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断罪された悪役令嬢ですが、最推しのいけおじ宰相をトゥルーエンドに連れて行くので、ざまぁは片手間です

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/27

「オクタヴィア・レーンフェルト! お前との婚約を破棄する!」


 夜会の真ん中で、婚約者であるルーファス王子が高らかにそう叫んだ。


「お前は聖女を妬み、陰でいじめ抜いた! そのような女、私の妻にはふさわしくない! 罪を償ってもらうぞ!」


 会場が静まり返る。


 数百の視線がいっせいに私へと突き刺さった。あらあらまあまあという囁きが、さざ波のように広がっていく。


 婚約破棄。断罪。悪役令嬢のお決まりの末路。


 ──で、ですよね。来ましたわ。とうとう来てしまいましたわ。


 私はぎゅっと両手を握りしめた。


 ちなみに聖女いじめなんてただの一度もしていない。完全な、純度百パーセントの濡れ衣である。


 けれど、そんなことはどうでもよかった。


 なぜなら。


「裁定を宰相に委ねる! ディートハルト宰相、前へ!」


 ──きた。


 来てしまった。


 会場の奥から、ゆっくりと一人の男が歩み出てくる。


 白いものの混じった黒髪を後ろへ撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥に、底の知れない静かな瞳。年の頃は四十半ば。若い攻略対象たちの華やかさとはまるで無縁の、鋼のように冷たく、それでいて滲み出るような落ち着きと、色気。


 ディートハルト・アッシェンバルト宰相。


 この国でもっとも恐れられ、もっとも冷酷と噂される男。


 そして──私の最推しである。


 ぶわっ、と全身の血が沸いた。


(ほ……っ、本物だああああああっ!!)


 内心、私は絶叫していた。


 生ディートハルト。実物。動いてる。喋ってる。歩いてる。ありがとうございます。ありがとうございます。


 ああ、その隙のない歩き方。誰にも心を許さない、あの凪いだ目。書類を捌くときの長い指。ぜんぶ解釈一致。むしろ解釈を超えてきている。生きていてよかった。二回目の人生だけど。


