オサムとアカネ タイムライン 現在
二人は、中央公園を抜けて、ビル街に入ろうとしている。桜の花は散り始めていて、足元には落ちた花びらが、風の形をなぞるように舞い上がっていた。
オサムから、次の土曜日にちょっと付き合ってくれと言われた時、アカネは特にどこに行くのかも尋ねなかった。何か理由があるのだと感じたし、オサムがそれを言葉で説明できるとは思えなかった。
オサムのことは、ユリから話を聞く前から知っていた。店のビルの権利が、組に移ってから、時折オサムは、店に顔を出すようになった。シンイチを連れてくることもあったが、ほとんどは一人だった。一人で来るとオサムは、別に何を話す訳でもなく、店の花を眺めていた。アカネもオサムが、何も喋らず店にいることを、苦痛に感じたことはなかった。むしろオサムが店にいることで、いつも店に花を買いにきて、軽口を叩くホスト達が、借りてきた猫のようにおとなしくなったので、ありがたかった。
それは抜きにしても、オサムは他のヤクザとは、根本的に何かが違っていた。それが何かを、言葉で説明するのは難しいが、アカネはそう感じていた。ユリが、「オサムっていうヤクザと付き合うことになったの。どうしてそうなったかは、分からない。ただ、彼が私の全てだってことが分かる。」と言った時、アカネはオサムのことを知っていると、なぜかユリには言えなかった。
ユリとオサムが、二人で店に来ることもあった。しかし特にユリは、オサムを紹介したりはせず、いつものように、昨日あったことをアカネに話し続けた。それはオサムに気を遣ってなのか、アカネになのかは、分からなかった。
アカネは、オサムが以前から自分のことを知っていると、ユリに話していないことを知り、なぜか安心した。どうして安心なんてしたのだろう? あるいはユリと同じ感情を、オサムに抱いていたのかもしれない。しかしそれは確かめようもないことだ。ユリが幸せになれば、それでいいと思った。
それから一年ほど経って、ユリが「オサムの元を離れるつもり、生まれ故郷の金沢に帰るの。」と言った。アカネは「そう、残念だけど仕方がないね」とだけ答えた。他に言葉が浮かばなかった。
「あいつが私の全てだってことは、変わらないの。それは普遍的なものなの。でもね、普遍的なものだけでは、守っていけないものが、確かにこの街にはあるのよね。あいつは心を見せない。でも心があることが私にはわかる。分かってはいるけど、どうしようもないの。」
ユリはその時にはもう、心身共に疲れ果てていた。アカネは言葉を選ぶことができずに、ただ彼女を見ていた。そのうち客が入ってきて、店が慌ただしくなってしまった。
「じゃあね、アカネ。落ち着いたら連絡するわ。金沢にもいつか遊びにきて。」
そう言ってユリは店を出て行った。それっきりユリは、店には現れなかった。 オサムは以前よりは少なくなったが、相変わらず店に姿を見せた。アカネはユリのことを尋ねなかったし、当然オサムからその話をすることもなかった。
それにしても、オサムはどうして自分を選んだんだろう? アカネは不思議に思う。オサムと自分は、全く別の世界で生きている。オサムが無口な男で、自分の生きる世界には頼める相手がいなかったとしても、アカネが選ばれる理由もあまりないはずだ。理由があるとすれば、そこにはユリのことが関係しているに違いない。二人を繋ぐものは、それしかないからだ。
数日前、オサムの組の奴らが店にやってきて、しつこくユリのことを聞かれた。知らないと言い張ると、「下手な嘘をつくと、商売できないようにさせてやるぜ」と言って脅された。実際ユリから一度も連絡はなかった。金沢に帰ると言ってはいたが、それが本当かどうかなんて、分かるはずもなかった。組がユリを探しているのは、間違いなくオサムにも関係があるからに違いない。そのことをアカネは、隣を歩いているオサムにどう切り出そうかと考えていると、オサムが先に口を開いた。
「ユリはお前には何でも話せるんだと、いつも言っていた。私たちだけが、この街を包む毒ガスのような腐臭から身を守っているんだと。俺にはそれがどんな臭いか見当もつかなかったが、お前はどうなんだ? やっぱりそう思っていたのか?」
アカネは驚いた。オサムがそんなに長い言葉を口にするのを初めて聞いたからだ。
「そうですね。ある意味では、ユリと同じ考えでした。でも私の場合はユリと違って、強い流れの中にいるということがなかったんです。ユリはなんていうか、存在すること自体にうねり、みたいなものがありました。それを自分でも分かっていました。そのうねりは、どうやっても、この街にはそぐわないものでした。本質的過ぎたんですね。そのズレに彼女はイラつき、助けを求めていました。それを受け入れてくれると信じることができたのが、オサムさんだったんじゃないんですか? 今となっては分かりませんが。」
アカネも饒舌になっている。
「どうして急にユリのことを? この誰もいない界隈を歩き回るのは、ユリのことを誰にも邪魔されずに考えたいからですか? どうして私にそれを、共有させようと思ったんですか? 私を通してセンチな感傷に浸りたいから?」
アカネは一気に言葉を吐き出す。相手がヤクザということも忘れて。オサムは何も答えず、アカネの言葉について、考え込んでいるようだった。長い沈黙のまま、ビルの合間を二人は歩いて行く。
「アカネ、悪かったな。もういいんだ。もうやめだ。こんなことしても何の意味もない。実は随分と長いこと、こうやって歩いてきた。意味のないことくらいは、自分でも分かってたつもりだった。だがな、お前と一緒に歩いてみて分かった。俺は意味を求めていない。それでいいんだ。」
「オサムさん、それは、私がそうさせたっていう意味にも聞こえますよ。オサムさんが頑なに守っている範囲みたいなものがあるっていうのは、わかります。感じます。ただそれを守るために、私を口実にしないで欲しい。ユリは言っていました。オサムさんの心があるのがわかる。どんなに真珠貝って周りから言われようと、私にはそれを、感じることができるって。オサムさん、本当に自分の世界だけを守りたいなら、触れないで欲しかった。ユリに…。」
もう一度、オサムは黙り込んでしまった。おそらくこういう会話が、ユリとの間でも、何度も交わされていたに違いない。
「ウサギが…いや、何でもない。」
「ごめんなさい。私、何だか口が過ぎたみたいですね。どうしちゃったんだろ。私。どうしてここを歩き回るのか、理由は聞きません。これで終わりと言うならそれでいいと思います。ユリのことはもう二度と…。」
アカネの言葉がそこで途切れた。オサムも歩くのをやめて、アカネを見た。しかしアカネと目が合わない。アカネはオサムの真後ろのビルの、二階あたりに視線を向けている。オサムは振り返って、アカネの視線の先を見た。
「どうした? アカネ」
「あそこ、あの二階の三番目の窓で、私に手招きしてた。間違いなく。ユリ、だったと思います。」
そう言ってアカネは、ビルの外階段に向かって走り出した。
「おい、待て、アカネ! そんなわけないだろう!」
アカネは二階に駆け上がり、非常ドアを押す。ガチャっという音がしてドアノブが回った。何のつかえもなく、ドアが開いた。廊下を走り、外から見えた位置にある部屋のドアの前に立つ。表札には何も書かれていない。恐らく、今は何の会社も入っていないのだろう。ノブに手をかけた時に、オサムが追いついた。アカネがノブを回そうとすると、ドアがひとりでに部屋の中へと開いた。ひとりでに。アカネとオサムが部屋の中を覗き込んだ。
オフィス用品も何もない、がらんとしたその広い空間のちょうど真ん中に、ぽっかりと黒い穴が空いていた。