第一章 母の入院、六年間止まっていた時計が動き出す
【母が倒れた日】
真夏の熱気が澱む台所で、母が吐血して崩れ落ちた。
鈍い音がフローリングに響き、生温かい鉄の匂いが鼻腔を突いた瞬間、俺のなかで六年間止まっていた錆びついた時計の針が、ぎしりと軋みを上げて動き出した。
床に散らばる赤黒い飛沫と、かすかに痙攣する母の細い背中を、俺はただ呆然と見下ろしていた。
「母さん……? おい、母さん!」
膝から崩れ落ち、母の肩を揺さぶる。
返事はない。荒い呼吸の合間に、ひゅっと喉が鳴る音が混ざる。額にはびっしりと冷や汗が浮き、唇の色は土気色に抜けていた。
視界が激しく揺れ、心臓が早鐘のように打つ。指先が凍りついたように震えて、ポケットからスマートフォンを取り出すだけで恐ろしいほどの時間がかかった。
一一九番を押す。震える指で通話ボタンをタップし、耳に当てた。
電話口の通信指令員に何を話したのか、正確には覚えていない。
住所を言う声が上擦り、母が血を吐いて倒れたこと、意識が朦朧としていることだけを、何度も同じ言葉で喚き散らすように伝えた。
救急車のサイレンが近付いてくるまでの数分間が、永遠のように引き延ばされて感じられた。
築三十年の木造アパートの薄い壁越しに聞こえる真夏の蝉時雨が、やけに遠い。
カーテンを閉め切った薄暗い自分の部屋から一歩外に出ただけで、これほど現実の空気は重く、息苦しいものだったのか。
俺の手のひらは、母の背中から伝わるかすかな体温と、拭いきれない赤い血でべったりと汚れていた。
救急隊員が狭い玄関から雪崩れ込んできた。
手際よく母の意識状態を確認し、酸素マスクを当て、ストレッチャーへと乗せる。
「ご家族の方ですね? 保険証とお薬手帳、靴を持ってすぐに同乗してください!」
鋭い指示に弾かれたように、俺は棚の引き出しを引っかき回し、母の保険証の入ったポーチを掴んだ。
履き古したサンダルを引っ掛け、薄汚れたTシャツにスウェット姿のまま救急車へ乗り込む。
けたたましいサイレンが鳴り響き、車体が大きく揺れた。
窓の外を流れる夏の景色は歪んで見え、車内に充満する消毒液と機械の電子音に胃がせり上がった。
隊員が車載の無線で受け入れ先の病院と緊迫したやり取りを交わしている。
高校を卒業してから六年、母のパート代に縋りつき、昼夜逆転の生活で部屋に閉じこもっていた二十四歳の俺には、その専門用語の一つひとつが自分を断罪する刃のように思えた。
搬送先の総合病院の救急外来は、白く眩しい照明と張り詰めた空気に満ちていた。
処置室の重い扉の向こうへと母が運び込まれ、俺はその手前で無情に締め出された。
プラスチックの硬いベンチに腰を下ろすと、冷房の冷気が汗で湿った背中を容赦なく冷やしていく。
壁の時計の秒針がカチカチと進む。一時間、いや二時間以上が経過した頃、疲れた顔をした医師が処置室から出てきて、俺を手招きした。
診察室の丸椅子に座ると、医師は目の前のモニターに映し出された母の内視鏡画像を指し示した。
胃の内部に、ただれたような大きな潰瘍と、出血の痕が生々しく広がっている。
「佐伯さんですね。お母様ですが、胃からの大量出血を起こしていました。止血の処置は行いましたが、病変の形状から見て、胃がんの可能性が極めて高い状態です」
がん。その二文字が、脳の奥で爆発したように響いた。
「が、ん……? 母さんが、ですか」
「はい。貧血の数値もかなり進行していました。かなり前から痛みや違和感を我慢されていたはずです。これ以上の出血を防ぐためにも、早急な精密検査と、胃の切除手術を視野に入れる必要があります。このまま緊急入院となります」
医師の説明は淡々と、しかし決定的な重みを持って続けられた。
だが、俺の頭の中を埋め尽くしたのは、母の容態への心配と同時に湧き上がってきた、醜く浅ましい金への恐怖だった。
入院。手術。がんどころか、まともな病気一つしたことのない俺には、それが一体いくらかかるのか見当もつかない。
数十万、いや数百万だろうか。
我が家の預金通帳に、そんな大金が入っていないことくらい、世間知らずの俺でも痛いほど分かっていた。
入院手続きの書類を渡され、震える手でサインを済ませた。
母は処置を終えて病室のベッドで点滴を受けながら眠っていた。青白い顔に酸素チューブをつけられたその姿は、朝まで台所に立っていた母とは別人のように小さく、頼りなく見えた。
「母さん、ごめん……ごめん……」
眠る母の手を握りしめたが、その手は冷え切っていた。
病室に響く規則正しい生体モニターの電子音が、まるで余命のカウントダウンのように胸を締め付ける。
面会時間が終わり、病院を出たのは夜の八時を回った頃だった。
アスファルトの照り返しが残る夜道を、足を引きずるようにして歩いて帰った。
玄関のドアを開けると、台所の床にはまだ母の吐血の跡が黒ずんで残っていた。
雑巾を水で濡らし、這いつくばって床を磨く。擦っても擦っても、鉄の匂いが鼻から抜けない。
自分の無力さと情けなさに涙がこぼれ、床に落ちた水滴が血の跡と混ざり合っていった。
母はスーパーのレジ打ちのパートで、手取り十数万円の中から俺を養ってくれていた。
