ノック
こんこんと扉を叩く者がある。春香の心臓はどきりと弾んだが、インターフォンが壊れていたことを思い出した。
そういえば宅配便の配達を頼んでいたのだった。
玄関に駆け寄ってドアスコープから外を覗けば、宅配会社の配達人の姿があった。いつもの人だ。最近は、ネット通販で食べ物や本、服なども取り寄せているので、すっかり顔馴染みになってしまった。
安心して扉を開き、受領証にシャチハタを押して小さなダンボールを受け取る。頼んでいた冷凍のチーズケーキだ。
これは明日の分。今から冷蔵庫で解凍すれば丁度いいだろう。
冷蔵庫を開けて、下段の隅にケーキをしまう。ビール缶やペットボトル、マヨネーズなどの調味料しか入れていないがらんと庫内には、もうひとつケーキがしまってある。今夜のためにデパートで予約して買ってきたカボチャと栗のタルトだ。
春香も甘いものが好きだが、要は輪をかけて好きなのである。それで太らないから憎たらしい。要ぐらいの年齢の時には、春香も夜中にいくら食べても太らなかったが、最近は大して食べてもいないのに下腹がぽっこりと出てきた。
来年には四十になるのだ。日ごろからジムやエステに通って努力しているつもりだが、やはり年齢には勝てない。ひとまわり以上年が離れている要とつきあうようになって、彼と一緒に食べる量が増えたせいもあるかもしれない。
壁に掛けたガラスの時計を見上げると、もう九時だった。要はまだ来ない。
先にシャワーを浴びておこう。若い要は、部屋に入るなりシャワーも浴びずに春香を求めてくることがある。
春香は給湯器のお湯張りスイッチを入れた。十月最後の夜は冬の匂いが強くて少し冷える。久しぶりに湯船で温まりたくなった。
クローゼットから新しい下着を取り出すと、バスルームに向かった。
服を脱いでランドリーボックスに放り込み、洗面台の鏡を覗いてみる。
同年代の女性と比べても、体型は崩れていないほうだと思う。でも首や膝、目尻や下腹にどうしても重ねてきた年齢が表れている。服を脱いでしまうと一目瞭然だった。七、八年前までなら明かりの下でも躊躇なく肌を晒せたが、今は薄暗くないと男と肌を重ねることも不安だ。まるで小娘のようだ。
若い頃はそれなりにもてた。東京の大学に入ってから、垢抜けた友達や先輩に囲まれて、自分でもきれいになったと思う。
一度転職はしたが、仕事も順調で営業という職業柄、人脈も増えて出会いも多かった。毎日他人と出会う仕事は春香に華やかさを添え、二十代後半まではそれこそ男が途切れたことがなかったし、彼氏がいながらこっそり浮気をしたことも何度かあった。
結婚などは考えられなかった。二十八の時にチームリーダーに抜擢されてますます仕事が楽しくなったし、まだまだ一人の男に縛られるのは勿体ないと思っていた。これという男が現れるまで、焦ることはないと考えていたのだ。
その頃は同年代の男が幼く見えて、春香は不倫にはまっていった。お互い面倒なことには立ち入らない、その上で彼の妻も知らないような面を若い春香が独占しているというスリリングな優越感は、彼女を燃え上がらせた。
今思えば、あの年頃が春香の最盛期だった。
不倫の恋人たちといくつかの修羅場を迎えた後、恋愛が面倒になってしまった。相手の妻から脅迫めいた電話を受けたり、相手の男が春香に入れ込み過ぎて無理心中を図ったこともあった。自分でも神経が太いほうだと思っていたが、さすがにこれはこたえた。十分大人だったつもりだが、火遊びはやはり恐ろしいものだと知った。
やがて三十を数年過ぎた頃、体力が格段に落ちた。残業や接待に無理が利かなくなり、成績も落ちてしまった。
仕事も恋愛も盛りを超えた時にふと周りを見回しても、親身になって春香を支えてくれる人はいなかった。
たくさんいると思っていた友達や知り合いも、仕事の相談に乗ってはくれても、春香の漠然として不安や孤独を理解するために歩み寄ってはくれなかった。みんな自分の生活で手一杯なのだ。春香だって同じだった。
合コンにも誘われなくなり、新しく知り合った男に秋波を送っても、一回寝ただけで終わる。それすら機会が減っていった。
そんな時に知り合ったのが一之瀬要だ。ゲイのマスターと気が合い、よく一人で足を運んでいた小さなバーで、客として来ていた彼と顔を合わせることが多くなった。
半分酔っ払って過去の恋愛話や愚痴を語っていた自分のどこに要が惹かれたのか分からない。司法浪人中のフリーターだという要とつき合う気など春香にも無かったが、何度玉砕してもめげずに明るく話しかけてくる要に、ついに春香が折れた形になった。
『春香さんを最初にお店で見かけた時から、きれいな人だなって思ってたんだ。こんな好みの人に会えるなんて、信じられなかった』
つきあうことになった後、要は照れながらも嬉しさを隠しきれない表情でよく言っていた。産もうと思えば不可能ではないくらい年が離れている男にきれいだと褒められるのは、勿論悪い気はしなかった。
