断罪された悪役令嬢ですが、最推しのいけおじ宰相をトゥルーエンドに連れて行くので、ざまぁは片手間です
「オクタヴィア・レーンフェルト! お前との婚約を破棄する!」
夜会の真ん中で、婚約者であるルーファス王子が高らかにそう叫んだ。
「お前は聖女を妬み、陰でいじめ抜いた! そのような女、私の妻にはふさわしくない! 罪を償ってもらうぞ!」
会場が静まり返る。
数百の視線がいっせいに私へと突き刺さった。あらあらまあまあという囁きが、さざ波のように広がっていく。
婚約破棄。断罪。悪役令嬢のお決まりの末路。
──で、ですよね。来ましたわ。とうとう来てしまいましたわ。
私はぎゅっと両手を握りしめた。
ちなみに聖女いじめなんてただの一度もしていない。完全な、純度百パーセントの濡れ衣である。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
なぜなら。
「裁定を宰相に委ねる! ディートハルト宰相、前へ!」
──きた。
来てしまった。
会場の奥から、ゆっくりと一人の男が歩み出てくる。
白いものの混じった黒髪を後ろへ撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥に、底の知れない静かな瞳。年の頃は四十半ば。若い攻略対象たちの華やかさとはまるで無縁の、鋼のように冷たく、それでいて滲み出るような落ち着きと、色気。
ディートハルト・アッシェンバルト宰相。
この国でもっとも恐れられ、もっとも冷酷と噂される男。
そして──私の最推しである。
ぶわっ、と全身の血が沸いた。
(ほ……っ、本物だああああああっ!!)
内心、私は絶叫していた。
生ディートハルト。実物。動いてる。喋ってる。歩いてる。ありがとうございます。ありがとうございます。
ああ、その隙のない歩き方。誰にも心を許さない、あの凪いだ目。書類を捌くときの長い指。ぜんぶ解釈一致。むしろ解釈を超えてきている。生きていてよかった。二回目の人生だけど。
ディートハルトは私の前に立つと、ルーファスへ静かに向き直った。
「殿下。この令嬢が聖女をいじめたという証拠は」
「しょ、証拠だと? そんなもの見れば分かるだろう! この女の、底意地の悪そうな顔を見れば!」
「顔は証拠になりません」
ばっさりとディートハルトは切り捨てた。
「証言も物証も日時も場所も──何ひとつ示されておりませぬ。証なくして人を罪に問うは、法の埒外」
「な……っ」
「レーンフェルト嬢の沙汰は追って下します。それまで罪人と決めつけることはまかりならん。──これは、裁定です」
……っ、かっこいい。
私は不謹慎にもうっとりしてしまった。
感情論で吊し上げようとする王子を、たった数言でぴしゃりと黙らせる。証拠がなければ裁かない。流されない。ぶれない。
ああ、そうだ。これだ。これが私の好きなディートハルトだ。冷たいって言われるけど、本当は誰よりも公正な人。
婚約は破棄された。私の身は宙吊りになった。
でも、構わない。
だって、推しが。私の最推しが、目の前で、私を断罪から守ってくれたのだから。
その彼が、ふと、私を見た。
糾弾されてなお、なぜか頬を染めてうっとりしている令嬢を、訝しげに。
ああ、その不可解なものを見る目も最高ですわ。家宝にします。
◇ ◇ ◇
少し話を整理させてほしい。
私、オクタヴィア・レーンフェルトには前世の記憶がある。
前世の私は、どこにでもいるしがない会社員だった。
真面目だけが取り柄で、誰よりも早く出社して、誰よりも遅くまで残って、頼まれた仕事は断らなかった。
なのに。
手柄はいつも要領のいい同僚に持っていかれた。失敗の責任だけがなぜか私に回ってきた。どれだけ尽くしても、誰も私を見てはくれなかった。
すり減って、すり減って。ある日、心がぽきりと折れた。
布団から出られなくなった。
そんな真っ暗な日々の中で、たった一つ、私を生かしてくれたものがある。
乙女ゲーム。『恋する常春の宮廷』。
一年中、春のように暖かい国を舞台にした、古い、けれど名作と名高い一本。私は布団の中で、それを何度も何度も繰り返しプレイした。すり切れるほどに。