 ディートハルトは私の前に立つと、ルーファスへ静かに向き直った。


「殿下。この令嬢が聖女をいじめたという証拠は」


「しょ、証拠だと? そんなもの見れば分かるだろう! この女の、底意地の悪そうな顔を見れば!」


「顔は証拠になりません」


 ばっさりとディートハルトは切り捨てた。


「証言も物証も日時も場所も──何ひとつ示されておりませぬ。証なくして人を罪に問うは、法の埒外」


「な……っ」


「レーンフェルト嬢の沙汰は追って下します。それまで罪人と決めつけることはまかりならん。──これは、裁定です」


 ……っ、かっこいい。


 私は不謹慎にもうっとりしてしまった。


 感情論で吊し上げようとする王子を、たった数言でぴしゃりと黙らせる。証拠がなければ裁かない。流されない。ぶれない。


 ああ、そうだ。これだ。これが私の好きなディートハルトだ。冷たいって言われるけど、本当は誰よりも公正な人。


 婚約は破棄された。私の身は宙吊りになった。


 でも、構わない。


 だって、推しが。私の最推しが、目の前で、私を断罪から守ってくれたのだから。


 その彼が、ふと、私を見た。


 糾弾されてなお、なぜか頬を染めてうっとりしている令嬢を、訝しげに。


 ああ、その不可解なものを見る目も最高ですわ。家宝にします。



   ◇ ◇ ◇



 少し話を整理させてほしい。


 私、オクタヴィア・レーンフェルトには前世の記憶がある。


 前世の私は、どこにでもいるしがない会社員だった。


 真面目だけが取り柄で、誰よりも早く出社して、誰よりも遅くまで残って、頼まれた仕事は断らなかった。


 なのに。


 手柄はいつも要領のいい同僚に持っていかれた。失敗の責任だけがなぜか私に回ってきた。どれだけ尽くしても、誰も私を見てはくれなかった。


 すり減って、すり減って。ある日、心がぽきりと折れた。


 布団から出られなくなった。


 そんな真っ暗な日々の中で、たった一つ、私を生かしてくれたものがある。


 乙女ゲーム。『恋する常春の宮廷』。


 一年中、春のように暖かい国を舞台にした、古い、けれど名作と名高い一本。私は布団の中で、それを何度も何度も繰り返しプレイした。すり切れるほどに。


 攻略対象は五人。王子、騎士団長、近衛、文官、神官。みんな、きらきらの美形だ。


 でも、私が好きになったのは、その五人の誰でもなかった。


 攻略対象ですらなかった。


 宰相、ディートハルト・アッシェンバルト。


 ゲームでは悪役令嬢を断罪し、ときにヒロインの前に立ちはだかる、冷たい脇役。攻略不可。専用ルートなし。立ち絵すら、わずか数枚。


 でも、私は彼が好きだった。狂おしいほど好きだった。


 なぜなら、彼ほど報われないキャラはいなかったから。


 設定資料で語られる、彼の過去。若き日にたった一人愛した人を喪い、それから感情を殺して国に尽くしてきたこと。誰にも理解されず、冷酷と恐れられ、その有能さで国を支えながら、手柄はすべて王家に持っていかれること。


 ……ねえ、それ。


 それ、前世の私じゃないか。


 尽くしても報われない。見てもらえない。ぜんぶ、誰かに持っていかれる。


 私は彼に自分を重ねた。


 そして、どのルートを選んでも、彼は最後、誰にも看取られず、たった一人で死ぬ。


 幸せになるエンドが、一つもない。


 私はそのたびに布団の中で泣いた。報われなかった彼を、何度も何度も看取った。


 せめて。せめて、この人だけは報われてほしかった。


 報われなかった、私の代わりに。


 ただ一つだけ、噂があった。


 誰も解法の分からない、幻の隠しエンド。 そこでだけ、ディートハルトが報われるという。


 でも私は、ついぞ辿り着けなかった。何周しても条件すら分からなかった。攻略本にも載っていなかった。


 そして、私は。


 その隠しエンドに辿り着けないまま、ある朝、過労で倒れて──そのまま、死んだ。


 ────だから。


 転生して、この世界に来て、彼が実在すると知ったとき。私は誓った。


 今度こそ。今度こそ、私があの人を幸せにする。


 幻のトゥルーエンドに、辿り着いてみせる。


 報われなかった彼を。報われなかった私を。今度こそ報わせてやるんだ。


 それが、二度目の人生をもらった、私の使命だ。


 ただ私はトゥルーエンドがあることは知っているが、どうすれば辿り着けるかは知らない。


 完全に、手探りである。


 しかも、もっと恐ろしいことに、このゲームには最悪の分岐がある。


 ディートハルトが無実の罪を着せられ、失脚し、破滅する。そういう筋書きが存在する。


 彼が、誰にも信じてもらえないまま、すべてを奪われて終わる。


 それだけは。それだけは、何としても避けなければならない。


 幸い──いや、幸いと言っていいのか分からないが。


 私は今、断罪を保留された、執行猶予の身だ。罪人と決まったわけではないが、無実が晴れたわけでもない。宙吊り。


 放っておけば、いずれ証拠がでっち上げられて、私は断罪される。猶予は長くは続かない。


 だったら。


 その猶予のあるうちに。


 黒幕を暴いて、自分の潔白を示して、ついでに──いや、ついでじゃない。本命だ。最推しを破滅から救って、トゥルーエンドに辿り着く。


 タイムリミットは、そう長くない。


 さあ。やってやろうじゃないの。



   ◇ ◇ ◇



 まず私が疑ったのは、聖女だった。


 婚約破棄の発端。私を断罪に追い込んだ女。怪しい。どう考えても怪しい。


 というわけで、私は聖女をお茶に誘い出した。


 ……正直に言う。会う前は警戒していた。腹の探り合いになるだろうと身構えていた。


 ところが。


 現れた聖女は、私の顔を見るなり、ぼろぼろと泣き出した。


「オクタヴィア様……っ! わ、わたし、ずっと謝りたくて……っ!」


「は……?」


「わたし、あなたが断罪されるなんて望んでいませんでしたっ……! ルーファス様が勝手に、わたしのために、って……! 止めようとしたんですけど、わたしの言うことなんて聞いてくださらなくて……っ!」