ジャニーズのタレントほど見栄えはしないが、いまどきの若い男の子らしく手足が長くて体つきもすらりとしている。髪や服もお金はかけていなくてもおしゃれだ。
何より要は一生懸命だった。自分の若さを誇るどころか、春香を大人の女性として尊敬してくれて、釣り合うかどうか不安らしい。そんなところが可愛くて仕方がなかった。
やがては身の丈にあった彼女を見つけて、離れていくのだろうと思っていたが、先日要は次の試験に落ちたら、司法試験を諦めて若いうちに就職しようかと呟いていた。
『今、オレ貯金もないし、お金貯めないと結婚もできないし』
要の台詞を敢えて聞き流したが、春香の胸は落ち着きなく弾んだ。はっきりとプロポーズされたわけではなかったが、要は春香との結婚を考えてくれているのだ。
お世辞にももう若くはない。子供だって産む気はないし、産めるかどうかも分からない。仕事も諦める気はないから、家事など碌にできやしない。煙草だって止めれらない。
もしも要に正面からプロポーズされたら。どう断ろうという文句ばかり浮かんでくるものの、少女の時の恋のように心臓がどきどきと甘く鼓動を刻む。そして、もしもそれでもいいと要が言ってくれたら、その時は……。
バスルームに入った春香は、溜息をついて浴槽に体を沈めた。少し冷えた体に、熱めの湯が沁みわたっていくようだ。
まだ何も言われたわけじゃないのに、浮かれているなんてみっともない。若い要がいつ心変わりするかなんて分からないのだ。
でも、東京に出てきて二十年以上。ずっと頑張ってきた。仕事も勉強も遊びも恋愛も、その時の春香なりに全力を出し切った。
だから今ここで、遅い幸せが訪れても不公平じゃないのかもしれない。
諦めずにきれいにしていてよかった。
(でも、まだまだ頑張らなきゃ)
湯船の中で下腹を軽く押さえながら、春香はそっと気合いをこめた。要と並んでいて、親子に間違えたりされたくはない。油断すればすぐに老けこんでしまう。
浴室のすぐ外に携帯電話を置いているが、まだ要からの連絡は無かった。アルバイトとはいっても、要の勤務はオフィスの夜勤だ。たまに仕事が長引くこともあるらしい。
ハロウィンのお祝いをしたいと言いだしたのは要だった。
『ハロウィンは万聖人の日の前夜だから、死人が戻ってくるんだって。だから自分たちも仮装してお化けと一体になって、死人に攫われないようにするんだってさ』
そんなことはとうに知っていたが、得意げに喋る要の蘊蓄を春香は笑顔で聞いていた。春香の誕生日は勿論、七夕や子供の日など、要は何かにつけてお祝いをしたがる。特別なことはなく、ただこうして春香の家で少し豪華なご飯を食べてホールケーキを食べるだけなのだが、それがどうも好きらしい。詳しく聞いたことは無かったが、子供の頃にあまり家族で食卓を囲んで、ホールケーキでお祝いをするようなことがなかったようだ。
だからこそ、まだ二十四なのに、遥かに年上の春香との結婚を意識しているのかもしれない。
もしも彼と結婚するようなことになったら、要を温かく支えてあげたい。そんな気持ちを男性に抱いたのは初めてだった。
──春香。
耳の奥で声がする。
──春香、お願いだよ。春香がいないとつらくてだめだ。
弱々しくて優しい、低い声。
──離婚するよ。だからもう一度やり直そう。結婚しよう。
声には涙が滲んでいる。そこに込められたものの重さ、深さは、感激よりも戦慄をもたらした。
──別れるなんて無理だよ。だったら俺と一緒に。
声の芯に力がこもる。憎しみかと思えるほど激しい感情だった。
──生まれ変わっても、俺たちはきっと出会えるよ。
湯の中で目が覚めた。
うたた寝にしては長かった。湯気を立てていた湯は、半ば冷めてぬるくなっている。だが体が小刻みに震えているのは、冷えたせいばかりではない。
やけに生々しかった。耳の奥にまだこだまが残っていると錯覚するほど。
今の今まで忘れていた。あの声は春香の最後の不倫相手となった石田だ。不倫は初めてではないと言っていたし、遊び慣れた商社勤めの男だと思っていたのに、あんなことをするなんて。
仕事が忙しくなり、ついでに取引先の若い営業と親しくなり始めた春香は、当時つき合っていた石田と距離を置き始めた。
それを察知した石田は、妻子ある身にもかかわらず春香を束縛しようとし、さらに春香の軽蔑を招いた。スマートだった石田が余裕を無くして、春香に執着を見せていくのが少しも嬉しくはなかった。真剣に愛されていても、ありがたくもなかった。
石田は妻との離婚を持ち出し、春香に退職を勧め、あらゆる手段で春香を繋ぎ止めようとした。
それもかなわないと知った時。
あれも冬の初めだっただろうか。