攻略対象は五人。王子、騎士団長、近衛、文官、神官。みんな、きらきらの美形だ。
でも、私が好きになったのは、その五人の誰でもなかった。
攻略対象ですらなかった。
宰相、ディートハルト・アッシェンバルト。
ゲームでは悪役令嬢を断罪し、ときにヒロインの前に立ちはだかる、冷たい脇役。攻略不可。専用ルートなし。立ち絵すら、わずか数枚。
でも、私は彼が好きだった。狂おしいほど好きだった。
なぜなら、彼ほど報われないキャラはいなかったから。
設定資料で語られる、彼の過去。若き日にたった一人愛した人を喪い、それから感情を殺して国に尽くしてきたこと。誰にも理解されず、冷酷と恐れられ、その有能さで国を支えながら、手柄はすべて王家に持っていかれること。
……ねえ、それ。
それ、前世の私じゃないか。
尽くしても報われない。見てもらえない。ぜんぶ、誰かに持っていかれる。
私は彼に自分を重ねた。
そして、どのルートを選んでも、彼は最後、誰にも看取られず、たった一人で死ぬ。
幸せになるエンドが、一つもない。
私はそのたびに布団の中で泣いた。報われなかった彼を、何度も何度も看取った。
せめて。せめて、この人だけは報われてほしかった。
報われなかった、私の代わりに。
ただ一つだけ、噂があった。
誰も解法の分からない、幻の隠しエンド。 そこでだけ、ディートハルトが報われるという。
でも私は、ついぞ辿り着けなかった。何周しても条件すら分からなかった。攻略本にも載っていなかった。
そして、私は。
その隠しエンドに辿り着けないまま、ある朝、過労で倒れて──そのまま、死んだ。
────だから。
転生して、この世界に来て、彼が実在すると知ったとき。私は誓った。
今度こそ。今度こそ、私があの人を幸せにする。
幻のトゥルーエンドに、辿り着いてみせる。
報われなかった彼を。報われなかった私を。今度こそ報わせてやるんだ。
それが、二度目の人生をもらった、私の使命だ。
ただ私はトゥルーエンドがあることは知っているが、どうすれば辿り着けるかは知らない。
完全に、手探りである。
しかも、もっと恐ろしいことに、このゲームには最悪の分岐がある。
ディートハルトが無実の罪を着せられ、失脚し、破滅する。そういう筋書きが存在する。
彼が、誰にも信じてもらえないまま、すべてを奪われて終わる。
それだけは。それだけは、何としても避けなければならない。
幸い──いや、幸いと言っていいのか分からないが。
私は今、断罪を保留された、執行猶予の身だ。罪人と決まったわけではないが、無実が晴れたわけでもない。宙吊り。
放っておけば、いずれ証拠がでっち上げられて、私は断罪される。猶予は長くは続かない。
だったら。
その猶予のあるうちに。
黒幕を暴いて、自分の潔白を示して、ついでに──いや、ついでじゃない。本命だ。最推しを破滅から救って、トゥルーエンドに辿り着く。
タイムリミットは、そう長くない。
さあ。やってやろうじゃないの。
◇ ◇ ◇
まず私が疑ったのは、聖女だった。
婚約破棄の発端。私を断罪に追い込んだ女。怪しい。どう考えても怪しい。
というわけで、私は聖女をお茶に誘い出した。
……正直に言う。会う前は警戒していた。腹の探り合いになるだろうと身構えていた。
ところが。
現れた聖女は、私の顔を見るなり、ぼろぼろと泣き出した。
「オクタヴィア様……っ! わ、わたし、ずっと謝りたくて……っ!」
「は……?」
「わたし、あなたが断罪されるなんて望んでいませんでしたっ……! ルーファス様が勝手に、わたしのために、って……! 止めようとしたんですけど、わたしの言うことなんて聞いてくださらなくて……っ!」
ずびずびと鼻をすすりながら、聖女は言い募った。
「わたし、田舎の生まれで、こんな宮廷のこと、なにも分からなくて……っ。気づいたら、あなたが悪者にされていて……。わたしのせいです、本当に、ごめんなさい……っ!」
……えーと。
私はしばし固まった。
これは。
嘘をついている目では、ない。
私を陥れる気も、ディートハルトを害する気も、これっぽっちもない。ただ純粋に、王子に見初められて、流されて、おろおろしているだけの、善良な、田舎の娘。