 ずびずびと鼻をすすりながら、聖女は言い募った。


「わたし、田舎の生まれで、こんな宮廷のこと、なにも分からなくて……っ。気づいたら、あなたが悪者にされていて……。わたしのせいです、本当に、ごめんなさい……っ!」


 ……えーと。


 私はしばし固まった。


 これは。


 嘘をついている目では、ない。


 私を陥れる気も、ディートハルトを害する気も、これっぽっちもない。ただ純粋に、王子に見初められて、流されて、おろおろしているだけの、善良な、田舎の娘。


 はい。見当違いでしたー。


 私は心の中で自分の頬を引っぱたいた。推しを救うどころか、無実の女の子を疑うとは。オタク、失格である。


「……いえ。あなたは悪くないわ」


 私はハンカチを差し出しながらそう言った。聖女は、ふぇぇ、と泣きながらそれを受け取った。なんだ、この子。可愛いな。妹にしたい。


 だが──このとき。


 私の脳内に、ばちっ、と電流が走った。


 待て。待て、落ち着け、オクタヴィア。


 このゲームで、全ルートを通して、最後まで幸せに生き残るキャラは──たった二人だけだ。


 一人は、ヒロインである聖女。これはいい。ヒロインだから当然だ。


 そして、もう一人。


 いつもするりと責任を逃れ、どのルートでも、なぜか美味しいところだけを持っていく女。


 ……聖女がシロ。


 なら。


 消去法で、黒幕は──あいつしかいない。


 全ルートで幸せに生き残る、もう一人のあの女。



   ◇ ◇ ◇



 その女のことを、ここでは黒幕と呼ぶ。


 名前を出すのも惜しい。とにかく、世渡りだけは天才的にうまい女だった。


 誰にでも取り入り、誰かが失敗すれば素早く責任をなすりつけ、おいしい話には真っ先に飛びつき、いつのまにか一番得をしている。


 そして、ゲームのどのルートを見ても──この女だけは絶対に罰されない。最後まで、ぬくぬくと幸せに生き残る。


 今回もそうだ。


 ルーファス王子を裏で焚きつけ、私を断罪させたのも、この女。


 そして、私が前世の知識で知っている、最悪の筋書き。


 この女が、ディートハルトに濡れ衣を着せ、失脚させる。


 ……そして、それを確かめるように。


 宮廷から、不穏な噂が流れてきた。


 ディートハルト宰相に、横領の疑いがかけられた、と。



   ◇ ◇ ◇



 来た。来てしまった。


 ディートハルトの裁きは近いという。猶予はない。


 私はその夜、屋敷で、必死に頭をひねった。


 あの女をどうにかしなければ。でも──相手は全ルートで絶対に勝つ女だ。正攻法では逆立ちしても勝てない。証拠を掴もうとすれば握り潰され、訴え出れば、するりと逃げて返り討ち。