別れ話がこじれそうになり、春香は憤然とリビングを飛び出すと、ベランダに出て一服し、気を落ち着けようとした。背後から足音が追いついたと思う前に、春香の首に熱い手がかかり喉を締め上げられた。
その時に背後から聞こえた石田の声だ。
――生まれ変わっても。
ぞっとした。死んだ後も春香を縛ろうというのだろうか。
無我夢中で暴れると、我に返ったのか石田は春香から手を離し、そのまま詫びることもなく春香のマンションを出て行った。
その夜、石田は自宅のマンションから飛び降りた。即死だった。
石田との関係は友人知人には誰も話していない。石田も同じだろう。異業種交流会で知り合った彼とは、表向きの接点はほとんど無かった。だから通夜や葬儀にも参列しなかった。墓参もしたことがない。
それでもさすがに警察は春香と石田の関係を調べ上げたらしい。春香の元にも刑事がやってきた。しかし変死とはいえ事件性は薄いと判断されて、石田の死は自殺ということで落ち着いた。
ハロウィンの夜に死者が帰ってくるという話をしたのは、石田だったかもしれない。要だったろうか。
湯に浸かりながらうたた寝をして、少しのぼせたようだ。記憶が混然としていた。
春香は浴槽から出て熱いシャワーを浴び、髪と体を洗った。
バスルームから出て、真っ先に携帯電話を手に取る。まだ要からの連絡は無かった。
こんこんと誰かが扉を叩いた。
部屋着に着替えて髪を拭いていた春香は、ソファから立ち上がる。要だ。連絡せずに部屋に来たらしい。
何も羽織らず、部屋着のまま春香は早足で玄関に駆け寄った。
習慣で、ドアスコープから外を覗いた。真っ暗で何も見えない。
廊下の電灯をつけていないのだろうか。自動ではないので、暗くなると気がついた住人がスイッチを入れているのだが、少し分かりにくい場所にあるので、要はスイッチに気がついていないのかもしれない。
(あれ――?)
いや、先ほど宅配便の配達が来た時には、顔が見えた。廊下の電気はついていたはずだ。
もう一度、目を凝らしてスコープを覗いた。
右から微かな光が一瞬入った。何かでスコープの向こうを塞いでいるのだ。
要のいたずらか。
一瞬ぞっとした後、子供じみた要に怒りがこみ上げてきた。
スコープから顔を離して鍵を開けようとする寸前、スコープの向こうで何かが縦に動いた。
もう一度。
再び目を凝らす。
微かに入った光が白濁した眼球と黒い瞳を一瞬だけ映した。
まばたきだ。
悟った瞬間、また背筋が冷えた。スコープの向こうからも誰かがこちらを覗いている。廊下の電灯を遮るほど、ドアにぴたりと顔を押しつけて。
こんこんと、またノックの音が鼻先で聞こえた。春香は飛びすさるようにしてドアから離れた。
「……要くん?」
祈るような気持ちで声を張り上げた。
――コンコン。
返ってきたのは、ノックの音だけだった。
要のいたずらだ。ハロウィンの話をしたから、私を脅かそうとしているんだ。
今すぐ扉を開けて、おちゃらけた要を怒鳴りつけてやればいい。
だが、もし要でなかったら。
「要くん、ふざけないで!」
思わず大声を上げると、ノックの音が止んだ。
要は合い鍵を持っている。春香が開けなくても、自分で入ってくるはずだ。
バッハの有名な旋律をなぞる電子音が響いた。春香の携帯電話の着信音である。春香はリビングにとって返して、テーブルに置いた携帯電話を手に取った。
要からだった。
「もしもし?」
強張った声で出ると、対照的に呑気な応えが返ってきた。
『あー、春香ちゃん? 遅くなって……ね……』
間違いなく要の声だったが、電波が悪い場所にいるのか、声が小さくて聞き取りづらい。
「要くん? 今どこ?」
『春香ちゃん……の下。エレベーター……てる……とこ……』
「何? 聞こえない。今、下にいるの?」
春香の声に対して、耳障りな雑音が返ってきたと思うと、通話は途切れてしまった。
―コンコンコン。
再び扉を叩く音。立て続けに響いた音は、苛立っているように聞こえた。
要ではない。
別の誰かが、ドアに顔を押し付けながら扉を叩いている。
もう一度スコープを覗く勇気が無かった。
――コンコンコン。
さらに三度のノックが響く。
誰だろう。変質者かもしれない。
だが変質者なら、こんなに執拗にノックを繰り返すだろうか。警戒されることは分かり切っているはず。
(警察――)
その考えが浮かんだ時、再びバッハのメロディーが鳴った。握ったままの携帯電話の液晶画面は『要くん』と電話の主を語っている。
「もしもし」
慌てて電話に出ると、やはりくぐもった遠い声が聞こえた。
『春香……? ……ごめん……入りにくくて……た?』
さっきより音声はさらに不明瞭になっている。
「要くん、今ドアの前に誰かいるの」
『え……? ……何……?』
要もこちらの声が聞きづらいらしい。春香の切羽詰まった調子に気づいた風もない。
――コンコンコン。