はい。見当違いでしたー。
私は心の中で自分の頬を引っぱたいた。推しを救うどころか、無実の女の子を疑うとは。オタク、失格である。
「……いえ。あなたは悪くないわ」
私はハンカチを差し出しながらそう言った。聖女は、ふぇぇ、と泣きながらそれを受け取った。なんだ、この子。可愛いな。妹にしたい。
だが──このとき。
私の脳内に、ばちっ、と電流が走った。
待て。待て、落ち着け、オクタヴィア。
このゲームで、全ルートを通して、最後まで幸せに生き残るキャラは──たった二人だけだ。
一人は、ヒロインである聖女。これはいい。ヒロインだから当然だ。
そして、もう一人。
いつもするりと責任を逃れ、どのルートでも、なぜか美味しいところだけを持っていく女。
……聖女がシロ。
なら。
消去法で、黒幕は──あいつしかいない。
全ルートで幸せに生き残る、もう一人のあの女。
◇ ◇ ◇
その女のことを、ここでは黒幕と呼ぶ。
名前を出すのも惜しい。とにかく、世渡りだけは天才的にうまい女だった。
誰にでも取り入り、誰かが失敗すれば素早く責任をなすりつけ、おいしい話には真っ先に飛びつき、いつのまにか一番得をしている。
そして、ゲームのどのルートを見ても──この女だけは絶対に罰されない。最後まで、ぬくぬくと幸せに生き残る。
今回もそうだ。
ルーファス王子を裏で焚きつけ、私を断罪させたのも、この女。
そして、私が前世の知識で知っている、最悪の筋書き。
この女が、ディートハルトに濡れ衣を着せ、失脚させる。
……そして、それを確かめるように。
宮廷から、不穏な噂が流れてきた。
ディートハルト宰相に、横領の疑いがかけられた、と。
◇ ◇ ◇
来た。来てしまった。
ディートハルトの裁きは近いという。猶予はない。
私はその夜、屋敷で、必死に頭をひねった。
あの女をどうにかしなければ。でも──相手は全ルートで絶対に勝つ女だ。正攻法では逆立ちしても勝てない。証拠を掴もうとすれば握り潰され、訴え出れば、するりと逃げて返り討ち。
負けない女。チートみたいな女。
……でも。
待てよ。
あの女は勝ち続けている。一度も負けたことがない。
罠にかかったことがない。裏切られたことがない。痛い目を見たことが、ただの一度もない。
だから──きっと、警戒の仕方を知らない。
いつも美味しい話が向こうから転がり込んでくる人生だ。裏があるかもしれないなんて、本気で疑ったことがないだろう。
そして、あの女には、もう一つ、どうしようもない癖がある。
手柄を、自分のものにしたがる。
誰かが成したことでも、おいしい成果はぜんぶ自分がやったと、しゃしゃり出てかっさらう。
……見えた。
勝ち筋が見えた。
あの女を引きずり出すには、あの女自身のその性根を、餌にすればいい。
私は一晩かけて、筋書きを組み上げた。
◇ ◇ ◇
翌日。私は協力者を集めにかかった。
まず、元婚約者であるルーファス王子。
婚約を切られた身ではあるが、執行猶予中の令嬢が申し開きをしたい、と言えば、面会は断られなかった。
通された一室で、ルーファスは腕を組んでふんぞり返っていた。
「なんだ。今さら、許しでも乞いに来たか」
「いいえ。一つお伝えしに来ました。──殿下をずっと利用してきた者がいます」
私はまっすぐに彼を見た。
「私を断罪しろとしつこく殿下に勧めたのも。聖女様を殿下にあてがったのも。あの女ですね。そして今、宰相どのに濡れ衣を着せようとしている。ぜんぶ、同じ女の仕業です」
ルーファスの眉が、ぴくり、と動いた。彼も薄々感じていたのだろう。
しばらく、彼は黙っていた。やがて、ぎり、と奥歯を噛む音がした。
「……あの女。確かに、やたらと私に取り入ってきた。聖女を勧めたのも、お前を悪く言ったのも、あいつだ」
ばん、と、ルーファスが机を叩いた。
「私をいいように操っていたというのか。あの女ァッ!」
うん。釣れた。
プライドの高い男だ。女一人にいいように使われていたと知って、腹の底が煮えくり返っているのだろう。
「殿下。その悔しさ、晴らしませんか。──手を貸してください」
ルーファスの目に、ぎらり、と火が点った。
「……話せ。何をすればいい」
よし。一人。
