穴 タイムライン 過去
目の前に現れた穴を見て、ユリは動くことができない。きっとまだ、夢の中にいるんだと思った。それと同時にウサギの言葉が、ユリの頭の中でグルグルと回り続けている。
「それは決して怖いものじゃない。その先にはあんたが失った全てがある。」
そのうちにユリは、これが夢でも現実でも構わないと思い始める。そしてその穴を、信用し始めている自分がいることに気付く。恐怖はない。逆に恐ろしいくらい冷静に、ユリは穴を見つめている。どれくらい深いのか見当もつかない。 穴の中と外では、流れている空気の質までが違っているように見える。バスの外を包んでいる、漆黒の闇とは明らかに違う。もっと濃度の濃い闇が、そこにある。
ユリは穴のすぐ前まで歩み寄り、右手をゆっくりと穴の中に入れてみた。ひんやりと冷たく、湿った感触がする。地下室で感じたことがあるような感触。それを感じたのは幼い頃か、大人になってからなのか、ユリには思い出せない。
「オサム」
小さくそう呟くと、ユリは思い切って穴の中に入っていく。やがてユリの全てを穴が飲み込み、ユリは完全に穴の中へと消えてしまった。
バスの中には、エンジン音だけが鳴り続けている。窓からは、白み始めた空に浮かぶ様に、日本アルプスの山々の輪郭が姿を現していた。