ボーナスなどない。貯金だって、俺が高校を出てから引きこもったせいで、とっくに底をつきかけているはずだ。
もし手術代が払えなかったらどうなる。
治療を拒否されて、母はこのまま死んでしまうのか。
それとも、俺たち親子は路頭に迷って破産するのか。
自分の部屋に戻り、埃をかぶったパソコンの前に座り込んだ。
六年間、ただ現実から逃げるためだけにネット動画を眺め、掲示板を徘徊し、時間をドブに捨ててきた画面だ。
何をしていいのか分からない。誰に相談すればいいかも分からない。
友人など一人もいない。親戚とは母が離婚したときから縁が切れている。
追い詰められた俺の指は、気づけばいつも見ていた匿名掲示板のサイトを開いていた。
震える指でキーボードを叩き、新規スレッドを立てる。
他人に助けを求めることすら恥ずかしく、それでも何かに縋らなければ発狂しそうだった。
【表題】母が倒れて胃がんの疑い。高卒引きこもりの俺、完全に人生詰んだ
1:名無しさん@お腹いっぱい。 ID:mInA70To
二十四歳の男です。高校出てから六年引きこもってます。
今日の夕方、母が台所で血を吐いて救急車で運ばれました。
胃がんの可能性が高いと言われてそのまま入院になりました。
貯金はほとんどありません。手術費用が払えないと治療してもらえないんでしょうか。
俺はどうすればいいですか。何から手をつければいいのか本当に分かりません。助けてください。
投稿ボタンを押したあと、激しい自己嫌悪が押し寄せた。
ネットの掃き溜めにこんな泣き言を書き込んで何になる。
どうせ「働けゴミ」「親不孝者が」「早く死ね」と罵倒されて終わるだけだ。
画面を閉じようとしたが、指が動かなかった。わずか数十秒の間に、画面が自動更新される。
2:名無しさん@お腹いっぱい。 ID:k9P11wZa
釣り乙。本当に倒れたならネット見てないで看病しろ。
3:名無しさん@お腹いっぱい。 ID:vB440qMn
二十四歳で六年引きこもりは草。親の脛齧り尽くしてついに骨まで折ったか。
予想通りの冷たい言葉が並び、心臓がきりきりと痛む。
自業自得だ。俺が悪い。俺が母さんを殺すんだ。
そう思ってブラウザのタブにカーソルを合わせた瞬間、別の書き込みが続けて画面に現れた。
4:福祉職ワイ ID:w99Zk01L
釣りの可能性もあるがマジなら言っとく。
まず落ち着け。日本の医療は金がないからってすぐ見捨てたりせん。
明日の朝一番で、その総合病院の「医療福祉相談室」に行け。
そこにいる「医療ソーシャルワーカー(MSW)」に全部正直に話すんや。
金のことも、自分が引きこもりなことも、全部や。抱え込むな。
5:名無しさん@お腹いっぱい。 ID:qRt55aPo
1
高額療養費制度があるから青天井で金取られるわけじゃない。
母ちゃんが国保なのか社保なのか確認しろ。
あと絶対に入院窓口で「限度額適用認定」の話を聞け。これ出さないと一時的に窓口で大金払う羽目になるぞ。
6:AIガチ勢ニキ ID:x77Lp0
情けないのは事実だが、今さら自分を責めても一円にもならんぞイッチ。
親を助けたいなら手を動かせ。
明日病院に行く前に、まず生成AIに質問して制度の概要を頭に入れとけ。
ChatGPTでもClaudeでもGeminiでも何でもいい、無料枠で使える。
「母が入院したが医療費が払えない。利用できる公的制度を教えてくれ」って打ち込め。
ただしAIの言うことを全部鵜呑みにすんなよ。
AIは調べるための入口であって答えそのものじゃない。一次情報で必ず裏を取れ。
画面に流れる見知らぬ誰かの言葉を、俺は瞬きも忘れて凝視した。
医療福祉相談室。医療ソーシャルワーカー。高額療養費制度。限度額適用認定。
どれも聞いたことすらない単語ばかりだった。
世の中には、困った人間を助けるための仕組みが最初から存在しているのか。
そして、AIを使って調べるということ。
部屋の隅に転がっていたメモ帳とボールペンを掴み、画面の単語を書き殴る。
筆圧が強すぎて、紙が破れそうになった。
「病院の相談室……高額療養費……」
声に出して読むと、胸の奥で固まっていた氷が、ほんの少しだけ溶け出すような感覚があった。
俺は六年間、何も知ろうとせず、何も調べず、部屋の暗闇に逃げ込んでいただけだった。
外の世界が怖くて、傷つくのが怖くて、耳と目を塞いで生きてきた。
そのツケが今、母の吐血という最悪の形で回ってきたのだ。
母が命を削って働いている間、俺は何をしていた。
痛みを隠して台所に立っていた母の背中に、気づこうともしなかった。
もう逃げる場所はない。
俺が調べなければ、俺が動かなければ、母は助からない。
俺はブラウザの新しいタブを開き、AIのログイン画面へと向かった。
キーボードの上に置いた指先は、まだ細かく震えている。
だが、その震えは先ほどまでの絶望によるものではなかった。
母を救うために、何としてもこの泥沼から這い上がってみせるという、生まれて初めて抱いた切実な決意の震えだった。
読んでいただきありがとうございます。
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