それから私は、聖女にもこっそり一役、頼んだ。あの子は「オクタヴィア様のためなら!」と、健気に力こぶを作ってみせた。可愛い。やっぱり妹にしたい。
二人、確保。
だが、本命はもう一人いる。
あの女は、宰相の私室に偽の裏帳簿を仕込ませたはずだ。だが、貴族の女が警備された私室に忍び込めるわけがない。顔が割れている。
誰かにやらせたのだ。使い捨ての駒に。
私は聖女の伝手を頼った。田舎娘の彼女には、宮廷の下働きに知り合いが多い。貴族が決して繋がらない、地を這う網の目。
その網に、かかった。
金で雇われ、偽の帳簿を書き、宰相の私室へ運んで仕込んだ、当の実行犯。
「……もう、殺されると思ってた」
仕事を終えたあと、口封じに夜道で襲われ、命からがら逃げた。それきり、あの女の追手に怯えて生きてきた。
「あの人は、俺のこと道具としか思ってない。用が済めば、消すだけの」
……見えた。
この男は、いつ、どうやって帳簿を私室に運んだかを知っている。そして、あの女を、恨んでいる。
私は男に、匿うと約束した。かわりに、たった一度でいい、国王の前で真実を話してほしい、と。
男は長いあいだ俯いて、やがて、ぐ、と拳を握った。
「……あの女に一矢報いられるなら」
三人、確保。
◇ ◇ ◇
最後は、ディートハルト本人だ。
彼は今、横領の疑いで、宮廷の一室に留め置かれているという。
私はルーファスにディートハルト本人と話がしたいと願い出ていた。
通された、薄暗い一室。ディートハルトは窓辺に座り、静かに外を眺めていた。
「……あなたは。先日のレーンフェルト嬢か」
「宰相どの。この横領は濡れ衣です。仕組んだ者に、心当たりもあります」
ディートハルトが、わずかに目を細めた。
「あなたは、横領なんてする人じゃない。──毎晩、誰にも知られず、国境の難民の救済を、私財を削ってまで手配していたような人が。手柄にもならないのに。誰にも言わずに」
ディートハルトの表情が、止まった。
「……なぜ、それを知っている」
その瞳が、初めて揺れた。
誰にも言ったことのない、隠し事だったのだろう。
「知っています。あなたが、どれだけこの国に尽くしてきたか。ぜんぶ。──だから、こんなところで終わらせるわけにはいきません」
ディートハルトは、長いあいだ、私を見つめていた。
そして、ふ、と目を伏せた。
「……買いかぶりだ。私はもう、いい。長く生きすぎた」
「よくありません! あなたはまだ、何にも報われてない!」
ディートハルトが、息を呑んだ。
諦めきっていた、その目に。ほんの少しだけ、温かいものが差した気がした。
私は声を潜めて、組み上げた筋書きを囁いた。
あの女が仕込んだ、偽の帳簿。それを運んだ実行犯を、こちらは押さえている。当夜の入室記録と突き合わせれば、あの女の関与を、国王の前で炙り出せる。だが、それは賭けだと、正直に告げた。あの女は、追い詰めても、するりと逃げるかもしれない。失敗すれば、あなたの破滅は早まる、と。
ディートハルトは、静かに頷いた。
「……妙な娘だ。だが──久しぶりに、誰かを信じてみよう」
◇ ◇ ◇
舞台は整った。
私はルーファスを通じて、こう宮廷に触れ回らせた。
「宰相ディートハルトの横領を暴いた者には、褒美として、爵位と領地が下される」と。
あの女が長年、欲しがっていたもの。爵位。領地。
国王臨席のもと、横領を暴いた「功労者」がその経緯を申し述べ、褒美を賜る──そういう場が設けられた。
餌は、撒いた。
あの女は必ず出てくる。手柄と褒美を他の誰かにさらわれるのは、耐えられないから。
でも、それだけでは詰まない。
あの女は賢い。この場で口を滑らせるほど、間抜けではない。「調べたら証拠が出た」と、それだけ言って勝ち逃げするだろう。
だから、逃げ道は先に塞いだ。
罠は、あの女の言葉ではなく、あの女が消しそこねた生き証人にある。
◇ ◇ ◇
果たして、あの女は、しゃなりしゃなりと進み出た。勝ち誇った笑みを浮かべて。
「宰相の横領を暴きましたのは、このわたくしでございます」
「ほう。して、いかにして暴いた」
国王が問う。
「……ええ。怪しいと思い、調べさせましたところ、証拠が出てまいりましたの」