また誰かが扉を叩く。ノックの主は春香の在宅を確信しているのだ。
「要くん、待って。エレベーターに乗らないで、そこで警察呼んで!」
『え? ……ごめん……えない……。もう一回……』
「部屋に来ちゃだめ! 先に警察呼んで!」
苛立ちと焦りで声がヒステリックに高くなる。
何も警戒していない要が、部屋の前でその誰かと鉢合わせになったらどうなる。要は若いが、細身でひょろりとしている。相手が何か危険な物でも持っていれば、ひとたまりもない。それにそもそも相手が、普通の人間でなければ……。
『だめって……こと? もう……ベーター……乗っちゃっ……』
「来ちゃだめだってば!」
春香が声を張り上げた時、またぷつりと通話が途切れた。そうだ。このマンションはエレベーター内はほとんど携帯電話が通じない。
どん。
重い音を立てて扉が叩かれた。
どんどん。
それは今までとは違う、攻撃的で荒々しい音だった。
鳥肌が立った。もはや扉を開けて欲しいと春香に求めるノックではなく、扉を壊してでも室内に押し入ろうとするような明確な害意を感じた。
そうだ、すぐに警察を呼ぼう。ことを荒立てたくはないが、要の身に万一のことがあっては遅い。
(警察……何番だっけ……)
だが携帯電話を手に、春香は戸惑った。半分パニックになった頭は、警察に繋がる三桁の番号が思い出せない。
落ち着いて。知っているはず。思い出さなきゃ。
どんどんどん。
さらに扉が叩かれる。まるで春香と外の人間を隔てる扉を憎しみながら殴打しているような激しさだった。
いや、外にいる誰かが憎んでいるのは――。
(誰なの……?)
だぁん。
ドアがこれまでにない激しい音を立てて揺れた。春香はびくりと体を揺らし、携帯電話を取り落とす。
何なの。
酔っ払いか変質者か。あるいは借金取りの嫌がらせか何かで、マンションの別の住人と部屋を間違えているのかもしれない。
だがそれきり、扉を叩く音は止んだ。
春香は摺り足で玄関に近づいた。鉄製のドアと鍵が蹴飛ばされたぐらいで壊れるとは思えないが、つい及び腰になる。
もう一度、ドアスコープを覗いてみよう。もし怪しい人間がいたり、さっきみたいに向こうからこちらを覗いていたら、すぐに警察に電話だ。
だがもしも、想像もできないものが、扉の向こうにいたら。
『ハロウィンの夜には、死者が――』
脳裏に誰かの声がこだまする。
春香は竦みそうになる身体に気合いをこめ、玄関に裸足で一歩踏み出して、スコープを覗き込んだ。
誰もいない。
蛍光灯に照らされた見慣れた廊下が、寒々しく映っているだけだった。
扉を叩いていた人間は立ち去ったのだろうか。
それともスコープの視界の外に隠れて、春香が様子を見るためにドアを開けるのを待っているのかもしれない。
開けずに警察を呼んだ方がいいだろうか。
石田の一件で事情聴取を受けて以来、春香は警察が苦手だった。できれば関わりたくない。
しかしもしも誰かが扉の外で待ち構えているとしたら、要に危険が及ぶかもしれない。
どうしよう。
立ち尽くしている時間は、長くも短くも感じられた。
目の前の扉のノブにがちりと小さな金属音が押し込まれる。音を立てて内側のシリンダーが九十度動いた。
足を床に縫い止められたように動けない。
扉が開く。
顔を見せた要は、わっと小さな声を上げて目を見開いた。
「どうしたの?」
玄関に裸足で棒立ちになっている春香を見て、要も相当驚いたらしい。
だが春香の緊張はその比ではなかった。大きな溜め息を一気に吐き出すと、要の両腕にとりすがった。
「春香ちゃん……?」
「外……誰もいなかった?」
まだ声が震えて強ばっている。ただならぬ様子の春香を見下ろし、要は彼女の肩を支えるように両手をかけた。
「外って廊下? 誰もいなかったよ」
要が吐く息は白い。廊下から忍び込んでくる外気はひどく冷たかった。フリースのパーカーを着込んだ要の体からも外の寒さが漂っていた。
「とにかく中に入ろ。廊下には誰もいなかったから、大丈夫だよ」
ひと回り以上年下の要は、扉を閉めて鍵を掛け、青白くなって冷静さを失っている春香を優しく促した。やっと心が弛緩して、彼女は頷いて要に従った。こんな時、年の差など関係なく、やはり要も一人前の男なのだと思う。
要にリビングのソファに座らされると、春香は風呂を出てからの出来事を彼に語った。最初は神妙な面持ちだった要だが、話の途中から徐々にその緊張が緩んでいくのが分かった。
「それ、イタズラじゃない? 酔っ払いとかさ。オレが廊下に出た時は誰もいなかったけど、人が来るの分かって逃げてったのかもよ」
どうやら要には春香の不安と恐怖は伝わっていないようだった。のほほんとした顔の彼を見ているともどかしかったが、一方で要の言うとおり、ただ酔っ払いが扉を叩いたり蹴ったりしていただけかもしれない。それほど怯えることでもないという気持ちになってきた。
