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シンイチ  タイムライン 現在

 思い出せる一番古い記憶は、母親に背負われて、神社のお祭りに出かけた時のことだ。

 階段を上がる母の足元から、カランカランと音が聞こえていたのを覚えているので、母は浴衣を着ていたのだろう。お囃子の音がだんだんと近づくにつれ、綿菓子の匂いが辺りに漂ってきて、シンイチは、「降ろして」と母に頼んだ。茜色の夕陽が、遠くの山々の間を染め、その神々しさに圧倒されたシンイチは、急に怖くなってしまった。母の手を探すと、夏の羽虫が、顔の周りにまとわりついてきた。繋ごうとした手で、羽虫を払いながら、ふと、階段の手すりに目をやると、紫の夕顔の花が、甘えるように鉄の棒に巻き付いていた。

 次に思い出せる記憶の中では、シンイチは父親に殴られている。でも、そいつは本当の父親ではなく、母が再婚した男だった。本当の父親の記憶は全くない。どこで何をしてる奴なのかも、知らない。母親も、シンイチに本当の父親のことを話してくれたことはなかった。男は、シンイチを何度も何度も殴りながら、大声で叫び続けている。

「お前の母親はインランだ! お前が腹ん中にいた時も、男が何人も、お前の母親の中に出たり入ったりしてたんだよ! だからお前は濁ってんだ。ええ? お前は濁ってるんだよ! 分からねえのかよ! この野郎!」

 シンイチには「インラン」という言葉の意味も、「濁ってる」という理由も、よく分からなかった。殴られながらシンイチは、一度も泣かなかった。口の中が切れて、血の味がしても、吐き出さずに飲み込んだ。その時母が側にいたかどうかまでは、覚えていない。

 

 小雨がパラつき始めた新宿の街を、黒のセルシオが走り抜けていく。シンイチがオサムのマンションに向かっている。ハンドルを握りながらシンイチは、母親のことを考えている。何年も連絡を取り合っていないし、どこにいるのかも分からない母のことを。

 女子大病院の角を曲がって、オサムのマンションの前に車をつける。携帯をポケットから取り出し、オサムに電話をかけようとして、動きが止まった。

 二日前の夜、組の幹部の斎藤に、シンイチは呼び出された。組のこれからのことで、お前にも意見を聞きたいと言われた。斎藤は次の組長になる男だと、周りから思われていた。頭がよく、人脈も豊富だった。ただキレると歯止めがきかなくなる性格で、ヘマを踏んだ舎弟を、動かなくなっても殴り続けていたのを、シンイチは以前見たことがある。それはシンイチに、義理の父親を思い出させた。

 その夜は、斎藤と舎弟数人と飲み歩き、シンイチはしこたま酒を飲まされた。酒は強い方だったが、斎藤という有力者と一緒の席にいるという優越感もあって、シンイチはひどく酔っ払っていた。

「斎藤さん、すんません。俺ちょっと酔っ払っちゃって。大事な話があるって言ってたのに、申し訳ないっす。」

「いや、いくら飲んでもいいんだぜ。将来を背負う若手と、こうやって腹を割って話すのも大事なことだ。これからは、そういうことを大事にしないといけねえな。そうだろ?」 「はい!」

 舎弟たちが一斉に返事をする。

「すいません。気にかけてもらって。組のために、これからも頑張ります。本当です。何でもしますから、俺。」

 斎藤は声を出さずに笑いながら、シンイチのグラスに酒を注いだ。シンイチには場違いのような、高級クラブだった。その酒一杯だけでも、信じられない値段がするのは間違いない。

「シンイチ、実はお前に頼みがあるんだよ。なに、大したことじゃないんだがな。オサムのことだ。」

「え? 兄貴がどうかしたんすか?」

「あいつは知ってる通り、誰とも話さないし、誰もよく素性を知らねえ。真珠貝だからな。そんな奴の下についてるお前は、さぞかし大変だろうと思ってな。」

「そんなことないです。兄貴は無口ですけど、俺にはよくしてくれますし、他のヤクザ者にはないオーラみたいなのを持ってるから、尊敬してます。下につけて本当によかったと思ってます。どんなヤクザも、兄貴の貫禄にはかなわないです。本当にそう思います。」

「それは、俺も含めてってことかよ?」

 斎藤が、少し身を乗り出してシンイチを睨む。舎弟達が顔を見合わせた。

「いいえ、いいえ、斎藤さんは別ですよ。すいません。そういう意味じゃないっす。斎藤さんは、次期組長って言われてる人だし、別格です。本当です。すいません。」

 シンイチが慌ててそう言うと、斎藤はソファに深く座り直した。

「まあいいさ。シンイチ、俺はあいつと同じ幹部として、あいつのことを知っておきたいんだよ。交友関係とかそういうのをさ。あいつ女はいるのか?」

「今はいないと思います。何年か前にユリって女がいたんですが、そいつがいなくなってからは一人だと思います。」

「寂しいねえ。そのユリって女は、今どこにいるんだ?」

「それは知りません。ある日突然、消えちまったらしいんです。」

「悲しいねえ。そのユリって女の行方を、知ってそうな奴はいるか?」

 シンイチは、両目を指で押さえながら懸命に思い出す。だいぶ酔っている。

「区役所通りの、花屋のアカネって女なら、知ってるかもしれません。ユリと仲が良さそうだったし、兄貴もアカネのとこに、ちょくちょく訪ねて行ってましたから。」

「そうか、分かった。ああ、それとシンイチ、オサムは毎週土曜日の午前中、どこにいるんだ? 誰かと会ってんのか? 新しい女ができたとかよ。」

「女はいません。それは確かです。兄貴はなかなか話してくれなかったんですけど、どうやら土曜日のあの時間は、一人で散歩してるみたいなんです。新宿公園の辺りかな。オフィス街の辺りですよ。なんで散歩なんかしてんのかは、聞いてません。聞いたって教えてくんないですよ。きっと。」

 斎藤がもう一度ソファから身を乗り出す。

「それは本当に一人でか?」

「はい。兄貴一人だけです。俺もついてったことはないです。」

 沈黙が流れる。斎藤は何かに考えを巡らせているようだった。しばらくして斎藤が口を開いた。

「そうか、ありがとよ。あいつに聞いたって、答えちゃくれねえからな。ほら、もっと飲めよ。まだまだ足りねえよ。」

 

 それが二日前の出来事だ。

 いくらシンイチでも、一日経てば、斎藤が何かを企んでいることくらい理解できた。酒に負けてペラペラとしゃべってしまったことを、深く後悔したが、オサムにそのことを話すこともできなかった。自分にできることは、兄貴を守ることだけだと思った。

 携帯を開いて、オサムに電話をかける。

「兄貴、下に車つけましたんで、いつでも降りてきてください。」

 電話を切ると、シンイチはワイパーで集められた雨の雫が、窓を伝って落ちていくのを見ていた。母親のことを、もう一度考えてみたが、どうしても母親の顔が思い出せない。やがてシンイチは考えるのをやめて、深いため息をついた。兄貴を守れるのは、俺しかいない。そうシンイチは、もう一度自分に言い聞かせた。


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