あの女は、それだけ言って、すっ、と口をつぐんだ。
……賢い。
経緯は語らない。「証拠が出た」と、それだけ。墓穴を掘らない、ぎりぎりの線で止めてみせた。
でも。
あなたが賢く黙るほど、こちらは静かに詰める。
「──恐れながら」
私は進み出た。
ざわ、と場がどよめく。断罪を待つ身の令嬢が、国王の前にまっすぐ立ったのだ。
「……執行猶予中の罪人が何故ここに」
「私が許可した。続けてくれ」
事前に国王にはどうしても嘆願したいことがあるとルーファスから話を通していた
「その証拠の裏帳簿。宰相どのの私室から見つかったものですね」
「……ええ。それが、何か」
「おかしいのです。あの裏帳簿は、宰相どのが書いたものではない。──後から私室に持ち込まれたものです」
女の、扇を持つ手が、ぴくり、と止まった。
「宰相どのの私室は、常に施錠され、警備兵が立っています。宰相どの不在の夜に、その部屋へ入った者の記録が、残っているはず」
私は国王を見上げた。
「陛下。どうか、当夜の入室記録をお検めください」
「……よかろう。警備長、記録を持て」
ほどなく、警備長が帳面を捧げ持ってきた。
「宰相不在の、あの夜。夜半、私室へ人足が一名。荷を運び入れております」
「その者の、名は」
あの女の顔から笑みが引いた。
「その夜、部屋へ入った者に、直接語ってもらいましょう」
扉が、開いた。
入ってきたのは、捨て駒の男だった。
女の瞳が、大きく見開かれた。
男は震えながらも、国王の前へ進み、膝をついた。
「……あの帳簿は、俺が書きました。宰相さまの筆跡を真似て。あの夜、俺が引き出しに仕込みました」
「誰の、指図だ」
男は、ゆっくりと腕を上げ、女を指さした。
「あの、お方です」
しん、と場が静まり返った。
「な……っ、なんですの、この者は! 顔も知りませんわ! わたくしを陥れるための、下賤な虚言です!」
……来た。
いつもの手だ。他人になすりつけて逃げる。証言だけなら言い逃れられると踏んだのだ。
でも、今日は記録がある。この男があの夜、確かに私室へ入ったことは、警備長の帳面が裏づけている。虚言では済まない。
追い詰められた女は、取り繕おうと口を開いた。
それが、いけなかった。
「そ、その者は、とうに──」
言いかけて、はっ、と口を噤んだ。
でも、もう遅い。
「……とうに、なんだ?」
国王の声が、低く、響いた。
「言うてみよ。その者は、とうに──どうした、と申す」
女の唇が震えた。
言えるわけがない。
「その者は、とうに始末したはず」。
そう続けようとしたのだ。用済みの駒は消したはずだと。生きて、ここにいるはずがないと。
顔も知らぬと言った、その口で。
「面白い」
国王が目を細めた。
「顔も知らぬ者の安否を案じるか。──とうに始末した、とでも言うつもりであったか」
「ち、違……っ」
「その者を、消そうとした。用済みの口を。──それだけの繋がりが、あったということだ。セラフィーナよ」
あの女は、口をぱくぱくとさせた。
……セラフィーナ。
そう。この女にも、ちゃんと名前がある。
ディートハルトの政敵の公爵夫人だ
でも私は、ただの一度もその名を呼ばなかった。呼ぶ価値もないと思っていたから。ずっとあの女で十分だった。
その女が、断罪されるこの瞬間にだけ。国王の口から、名を刻まれた。
生まれて初めて追い詰められた顔だった。負け方を知らない、無様な顔。
いつもなら、ここで誰かに罪をなすりつけて逃げるのだろう。
でも、今日は逃げ場がない。なすりつけようとした男は、生きて目の前にいる。
……勝った。
私は、深く息を吐いた。
勝ってしまった。最推しの命運を懸けた、大博打に。
◇ ◇ ◇
それから、ことは早かった。
あの女の悪事が、芋づる式に明らかになった。ディートハルトの横領が捏造だったことも、すぐに証明された。
彼を糾弾していた貴族たちは、手のひらを返して黙り込んだ。現金なものだ。
操られていたルーファスは、憑き物が落ちたように大人しくなった。聖女とのことも、これから丸く収まっていくだろう。あの子なら、きっといい王妃になる。
そして、私の冤罪も晴れた。執行猶予も解かれた。
セラフィーナは処刑された。彼女の唯一の敗北は死に繋がった