春香がいくらか落ち着いたのを見ると、要は手に下げていた紙袋からワインボトルを取り出した。濃いピンク色の液体で満たされている。ロゼシャンパンかと思ったが、要の給料で簡単に買えるものではないはずだ。受け取ってよく見てみれば、案の定オーストラリア産のスパークリグワインだった。
それでも要は春香がロゼワインが好きだということを覚えてくれている。
「春香ちゃんがケーキ買っといてくれたっていうから、オレはワイン買ってきた」
立ち上がって、ケーキが入っている冷蔵庫を覗く要の姿を眺めていると、何だか今しがた起こった気味の悪い出来事が夢だったような気がした。
ワインを開けて、二人でかぼちゃと栗のケーキをつつきながら他愛もない話をしていると、大分春香の不安は和らいだ。こういう時間を持つと、結婚してずっと要と一緒にいるのも悪くないと思う。
まめな要は、食べ終わるとすぐにゴミを捨てて食器を片づけている。台所を使った後の掃除までしっかりやるし、簡単な食事も作れる。家事全般が苦手の春香とは大違いだ。
男と一緒に住んで、仕事で疲れて帰ってきた後や貴重は休日に、彼が散らかした後を片づけたり、食事の支度をするなんて冗談ではないと思っていたが、要となら一緒に住んでもうまくやっていけるかもしれない。
流し台に向かっている要の背中をいっとき見つめた後、春香は一服しようと煙草を手に取った。あと一本しかない。これを吸ったら階下の自販機で買ってこよう。
ダウンジャケットをまとってベランダへ出た。要が煙草嫌いということもあるが、元から部屋の壁に匂いをつけないように、極力窓際やベランダで吸うようにしていた。
結局要と二人で一本空けてしまった。風は無くとも外の空気は冷たかったが、酔いが回った体はじんわりと温かかった。
九階にある春香の部屋は眺めがいい。オートロックもない古めのマンションだが、近くには高い建物が少ないために、遠くお台場あたりの夜の光が見渡せた。次の休みはあそこに行ってみようか。何年かぶりに観覧車などに乗ってみるのもいいかもしれない。
背後で流しの水音が止まった。要の足音が近づいてくる。春香は短くなった煙草を唇から離し、左手に持っていた陶器の灰皿に灰を落とした。
長く温かい腕が後ろから春香の細い体を抱いた。要に身を預けるようにしながら春香は彼を振り向こうとした。
突然、両足がベランダを離れて、体が宙に浮く。要に抱き上げられたのだ。細身の要でも、春香の小柄な体なら何とか持ち上げられるらしい。時々春香を横抱きにしてベッドに連れていってくれることがあった。
「要くん、危ないよ」
「大丈夫」
春香は慌てて煙草を消しながら咎めたが、要は無邪気に笑っていた。つられるように春香も微笑む。
次の瞬間、春香の体はベランダの手すりを越えた。頭をぐいと押され、遥か下方のアスファルトが近づく。
一瞬の浮遊感。
「えっ」
驚愕の一声を残し、春香の体は落下した。マンションの駐輪場が猛スピードで近づく。顔面で衝撃と激痛が弾け飛んだ。
※※※※※
石田はベランダから身を乗り出し、下を覗き込んだ。
駐輪場そばの黒いアスファルトの地面に、うつ伏せに春香が倒れている。手足を半端に広げた姿は、潰れた蛙のように無様だった。
石田の父が死んだ時も、同じような姿だった。
母は既に寝室に引っ込み、夜遅く終電で帰った父は、風呂に入った後、リビングでビールを飲んでいたらしい。気配には気づいたが、自室で音楽を聞きながら漫画を読んでいた石田は、帰宅した父親に顔を見せることもしなかった。父も石田が起きていることは知っていただろうが、声をかけてくることはなかった。中学の頃から、仕事が多忙になって深夜の帰宅や休日出勤が増えた父とは、同じ家に住みながら疎遠になっていた。
不意にどんという音と小さな衝撃を感じた気がして、石田はCDプレイヤーを止めた。近所で交通事故か何かが起こったのだろうかと部屋を出てみると、テーブルにビール缶と食べかけのナッツの袋が置いてあるだけで、父の姿はなかった。
リビングの大きな窓は開いていた。レースのカーテンが微かな風になびいて、室内に不思議な陰影を作り出していた。
既にその時、石田は事態を悟っていた気がする。彼は窓からベランダへと踏み出し、眼下にうつ伏せに倒れる父の姿を見つけた。
父親の最期は変死とされ、遺体には行政解剖のメスが入り、警察の捜査も行われた。石田も気遣われながらも何度も事情聴取を受けた。
父に愛人がいたことを石田と母が知ったのは、その過程でだ。警察は相手の居所などは教えてくれなかったが、母が探偵を使って調べ上げた。
中嶋春香。当時二十九歳だった。
母が探偵社から渡された写真を覗いてみたが、外資系企業の営業というだけあって華やかな美人だった。