 負けない女。チートみたいな女。


 ……でも。


 待てよ。


 あの女は勝ち続けている。一度も負けたことがない。


 罠にかかったことがない。裏切られたことがない。痛い目を見たことが、ただの一度もない。


 だから──きっと、警戒の仕方を知らない。


 いつも美味しい話が向こうから転がり込んでくる人生だ。裏があるかもしれないなんて、本気で疑ったことがないだろう。


 そして、あの女には、もう一つ、どうしようもない癖がある。


 手柄を、自分のものにしたがる。


 誰かが成したことでも、おいしい成果はぜんぶ自分がやったと、しゃしゃり出てかっさらう。


 ……見えた。


 勝ち筋が見えた。


 あの女を引きずり出すには、あの女自身のその性根を、餌にすればいい。


 私は一晩かけて、筋書きを組み上げた。



   ◇ ◇ ◇



 翌日。私は協力者を集めにかかった。


 まず、元婚約者であるルーファス王子。


 婚約を切られた身ではあるが、執行猶予中の令嬢が申し開きをしたい、と言えば、面会は断られなかった。


 通された一室で、ルーファスは腕を組んでふんぞり返っていた。


「なんだ。今さら、許しでも乞いに来たか」


「いいえ。一つお伝えしに来ました。──殿下をずっと利用してきた者がいます」


 私はまっすぐに彼を見た。


「私を断罪しろとしつこく殿下に勧めたのも。聖女様を殿下にあてがったのも。あの女ですね。そして今、宰相どのに濡れ衣を着せようとしている。ぜんぶ、同じ女の仕業です」


 ルーファスの眉が、ぴくり、と動いた。彼も薄々感じていたのだろう。


 しばらく、彼は黙っていた。やがて、ぎり、と奥歯を噛む音がした。


「……あの女。確かに、やたらと私に取り入ってきた。聖女を勧めたのも、お前を悪く言ったのも、あいつだ」


 ばん、と、ルーファスが机を叩いた。


「私をいいように操っていたというのか。あの女ァッ!」


 うん。釣れた。


 プライドの高い男だ。女一人にいいように使われていたと知って、腹の底が煮えくり返っているのだろう。


「殿下。その悔しさ、晴らしませんか。──手を貸してください」


 ルーファスの目に、ぎらり、と火が点った。


「……話せ。何をすればいい」


 よし。一人。


 それから私は、聖女にもこっそり一役、頼んだ。あの子は「オクタヴィア様のためなら!」と、健気に力こぶを作ってみせた。可愛い。やっぱり妹にしたい。


 二人、確保。


 だが、本命はもう一人いる。


 あの女は、宰相の私室に偽の裏帳簿を仕込ませたはずだ。だが、貴族の女が警備された私室に忍び込めるわけがない。顔が割れている。


 誰かにやらせたのだ。使い捨ての駒に。


 私は聖女の伝手を頼った。田舎娘の彼女には、宮廷の下働きに知り合いが多い。貴族が決して繋がらない、地を這う網の目。


 その網に、かかった。


 金で雇われ、偽の帳簿を書き、宰相の私室へ運んで仕込んだ、当の実行犯。


 「……もう、殺されると思ってた」


 仕事を終えたあと、口封じに夜道で襲われ、命からがら逃げた。それきり、あの女の追手に怯えて生きてきた。


「あの人は、俺のこと道具としか思ってない。用が済めば、消すだけの」


 ……見えた。


 この男は、いつ、どうやって帳簿を私室に運んだかを知っている。そして、あの女を、恨んでいる。


 私は男に、匿うと約束した。かわりに、たった一度でいい、国王の前で真実を話してほしい、と。


 男は長いあいだ俯いて、やがて、ぐ、と拳を握った。


「……あの女に一矢報いられるなら」


 三人、確保。



   ◇ ◇ ◇



 最後は、ディートハルト本人だ。


 彼は今、横領の疑いで、宮廷の一室に留め置かれているという。


 私はルーファスにディートハルト本人と話がしたいと願い出ていた。


 通された、薄暗い一室。ディートハルトは窓辺に座り、静かに外を眺めていた。


「……あなたは。先日のレーンフェルト嬢か」


「宰相どの。この横領は濡れ衣です。仕組んだ者に、心当たりもあります」


 ディートハルトが、わずかに目を細めた。


「あなたは、横領なんてする人じゃない。──毎晩、誰にも知られず、国境の難民の救済を、私財を削ってまで手配していたような人が。手柄にもならないのに。誰にも言わずに」


 ディートハルトの表情が、止まった。


「……なぜ、それを知っている」


 その瞳が、初めて揺れた。


 誰にも言ったことのない、隠し事だったのだろう。


「知っています。あなたが、どれだけこの国に尽くしてきたか。ぜんぶ。──だから、こんなところで終わらせるわけにはいきません」


 ディートハルトは、長いあいだ、私を見つめていた。


 そして、ふ、と目を伏せた。


「……買いかぶりだ。私はもう、いい。長く生きすぎた」


「よくありません! あなたはまだ、何にも報われてない!」


 ディートハルトが、息を呑んだ。


 諦めきっていた、その目に。ほんの少しだけ、温かいものが差した気がした。


 私は声を潜めて、組み上げた筋書きを囁いた。


 あの女が仕込んだ、偽の帳簿。それを運んだ実行犯を、こちらは押さえている。当夜の入室記録と突き合わせれば、あの女の関与を、国王の前で炙り出せる。だが、それは賭けだと、正直に告げた。あの女は、追い詰めても、するりと逃げるかもしれない。失敗すれば、あなたの破滅は早まる、と。