何より。
最推しの、破滅する未来が──消えた。
ずっと閉ざされていた、トゥルーエンドへの扉が。いま、確かに開いた。
◇ ◇ ◇
すべてが片付いた、ある日の夕暮れ。
ディートハルトが、私の屋敷を訪れた。
最推しが。私の家に。来た。情報量が多すぎて、心臓がもたない。
「オクタヴィア嬢」
彼は、いつもの静かな声で、私を見た。
「一つ、聞かせてほしい」
「は、はいっ。なんなりと」
「あなたは、断罪されかけ、宙吊りの身でありながら、命がけで私を救った」
彼の、底の知れない瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「誰も気づかなかった、あの女の企みを、なぜ、あなただけが見抜いた。そして──誰も知らないはずの、私の孤独を。私の労苦を。なぜ、あなたは知っていた」
……ばれていたか。
前世のことは言えない。ゲームのことも、トゥルーエンドのことも、言ったところで信じてもらえまい。
だから私は、ただ本当のことだけを言った。
「……あなたに、報われてほしかったんです」
声が震えた。
「あなたはずっと、誰にも分かってもらえないまま、この国を支えてきた。冷たいだなんて言われて、手柄も全部よそに持っていかれて。それでも、文句一つ言わずに。……そんな人が報われないなんて。そんなの、絶対に間違ってます」
ディートハルトが、わずかに目を見開いた。
「あなたは、誰よりも幸せになっていい人なんです」
彼は、しばらく黙っていた。
長い、長い沈黙のあとで。
「……私は」
彼は、ぽつりとこぼした。
「若い頃にたった一人、大切な人を喪った。それから、誰も愛さず、誰にも愛されまいと、心を決めた。感情を殺して、ただ国に尽くしてきた」
夕日が、彼の、白いものの混じった髪を赤く染めていた。
「この歳まで、誰にも必要とされず、生きてきた。今さら、幸せなど──私には分不相応だと、そう思っていた」
──ぶちっ。
私の中で、何かが切れた。
「分不相応なんかじゃありませんっ!!」
気づけば、私は叫んでいた。
令嬢が、宰相に向かって絶叫である。
「あなたは、誰よりも愛されていい人です! 幸せになっていい人です! わたしが保証します! だって、わたしは──!」
言ってしまえ。もう、いい。
「わたしは、あなたのいちばんのファンなんですからっ!!」
応接間が、しん、となった。
……あ。
やってしまった。
最推しを前に、オタクの本性がダダ漏れてしまった。穴があったら入りたい。掘ってでも入りたい。
ところが。
ディートハルトは。
あの、冷酷と恐れられた、誰にも心を開かなかった男は。
ふ、と。
笑った、のだ。
今まで見た、どんな立ち絵にもなかった。本当に、やわらかい顔で。
「……ファン、か」
彼は立ち上がり、私の前に来て、そっと私の手を取った。
「妙な娘だ。本当に」
手。手を。握られて。待って。供給。供給が、過ぎる。
「だが──そうだな。あなたに、これほど想ってもらえるのなら」
彼の瞳が、夕日の中で、やわらかく細められた。
「私を幸せにする責任は──あなたにあるな。オクタヴィア」
……は。
はい?
いま、なんと?
陰で支える、ただのファンでいるつもりだった。推しが幸せになってくれれば、それでよかった。私が隣に立つなんて。畏れ多くて、考えたこともなかった。
なのに。
最推しが。いま。私の手を握って。
報われなかった、私の手を。
ゲームでは、誰にも看取られず、一人で死ぬはずだった人が。
今、確かに、誰かを愛そうとしている。
私を。
「……っ、せ、責任、とらせていただきます……っ」
涙で、ぐしゃぐしゃになりながら。私は、そう答えるのが精一杯だった。
あの夜会で、遠くから、ただ拝むことしかできなかった人が。
今、私の、すぐ目の前で、私の手を握っている。
ああ。
たどり着いた。
幻の、トゥルーエンドに。
報われなかった、最推しが。報われなかった、わたしが。二人とも幸せになる、ただ一つの結末に。
──ちなみに。
そのトゥルーエンドで、彼を幸せにする相手が、まさか、この私だったなんて。
そんな結末、攻略本のどこにも書いていなかったの、だけれど。




