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ウサギの夢 タイムライン 過去

「起きて。もう夜明けだよ。山が見たかったんだろう? 窓の外を見てごらんよ。」


 遠くの方から、ユリにそう話しかける声がする。ボリュームを絞ったラジオの音を聞いているようだ。

「見てごらん。こんなに素晴らしい夜明けは見たことがないよ!」

 今度は、ユリのすぐ耳元で声がする。

 はっとしてユリは目を開いた。いつの間に眠ってしまったのだろう。最後の休憩所を出たところまでは覚えているが、眠りに就いた記憶がない。眠気は訪れないと思っていたのにと、ユリは不思議に思った。もう夜明けなのかしら? 外を見ようとすると、もう一度ユリのすぐ近くで声がした。

「決断する時は、いつだって突然訪れるんだ。大抵の人は、その準備ができないまま、決断をしなくちゃいけない。当てずっぽうでもいいやと思っていても、人は必ずその準備をしなかったことを後悔するのさ。後悔してるうちに、またすぐに、次の決断がやってくるってわけさ。」

 ウサギはそう言った。

 隣の席に目を向けると、ちょうどユリの方を向いたウサギと目が合った。真っ赤な二つの瞳。「不思議の国のアリス」に出てくるようなウサギで、左の耳が右より少し短い。ユリは何かを言おうとしたが、どうしても言葉が口から出てこない。バスの車内は明るくなっているが、夜明けの明るさではない。ユリを入れて八人いたはずの乗客の姿は見えず、よく見ると運転手もいない。ユリとウサギだけを乗せて、バスはまるで雲の中のような真っ白な空間を、音もなく進んでいる。どこを見ても日本アルプスなんて見えない。ただ真っ白なのだ。これは夢なのだろうか?

「おいらが夢の住人かどうかは、大した問題じゃないんだ。重要なのは、おいらが言う言葉を、あんたが信じられるかどうかってことだ。おいらは、あんたが決断をする前にここに来れた。それは本当に幸運なことなんだよ。穴が空く前に、おいらはあんたに話しかけることができた。」

 ユリはウサギの言葉を理解しようとしたが、うまくいかない。自分が思考しているのかどうかさえも、よく分からない。

 決断? 穴? 何のことだろう。

「もしおいらが現れていなくても、あんたは穴を見つけるんだ。それは、いろんな可能性が点在するこの世界の中で、たったひとつだけ確かなことなんだ。あんたがあんたであり続ける限り、あんたの目の前に、穴がぽっかりと姿を現すんだ。おいらが言いたいのは、その穴は、決して怖いものじゃないってことさ。穴の先のことなんて考えなくていい。そこに入っても、今のあんたは消えないし、入らなくてもその穴は怒ったりはしないんだ。いいね?」

 やはり夢なのだとユリは思った。そうでないと、こんなことは起こらない。喋るウサギの夢なんて素敵だけれど、目の前のウサギは、やけに落ち着き払っていて、とても低い声でユリに話しかけるので、あるいは現実のようにも思えてくる。穴って何なんだろう? ユリは特定できない意識の中で、もう一度そう考えた。

「穴の先に何があるかっていうのは、あんたには分かるはずさ。そこにあるのは、全てだ。あんたが失くしたと感じている全てが、その先にはある。それを取り戻せるかどうかは、あんた次第だね。おいらがどうこう言えるものじゃない。ただ、さっきも言った通り、穴に入らなくたって、あんたはあんたのままさ。失くしたものを、何かで補えるかもしれないし、永久に失くしたままかもしれない。それはまた違う可能性の話。ほら、ビートルズも言ってるだろう? 『Life goes on』ってさ。選ぶとも選ばざるとも、人生は進んでいくのさ。可笑しいね。ウサギがビートルズだって。」

 そう言ってウサギは声を出さずに笑った。ヒゲだけがピクピクと震えていた。そして、「さて」という風にユリの方に向き直った。

「時間が来たみたいだ。分かったかい? あんたは穴に入っても入らなくても、五分五分なんだ。取り戻すか失うかはね。何も考えずに、思うままにすればいいさ。誰もあんたを咎めたりはしない。道は乾いていて、いつでもあんたを待っている。それを忘れないで。じゃあね。」

 ウサギがそう言うと、バスを包んでいた真っ白な景色も、バスそのものも、溶け出すように歪み始めた。やがてそれが一つの流れになり、ウサギの胸ポケットに吸い込まれていく。暗闇の中に、ウサギとユリだけが、浮かんでいる。ウサギの姿も歪み始めて、ユリは暗闇の中で一人きりになった。


 目が覚める。二度目の目覚めだ。

 バスの中は暗いままだ。携帯の時計に目をやると「4:40」と表示されている。点滅する「:」が一秒ごとなのを確かめて、ここは現実なんだとユリは自分に言い聞かせた。           

 やはり最後の休憩所を出た後に、眠ってしまったようだ。ユリはウサギの言葉を思い返してみた。不思議な夢だ。とても夢とは思えない。窓の外を見ると、高速の降り口を告げる看板が通過していく。夜明けはもうすぐだ。顔を洗うために、ユリは席を立った。バスの一番後方に、洗面所がある。

 ウサギの言葉を整理して、ゆっくり考えようと思いながら、中央の細い通路を進んでいく。バスの揺れで倒れないように、誰もいない座席のヘッドレストを掴みながら進んでいった。後で客の数も、ちゃんと数えておかなくちゃ、と思ったところで、ユリの足が止まった。

 洗面所の目の前に、ぽっかりと黒い穴が空いていた。


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