだす方法を、彼女は知っていた。
モノクロの世界から救い出す方法を、私は探していた。
そしてその日は訪れた。突然に、まるで必然のように。
「しろ」
「うん、おはよう」
私が笑いかけると、彼女は洗面所へと歩き出した。朝ご飯を用意しなくちゃ、と思う。いつも通り、はちみつミルクだけの簡単すぎる食事だけど。
洗面所へ行った彼女は、いつもよりも時間をかけて顔を洗った。やがて、前髪まで濡れた顔をあげると、
「くろ」
鏡の中の自分に向かって、はっきりとそう言った。
「…………え?」
彼女の言葉。くろ。――くろ。黒。彼女が? 彼女の、
彼女の手に握られている、医療用のメス。
――白か、黒か。
見えるのと言われるのでは、どちらの方が辛いのだろう。
彼女はこちらを向くと、ゆっくりと微笑んだ。
八歳にしては落ち着いた、寂しさの宿った笑顔だった。
私はその日初めて、彼女の笑顔を見た。
私はその日初めて、「しろ」と「くろ」以外の言葉を聞いた。
「ありがと、ばいばい」
彼女はきっと、ようやく解放された。白と黒の世界から。
それがいけないことだったのかどうか、私には分からない。
私から見た彼女はいつだって、白でも黒でもなくて。