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ユリとアカネ  タイムライン さらに過去

 初めてユリがアカネの店に姿を現した時、アカネはひどく落ち込んでいた。店を出して間もない頃で、店の切り盛りにもまだ慣れていなかったし、自分のセンスが街に受け入れられないことに、フラストレーションを抱えていた。注文書通りに市場から花が届かず、ある時には、菊の花が店に大量に送られてきたこともあった。業者はそのことを詫びるどころか、注文の仕方が悪いのだと言って、アカネを責めた。

 気味の悪いホストが一人、アカネにしつこく付きまとっていて、店に度々姿を見せては、花も買わずに「ヤらせろよ、アカネ」と言い寄ってきた。口をきくのも嫌だったので無視し続けていたら、今度はそのホストに入れ込んでいた女が店に乗り込んできて、「あんた、なに人の男に手出してんのよ。花屋は花だけ売ってりゃいいのよ!」と言って店の中をメチャクチャにして帰って行った。

 床に散らばって、踏みつけられた蕾を拾い集めながらアカネは、もう無理かもしれない、店なんか始めたのは間違いだったんだ。そう思った。

 そんな時、ユリが店にやってきた。その頃ユリは。違う店でホステスをしていて、店の飾り用の花を買ってから出勤するところだった。

「その白い百合をちょうだい。」

 ユリはそう言って、店の冷蔵庫の中のオケを指差した。

「白でいいんですか?」

 アカネは、ユリを見てそう言った。白い花だけを買う客は珍しかった。思わずユリの顔を見てしまう。初めて見る顔だ。おそらく歳はアカネと同じくらいだろう。湿り気を帯びたような、艶のある黒髪が、両肩の上に座っている。綺麗というよりは可愛らしい顔つきをしているが、少女のような、無垢な可愛らしさではない。何かを隠しているような、何かを知っているかのような色気がある。ホステス特有の色の濃いルージュはつけず、薄いピンクが塗られた口元は、自分だけの豊潤な言葉を発することを予感させた。

「そうよ。私、白い百合が好きなの。何色にも染まるけど、何者にも染まらない。そんな強さを感じる。きっとお父さんも、そういう意味を込めて名前をつけたのね。」

「お父さん? 誰のお父さんですか?」

 冷蔵庫から白い百合を抜きながら、アカネは言った。

「私のよ。私の名前よ。ユリっていうの。その花とおんなじ。でもこの街で何色にも染まらずに生きていくのは、なかなか勇気がいるわね。あなたもそう思わない?」

 そう言ってユリもアカネの顔を見た。アカネはユリと目が合って初めて、ユリの魅力が、瞳に全て凝縮されていることに気付いた。口元よりもさらに雄弁に、瞳は底の見えないくらい深いところから、語りかけてくるようだった。

 なぜだかは分からないが、アカネはユリの瞳を見て、小さい頃、冷蔵庫で冷えていた水羊羹を思い出した。お中元か何かでもらったやつだ。ずっしりとした重みと、ギザギザのついた木の匙。蓋を開けると、深みのある色の羊羹が見える。それは一瞥しただけで「特別だ」ということが分かる色をしていた。ユリの瞳の色は、それと同じ色だった。とても魅力的で、深みのある瞳。

 水羊羹のことを考えながら、百合の花を包み終えると、アカネはユリにそれを手渡した。

「ねえ、あなたこの店、いつからやってるの? 私、今日初めて来たんだけど。」

「三ヶ月になります。いつまでできるかは、分からないけど、私には花しかないし。ただこの街は嫌いだけど。」

「ふーん。あなたが作ったんでしょう? そのアレンジ。」

 ユリは店の隅に置いてあった、売れ残りの白い花のバスケットを指差してそう言った。

「私、このアレンジ好きよ。何ていうか、ちゃんと主張してるわよね。私はここにいる! って。それが分かる。ただ、この街のほとんどの人間には、それが分からないでしょうね。悲しいかな。私もこの街が大っ嫌いなの。」

「ありがとうございます。そう言ってくれる人がいるのは嬉しいです。本当に。」

 それはお社交辞令ではなく、アカネの本心だった。

 店を出る間際に、ユリはもう一度振り返り、照れ臭そうに肩を窄めて、微笑みながら言った。

「ねえ、あなた、名前は何ていうの? 私はユリ。さっきも言ったけど。」

「アカネっていいます。」

「夕陽の色ね。私夕陽も大好きよ。私のこと、ユリって呼び捨てにしていいから、私もあなたのこと、アカネって呼び捨てにして構わない?」

「いいですよ。」

「そう、よかった。じゃあ今日から私達は友達ね。また来るわ、アカネ。」

 そう言ってユリは店を出て、人混みの中へと歩いていった。そしてあっという間に、街にその姿は飲み込まれてしまった。不思議なものだ。「今日から私達は友達ね。」そんな芝居みたいな台詞も、ユリが言うと、ごく自然なものに感じられた。

 それからほぼ毎日、ユリはアカネの店に顔を出しては話をするようになった。新しく入ったホステスが、イノシシみたいな顔をしているの。とか、会って三十分で、お客さんにプロポーズされたの。とか。アカネはユリの話に、飽きることがなかった。アカネも少しづつ、自分のことを話すようになっていった。二人の関係は「友人」というよりも、まるで「同志」だった。二人は、この街に充満する、濃度の濃い、偽物の空気に埋れて窒息する前に、いつかここから逃げ出したいと、心から願っていた。

 ユリがいなければ、アカネはもっと早く、この街を出ていたと思う。ユリがいたおかげで、なんとか首から上だけを、汚れのない、人間を人間と思える空気の中に、繋ぎとめておくことができた。


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