 ディートハルトは、静かに頷いた。


「……妙な娘だ。だが──久しぶりに、誰かを信じてみよう」



   ◇ ◇ ◇



 舞台は整った。


 私はルーファスを通じて、こう宮廷に触れ回らせた。


「宰相ディートハルトの横領を暴いた者には、褒美として、爵位と領地が下される」と。


 あの女が長年、欲しがっていたもの。爵位。領地。


 国王臨席のもと、横領を暴いた「功労者」がその経緯を申し述べ、褒美を賜る──そういう場が設けられた。


 餌は、撒いた。


 あの女は必ず出てくる。手柄と褒美を他の誰かにさらわれるのは、耐えられないから。


 でも、それだけでは詰まない。


 あの女は賢い。この場で口を滑らせるほど、間抜けではない。「調べたら証拠が出た」と、それだけ言って勝ち逃げするだろう。


 だから、逃げ道は先に塞いだ。


 罠は、あの女の言葉ではなく、あの女が消しそこねた生き証人にある。



   ◇ ◇ ◇



 果たして、あの女は、しゃなりしゃなりと進み出た。勝ち誇った笑みを浮かべて。


「宰相の横領を暴きましたのは、このわたくしでございます」


「ほう。して、いかにして暴いた」


 国王が問う。


「……ええ。怪しいと思い、調べさせましたところ、証拠が出てまいりましたの」


 あの女は、それだけ言って、すっ、と口をつぐんだ。


 ……賢い。


 経緯は語らない。「証拠が出た」と、それだけ。墓穴を掘らない、ぎりぎりの線で止めてみせた。


 でも。


 あなたが賢く黙るほど、こちらは静かに詰める。


「──恐れながら」


 私は進み出た。


 ざわ、と場がどよめく。断罪を待つ身の令嬢が、国王の前にまっすぐ立ったのだ。


「……執行猶予中の罪人が何故ここに」


「私が許可した。続けてくれ」


事前に国王にはどうしても嘆願したいことがあるとルーファスから話を通していた


「その証拠の裏帳簿。宰相どのの私室から見つかったものですね」


「……ええ。それが、何か」


「おかしいのです。あの裏帳簿は、宰相どのが書いたものではない。──後から私室に持ち込まれたものです」


 女の、扇を持つ手が、ぴくり、と止まった。


「宰相どのの私室は、常に施錠され、警備兵が立っています。宰相どの不在の夜に、その部屋へ入った者の記録が、残っているはず」


 私は国王を見上げた。


「陛下。どうか、当夜の入室記録をお検めください」


「……よかろう。警備長、記録を持て」


 ほどなく、警備長が帳面を捧げ持ってきた。


「宰相不在の、あの夜。夜半、私室へ人足が一名。荷を運び入れております」


「その者の、名は」


 あの女の顔から笑みが引いた。


「その夜、部屋へ入った者に、直接語ってもらいましょう」


 扉が、開いた。


 入ってきたのは、捨て駒の男だった。


 女の瞳が、大きく見開かれた。


 男は震えながらも、国王の前へ進み、膝をついた。


「……あの帳簿は、俺が書きました。宰相さまの筆跡を真似て。あの夜、俺が引き出しに仕込みました」


「誰の、指図だ」


 男は、ゆっくりと腕を上げ、女を指さした。


「あの、お方です」


 しん、と場が静まり返った。


「な……っ、なんですの、この者は! 顔も知りませんわ! わたくしを陥れるための、下賤な虚言です!」


 ……来た。


 いつもの手だ。他人になすりつけて逃げる。証言だけなら言い逃れられると踏んだのだ。


 でも、今日は記録がある。この男があの夜、確かに私室へ入ったことは、警備長の帳面が裏づけている。虚言では済まない。


 追い詰められた女は、取り繕おうと口を開いた。


 それが、いけなかった。


「そ、その者は、とうに──」


 言いかけて、はっ、と口を噤んだ。


 でも、もう遅い。


「……とうに、なんだ?」


 国王の声が、低く、響いた。


「言うてみよ。その者は、とうに──どうした、と申す」


 女の唇が震えた。


 言えるわけがない。


 「その者は、とうに始末したはず」。


 そう続けようとしたのだ。用済みの駒は消したはずだと。生きて、ここにいるはずがないと。


 顔も知らぬと言った、その口で。


「面白い」


 国王が目を細めた。


「顔も知らぬ者の安否を案じるか。──とうに始末した、とでも言うつもりであったか」


「ち、違……っ」


「その者を、消そうとした。用済みの口を。──それだけの繋がりが、あったということだ。セラフィーナよ」


 あの女は、口をぱくぱくとさせた。


 ……セラフィーナ。


 そう。この女にも、ちゃんと名前がある。

 ディートハルトの政敵の公爵夫人だ

 

