ウサギの夢 タイムライン 半分の現在
アカネは夢を見ている。
ウサギがそこに現れることは、夢を見る前から分かっていたような気がする。しかし、いざウサギが現れてみると、アカネはどこから話し始めたらいいのか、全く分からなかった。アカネの言葉を待たずに、ウサギが先に口を開いた。
「何も言わなくていいよ。あんたはうまくやったさ。でき得る限りのことをね。あんたの役割っていうのは、繋ぐことじゃなくて、全てを見届けることだったんじゃないかな? ユリは消えてしまったけど、それは多面体の一部でしかないんだよ。ウサギが『多面体』なんて可笑しいだろう?」
「じゃあ、多面体の違う一部では、オサムさんとユリは、一緒にいるの? そこには私もいるの?」
「驚いた。やっぱりあんたは、おいらと話ができる人間だったんだね。そう。ユリとオサムが、一緒になるという一部だって存在する。一つの未来が、一つの過去を確定させる訳じゃないんだ。そこにはいろんな要因があって、複雑に絡み合ってる。理屈だけで全てを説明することなんてできないのさ。」
「じゃあ私たちは、何を目印に進んで行けばいいの? そんな気まぐれな世界に放たれて、好き勝手にされたら、途方に暮れてしまうわ。」
「そうだね、その通りさ。この世界は自分勝手で気まぐれさ。おいらに言えることはあまりないんだけど、目印があるとすれば、今、あんたがいるその場所しかない。気付いていないだろうけど、誰も先になんて進んじゃいないんだよ。今いる場所を見つけるのが精一杯なのさ。時にはそこに、穴が空くことだってあるだろう。でも穴の先も、今いる場所でしかないんだ。ちょっとややこしいかな?」
アカネとウサギの周りには、何もない。真っ白な空間で話をしている。そこはアカネの世界であり、オサムとユリの世界でもあった。
「あんたも道を選んだようだね。その先にもその前にも、何があるかは誰にも分からない。まあしっかりやんなよ。おいらはいつでもここにいるからさ。たまには遊びに来てよ。それじゃあね。」
そう言ってウサギはアカネに手を振った。
最後にふと見ると、ウサギの右の耳が、左より少し短いようにアカネには見えたが、すぐにウサギの姿は見えなくなってしまったので、確かめることはできなかった。
電車が急なカーブで揺れて、アカネは目を覚ました。車内アナウンスが聞こえてきて、東北は今が桜の季節だというようなことを言った。まだ山形に入ったばかりのようだ。
新宿の店を畳むことになり、新潟の知り合いを頼って、花の教室を手伝うことが決まっていた。
「アカネ、お前はすぐにここから離れるんだ。そして何を聞かれても、知らないと言え。俺がお前といることは、誰も知らない。いいな? 何があっても、俺のことなんて口にするじゃないぞ。」
オサムは、あの日、アカネにそう言った後、行方を眩ませていた。組の連中が血眼になって居場所を突き止めようとしていたが、まだ見つかっていない。
ユリが消えた三日後に、高級クラブから出てきた斎藤が、何者かに襲われた。待ち伏せされて、車に乗る瞬間に頭をぶち抜かれた。一緒にいた舎弟も、みんな殺された。唯一生き残った運転手が、やったのは間違いなくオサムだったと証言した。俄かに街が慌ただしくなり、ぎすぎすした空気が流れていた。その日以来、アカネにとって新宿の街は、より一層生きづらい街になってしまった。
ユリもオサムも、もうそこにはいなかった。頃合いだと思った。そしてとうとう、オサムはアカネの前には、二度と姿を現さなかった。
電車がトンネルに入り、窓にアカネの顔が映った。まじまじと点検するように、アカネは自分の顔を覗き込む。これは本当に自分の顔なんだろうか? アカネは自信が持てなくなった。これから先も、二度とオサムと会うことはないだろう。しかしどこかで、中央公園をオサムと歩き回る自分も、確かに存在するに違いない。
「いま私はここにいる。」
アカネは口に出して、窓に映った自分自身にそう言い聞かせた。そして少し、ユリのことを思い出して、泣いた。