背が低く太り気味で、趣味といえばテレビとインターネット、外出することもほとんどなく、そのくせ父や石田には小言を欠かさない母親と比べれば、男として父が春香に惹かれたのも分からないでもなかった。
父親の死は結局、状況からして自殺という結論が出された。石田もそれに異論は無い。だが仕事は順調、母や石田にも大きな問題はなく、病や借金なども抱えていなかった父親が唯一悩んでいたことが、愛人、春香との別れ話だったらしい。自殺の原因はそれしか思い当たらないという。
父に愛人がいたことすら気づかなかったらしい母は、一時期は春香を恨んで居所をつきとめ、直接会って話をしたいと息巻いていたが、親族や石田に止められてようやく思いとどまった。
中嶋春香という女を格別恨んでいたつもりではない。母は春香が父を弄んで死に追いやったと思っていたようだが、石田は父が愚かだったのだと、思春期の当時から冷めた気持ちでいた。
だが記憶の底にいつも引っかかっていた女の名前は、派遣会社のセミナー会場で見かけた時に、一気に興味を膨らませた。
『現役営業ウーマンによる初級ビジネスマナー講座。講師・中嶋春香』
広告代理店勤務を経て、大手IT企業に移った後は、女性ながら営業チーフとなったという経歴の女は、年月を経ても確かにあの写真の面影を残している気がした。
セミナーは満席だったが、終了後に春香が聴講者たちの質問を受けながら、名刺を配っているのを見かけた。人脈作りの一環だろう。
石田が何食わぬ顔で、本日参加できなかったが次回は参加したいと告げて名刺を請うと、春香は洗練されたビジネス用の笑顔と共に、警戒する様子もなく名刺をくれた。
社名と役職は入っていたが、個人用として自分で作っている物のようだった。薄いピンクの花模様の名刺には、「インテリアコーディネーター」「ビジネスマナーインストラクター」「コラムニスト」など、カタカナの肩書きがずらりと並び、名前とEメールアドレス、ホームページのURLが入っていた。
興味本位でホームページを訪れてみると、春香の経歴が記載してあった。英語やパソコン操作に関する資格も持ち、趣味もスキューバや日本舞踊、それにちなんだ和装の着付け、オペラ鑑賞など幅広い。頭が良く多才な女だろうと思われた。
にもかかわらず、幸せではないのだろうと直感した。
ブログを見てみれば、趣味に関する日記や有名レストラン、カフェ、センスのいいバーなどを訪れた記録があった。食べ歩きも趣味らしい。一見、充実した日々を送る独身キャリア女性に見えるが、満たされないところをイミテーションの宝石で埋めているような、そしてそんな自分を無理に誇っているような虚しさが、僅かに漂ってくるようだった。
住所や地名を特定できるような記載は無かったが、いくつかのカフェやバーの写真に見覚えがあった。以前、石田の恋人が都立大近辺に住んでいたが、当時に訪れていた場所だ。
特に中嶋春香を探しているつもりはなかったが、現在の勤務先から蒲田の自宅までの帰り道ともなるので、少しルートを変え、途中下車して中目黒近辺をぶらつき、カフェやバーで飲んでから帰るということをたまにしていた。
そのうちの一軒で、中嶋春香と再会した。
もうすぐ四十になるはずだったが、そうは見えなかった。体つきだけでなく喋り方や姿勢も若々しい。小柄でほっそりとした色白の彼女には、さぞ和装が似合うだろうと思った。
父を惑わせた運命の女がどんな人間か。石田が春香に近づいたのは全く興味本位だった。
きれいだ、かっこいい、美しいと褒めちぎると、春香は「からかわないで」と照れながらも、まんざらでもなさそうだった。常連客同士として距離を近づけるうち、過去の恋愛のことをさりげなく尋ねると、酔っ払って気を許した春香はぺらぺらと喋り出した。
そのうちの一人、有名商社勤務の男が石田の父を差しているようだった。『その人はどうしたの?』と尋ねると、春香は幾分沈んだ顔になり、別れ話でもめた後に自殺したと語った。
誰かに話を聞いてほしいのだろう。普段、ビジネスや趣味の付き合いでは、相手に好印象を与えるために聞き役に回り、その場の誰もが楽しめるような話題を提供しているに違いない。
石田は春香がどんな話をしても、嫌な顔、退屈そうな様子を見せずに興味深そうに聞いていた。
春香が石田に気を許し、警戒を解いて距離を詰めてきている感触は、形容しがたかった。春香にべたほれしているかのように振る舞っているうちに、本当に彼女に恋しているような気もした。
しかし春香と寝るようになって、彼女の素顔に浮き出たクマや目元や頬の皺、下腹や尻のたるみなど、服や化粧で巧みに隠された老いを目の当たりにするにつけ、春香に対して侮蔑の混じった苛立ちと哀れみを感じるようになった。
父は死に、その遠因となった女も確実に老いている。乾いて虚しい気分だった。
