ユリ タイムライン 過去
金沢へ向かう深夜バスの中には、ユリを入れて八人の客しかいない。そのおかげでユリは、荷物を客のいないシートに置き、誰からも話しかけられずに、窓の外を眺めることができた。
ユリが座っている席の窓からは、方角的に、日本アルプスの山々が見えるはずだったが、漆黒の闇に包まれたその時間帯では、何一つ視界に捉えることはできない。乗客の眠りのために、バスの中の灯りも消され、高速道路の、オレンジ色の街灯だけが、定期的に前から後ろへ流れていく。
携帯電話を開く。その光でユリの顔が白く浮かび上がる。「3:50」という数字が白い画面の中に浮かんでいる。数字と数字の間の「:」だけが、流れゆく街灯とリンクして、点滅を繰り返している。メールも、着信もない。もっとも、オサムが電話なんてくれるとは思えなかったし、メールなら尚更だ。
「もう終わったことよ」ユリは誰にも聞こえないくらいの声で、そう呟いてみる。その言葉と共に放たれた息で、口元の窓が白く曇っていく。闇に潜んだ日本アルプスの雪が、小さくそこに姿を現したかのようだ。
成子坂のオサムのマンションに、置き手紙をしたその足で、ユリは新宿発の深夜バスに飛び乗っていた。会えば決心が揺らぐからという気持ちもあったが、もし会っていても、オサムは何も言ってはくれなかっただろう。もうこれ以上は、オサムの側にはいられなかった。
一年ほど前、ユリが働いていた新宿の高級クラブに、オサムはやって来た。ヤクザもそういうクラブに出入りするクラスの人間になると、皆紳士だ。柄の悪い、チンピラのような奴らは一人もいない。
毎回店が気を遣って、人目につかない個室を必ず用意する。その店のある界隈は、オサムの組が仕切っていた。その夜も、組長と幹部たちが飲みに来ていた。その中にオサムも混じっていて、個室のソファーの端に、一団から少し離れて一人で座っていた。
店に入って間もないユリだったが、上のクラスのヤクザの相手をするのは得意だった。彼らに対しては何も質問をする必要がないのだ。何をやってるかは一目瞭然で、仕事のことを掘り下げて聞くのは、暗黙の了解でタブーとされていた。そして、どこかで自分たちのことを、隠そうとする習性が彼らにはあった。だからだいたいユリは、毎回自分のことを話していた。どこの生まれだとか、どんな服が好きだとか、そんな他愛のないことだ。仮にそこで嘘をついても、彼らはそれ以上は踏み込んで聞いてはこない。嘘の世界に、自分たちも女たちも生きていることを知っているからだ。その絶妙に距離をとる会話が、ユリは得意だった。そこはビジネスの場で、女たちは、自分たちに利益をもたらす商品であるという意識を、彼らは徹底している。
その夜、ユリはオサムの隣に座った。氷を入れたグラスにウイスキーを注ごうとすると、オサムがユリの手を掴んで、それを止めた。
「アルコールはいらない。何か匂いのない飲み物を。」
ユリは手を掴まれて、何か奇妙な感覚を覚えた。言葉ではうまく言えない。他のヤクザとは全く違う感触。それはやがて好奇心になり、ユリはいつも守っている距離を保てなくなった。
「匂いのない飲み物って? 例えば? 私の知っている限り、それは水しかないわ。」
「じゃあ水にしてくれ。俺も水のつもりで言ったんだよ。」
「じゃあ最初から水って言えばいいじゃない。変な人。」
周りの女たちの顔が凍りつくのが分かった。次に何が起こるのだろうかと、会話の後の沈黙に、耳をそば立てている。
「オサム、お前変なこと言うんじゃないよ。その子だって困っちまうだろうが、そんな言い方されたら。まったく変わった奴だ。」
組長の言葉で、空気が元に戻った。女たちもそのことを安堵するかのように、笑う。
「すいません」
そう言ったきり、その後オサムは一言も口をきかなかった。ユリも黙ってオサムのグラスに、匂いのない水を注ぎ続けた。
ユリはその後、こっぴどくママに怒られたが、次の日オサムが一人で店にやって来て、ユリを指名したことで、ママの怒りも何処かへ行ってしまったようだった。昨日と同じように、オサムは無口で、水しか飲まず、会話らしい会話はほとんどなかったが、「行こう」というオサムの言葉に、ユリは逆らうことが出来なかった。
その日、オサムのマンションに行き、オサムと寝た。恐ろしく静かなセックスだった。ただ、こうなることは決まっていて、抗えない力が、確かにそこにはあると感じていた。少なくとも、ユリは。
「もう終わったことなの」
もう一度ユリは、さっきよりも少しだけ大きな声でそう言ってみた。二つ前に座っている、サラリーマン風の男の頭が、ユリの声で僅かに動いた気がしたが、それも気のせいだろう。眠りが浅いので、身体が常に少しだけ動いているだけだ。ユリに眠気は訪れない。多分これから先、死ぬまで眠気は訪れないかもしれないとも思う。
もうすぐバスは最後の休憩所に停車する。その時にもう一度だけ、山の方を見てみよう。夜明けの光が僅かでも差し込んで、山の輪郭だけでも見ることができたら、オサムから連絡がくるに違いない。しかしそこまで考えて、ユリは首を振る。バカバカしい。もう終わったことなんだからと。午前四時を回っても、辺りは漆黒の闇に包まれている。夜明けはまだ訪れない。