一度それとなく結婚という単語を口にすると、春香は表に出すまいとしながら、そわそわし始めた。プライドの高い彼女は、自分からは何も言うまいが、交際を申し込んだ時のような石田の無邪気で一途なプロポーズを待ち受けているようだった。
ある意味で可愛いと言えなくもなかったが、そんな気持ちは持てなかった。中嶋春香に多大な興味と関心を惹かれていたが、欠片ほどの好意も持っていないからだ。父の敵などと憎んでいたわけではないが、彼女に抱いていた関心は嫌悪に近かったのだ。
腐敗していく物に何となく興味を惹かれて、匂いを嗅ぎ、覗き込みたくなるのに似ている。
今夜、訪問前に春香を脅かしたのも、いたずら心の延長だった。本気で怯えている春香の姿が滑稽で面白かっただけだ。
無防備に石田に背中を向けて、ベランダで煙草を吸っている春香を抱き上げた時も、明確な殺意があったわけではない。その衝動が沸いたのは、驚いた春香が石田と目を合わせた瞬間に微笑んだ時だった。化粧をしていない顔は、一日の疲れを正直に映していて美しくはなかったが、幸せそうだった。その刹那、めちゃくちゃに叩き壊してやりたくなった。
石田が物思いに耽っていた時間は短かった。
春香が墜落したことに誰かが気づけば、すぐに警察や救急車が来る。早急にここを出なければ。
石田はリビングに戻ると、ポケットから皮手袋を取り出し、春香のバッグからボッデガヴェネタのピンク色の財布を取り出した。五万円入っている。無造作に札をポケットに押し込んだ。キャッシュカードも取り出そうとして、やはりやめた。死後に現金が引き出されていることに警察が気づけば、春香の死に不審を持たれるかもしれない。
春香は石田との関係を誰にも話していないと言っていた。それはそうだろう。石田が定職についているならともかく、司法浪人といえば聞こえはいいが実質はフリーターだ。十四歳も離れたフリーターとつきあっているなどとは、プライドの高い春香は周囲には話せなかっただろう。いい年をして、若い男に捕まったと笑われると分かっていたはずだ。
無論石田も春香のことを周囲の人間には話していない。元から人付き合いが悪く、友人も極めて少ない。母や、父の死後に面倒を見てくれた叔父夫婦が田舎に引っ込んでからは、彼らとも疎遠だった。
春香に近づいた時から、どこかでこの結末を予測していたのかもしれない。春香に名乗っていたのも本名ではない。私物は一切春香の家には置いていないし、このまま静かに姿を消せば、春香の周囲から石田の痕跡は拭い去られるはずだ。
春香の死は変死ではあるが、酔ってベランダから転落した事故か自殺と思われるだろう。父が死んだ時と同様だ。さらに警察が怠慢なら、捜査も行われずにそのまま片づくかもしれない。携帯電話の通話記録から石田が浮かび上がるのは時間の問題だが、バーの常連客同士の知り合いということで、しらを切り通せるはずだ。一方的に好意を寄せられていたとでも告げれば、それが自殺の原因だと考えられるかもしれない。
石田は立ち上がった。長居は無用だ。
――コンコン。
誰かが扉を叩いた。
さっと体中に緊張を走る。石田は時計を見上げた。午前一時を過ぎている。こんな時間に誰が訪ねてくるのだろう。
家族か、石田以外の恋人か、近くに住んでいる友人か。どちらにしても、当然応答する気は無かった。それこそ先ほど春香に言い聞かせたように、酔っ払いが部屋を間違えたのかもしれない。
石田は立ち尽くしたまま、扉の前の人間が去るのを待った。
――コンコン。
再び扉が叩かれる。先ほど春香を脅かした自分の手口を真似されているみたいだった。
誰だ。
苛立ちとも不安ともつかない衝動に突き動かされ、石田は足音を忍ばせながら玄関に出た。
ドアスコープにそっと顔を近づけ、右目で覗き込む。真っ暗だった。誰もいない。
いたずらかと思った瞬間、再び目の前で鉄の扉がこんこんと音を立てた。ドアに与えられたノックの小さな振動が、空気を隔てて伝わってきた。石田はびくりと一歩後ずさった。
誰かがいる。
再びドアスコープを覗いた。
ドアに顔を近づけると、ふうふうと荒い息遣いが微かに聞こえてきた。扉の表面にひたりと何かが押し当てられる気配があった。
誰かがいるのは確実なのに、真っ暗で何も見えない。怖気をこらえながら目を凝らす石田の前で、スコープの歪な視界が揺らいだ。僅かに右手から蛍光灯の明かりが入ってくる。
眼球だ。
誰かがドアスコープの外から内側を覗きこんでいる。廊下の明かりも入らないほどぴたりとドアに顔を押し付けて。
石田は息を呑んで扉から離れた。
部屋に来る前に石田がしたのと同じことを誰かがしている。
馬鹿な。
そんなことはあるわけがないと思いつつ、石田はリビングを大股に横切ってベランダへと出た。
風は無かったが、外は身を切るような寒さだった。手すり越しに下を覗き込んだ。
いない。
潰れた蛙のように無様に倒れていた春香の遺体がそこに無かった。
ここは九階だ。頭から落ちた人間が無事でいられるはずがない。物音に気づいた近所の人間が春香を救助しようとして、病院かどこかへ連れて行ったのかもしれない。あるいはサイレンなどは聞こえなかったが、既に救急車が来たか。
──コンコンコン。
急かすように再びノックの音が響いた。石田は弾かれたように室内を振り返る。窓を閉めるのも忘れて、玄関に駆け寄った。
扉の内鍵はかかっていた。若干安堵したものの、全身に鳥肌が立ち、頬を冷や汗が流れていく。
(誰だ……)
──コンコンコン。
繰り返されるノックは、次第に苛立ちを表すように、速く強くなってきた。
『ハロウィンの夜には──』
父の言葉を思い出した。まだ石田が幼い小学生の頃、父と母と食卓を囲んでいた頃に、父が物知り顔で語っていたことだ。
その父を死に追い込んでおきながら、春香は葬儀にも顔を見せず、遺族に挨拶をしたこともない。優雅な独身生活を長年謳歌しておいて、年を取ってから若い男との結婚を夢見ている彼女の無神経さが癇に障った。募りに募った嫌悪と軽蔑は、一瞬の殺意にまで膨れ上がった。
父の死が自ら招いたものであるなら、春香の死も同じだ。彼女は石田の意図と正体を疑いもしなかった。
突如、ジーンズのポケットに突っ込んでおいた携帯電話が震えた。誰かからの着信だ。
石田は静かになったドアに一瞬だけ目を向け、小刻みに震え続ける携帯電話を取り出した。
はるか
電話の表面に浮かんだ文字を認めて、今度こそ髪が逆立つほど戦慄した。
そういえばバッグの中に春香の携帯電話が無かった気がする。充電器にも無い。春香はベランダに出た時、携帯電話を持っていたのだろうか。そういえば煙草が無くなったと呟いていたから、買いに出る気だったのかもしれない。
しかし九階から落ちた人間が、何故携帯電話を使える。いや、そもそも携帯電話もこの高さから落下して無事なはずがない。
どう考えても理解できない。石田は電源ボタンを二度押して、強引に着信を切った。
再び携帯電話が震える。
同じ三文字が目に留まった。再び電源ボタンを続けざまに押したあと、長押しして電源自体を切った。
どん。
扉がそれまでと違う音を立てて叩かれた。
どんどん。
扉への振動が室内の空気を揺るがせる。石田はリビングに立ち尽くしたまま動けなかった。まるで石田が電話の電源を切ったことに抗議しているようなノックだった。
どんどんどん。
いや、これはノックなどではない。相手は拳で扉を叩いている。石田に対する明確な害意を感じた。
開け放したままのベランダの外からは、冷たい風が緩やかに吹き込んできた。ピンク色の華やかなカーテンが音も立てずにそよいだ。
だぁんだぁんだぁん。
速く強くなるノックの音は、次第に常軌を逸したリズムに変わった。人間がこれほどの強さと速さで、繰り返し鋼鉄の扉を叩き続けられるものだろうか。
休みなく続く音の合間に、扉の向こうからびちゃりびちゃりと、濡れたものを叩きつけるような音が混じった。素手を異常な力で鉄の扉に叩きつけ続けるうち、柔らかな皮膚が裂け、肉が爆ぜて血と体液が飛び散る。それでも彼女はもはや痛みを感じない。
一体、オレは何を想像しているんだ。
石田は己を叱咤したが、どうしてももう一度スコープを覗くことができなかった。
警察だ。もう構っていられない。身の安全が第一だ。もしこのノックの主が部屋に入ってくるようなことを考えれば、犯罪者になるほうがまだましだ。
放り出した携帯電話を拾い上げて、石田は躊躇した。電源を入れれば、また春香の携帯電話からの着信があるかもしれない。
意を決して、石田は電源を入れた。怯えていても仕方がない。
液晶画面が光り、『起動中』の文字が流れた。
早くしろ。僅か数秒の時間がとてつもなく長く感じられた。
扉を叩く音が止んだ。また携帯電話にかけてくる気だろうか。石田は素早く数字ボタンを押した。
一。
かちかちと小さな金属音が聞こえた。ドアのノブを外から別の金属で探っているような。
一。
鍵だ。
最後のゼロを押す寸前に石田はぎょっと顔を上げた。
春香のバッグの中に鍵があったか思い出せない。だが外出するつもりなら、携帯電話と一緒に持っていたかもしれない。
電話を放り出し、玄関に駆け寄る。あとニ歩。石田の目の前で、扉のノブにがちりと小さな金属音が押し込まれる。音を立てて内側のシリンダーが九十度動いた。
扉が開く。
*****
十一月五日。
東京都目黒区のマンションの一室で、住人の女性の姿が見えないと知人から110番通報があった。
女性は二日月曜日から勤務先を無断欠勤しており、様子を見にマンション管理人立会いのもとで同室を訪れた同僚が事態に気づいた。
玄関には大量の血痕と体組織の一部が残されていたが、血痕は住人の女性の血液型とは一致せず、この女性が何らかの事情を知っている可能性があるとみて、警察は行方を捜している。
了