 でも私は、ただの一度もその名を呼ばなかった。呼ぶ価値もないと思っていたから。ずっとあの女で十分だった。


 その女が、断罪されるこの瞬間にだけ。国王の口から、名を刻まれた。


 生まれて初めて追い詰められた顔だった。負け方を知らない、無様な顔。


 いつもなら、ここで誰かに罪をなすりつけて逃げるのだろう。


 でも、今日は逃げ場がない。なすりつけようとした男は、生きて目の前にいる。


 ……勝った。


 私は、深く息を吐いた。


 勝ってしまった。最推しの命運を懸けた、大博打に。



   ◇ ◇ ◇



 それから、ことは早かった。


 あの女の悪事が、芋づる式に明らかになった。ディートハルトの横領が捏造だったことも、すぐに証明された。


 彼を糾弾していた貴族たちは、手のひらを返して黙り込んだ。現金なものだ。


 操られていたルーファスは、憑き物が落ちたように大人しくなった。聖女とのことも、これから丸く収まっていくだろう。あの子なら、きっといい王妃になる。


 そして、私の冤罪も晴れた。執行猶予も解かれた。


 セラフィーナは処刑された。彼女の唯一の敗北は死に繋がった


 何より。


 最推しの、破滅する未来が──消えた。


 ずっと閉ざされていた、トゥルーエンドへの扉が。いま、確かに開いた。



   ◇ ◇ ◇



 すべてが片付いた、ある日の夕暮れ。


 ディートハルトが、私の屋敷を訪れた。


 最推しが。私の家に。来た。情報量が多すぎて、心臓がもたない。


「オクタヴィア嬢」


 彼は、いつもの静かな声で、私を見た。


「一つ、聞かせてほしい」


「は、はいっ。なんなりと」


「あなたは、断罪されかけ、宙吊りの身でありながら、命がけで私を救った」


 彼の、底の知れない瞳が、まっすぐに私を射抜く。


「誰も気づかなかった、あの女の企みを、なぜ、あなただけが見抜いた。そして──誰も知らないはずの、私の孤独を。私の労苦を。なぜ、あなたは知っていた」


 ……ばれていたか。


 前世のことは言えない。ゲームのことも、トゥルーエンドのことも、言ったところで信じてもらえまい。


 だから私は、ただ本当のことだけを言った。


「……あなたに、報われてほしかったんです」


 声が震えた。


「あなたはずっと、誰にも分かってもらえないまま、この国を支えてきた。冷たいだなんて言われて、手柄も全部よそに持っていかれて。それでも、文句一つ言わずに。……そんな人が報われないなんて。そんなの、絶対に間違ってます」


 ディートハルトが、わずかに目を見開いた。


「あなたは、誰よりも幸せになっていい人なんです」


 彼は、しばらく黙っていた。


 長い、長い沈黙のあとで。


「……私は」


 彼は、ぽつりとこぼした。


「若い頃にたった一人、大切な人を喪った。それから、誰も愛さず、誰にも愛されまいと、心を決めた。感情を殺して、ただ国に尽くしてきた」


 夕日が、彼の、白いものの混じった髪を赤く染めていた。


「この歳まで、誰にも必要とされず、生きてきた。今さら、幸せなど──私には分不相応だと、そう思っていた」


 ──ぶちっ。


 私の中で、何かが切れた。


「分不相応なんかじゃありませんっ!!」


 気づけば、私は叫んでいた。


 令嬢が、宰相に向かって絶叫である。


「あなたは、誰よりも愛されていい人です! 幸せになっていい人です! わたしが保証します! だって、わたしは──!」


 言ってしまえ。もう、いい。


「わたしは、あなたのいちばんのファンなんですからっ!!」


 応接間が、しん、となった。


 ……あ。


 やってしまった。


 最推しを前に、オタクの本性がダダ漏れてしまった。穴があったら入りたい。掘ってでも入りたい。


 ところが。


 ディートハルトは。


 あの、冷酷と恐れられた、誰にも心を開かなかった男は。


 ふ、と。


 笑った、のだ。


 今まで見た、どんな立ち絵にもなかった。本当に、やわらかい顔で。


「……ファン、か」


 彼は立ち上がり、私の前に来て、そっと私の手を取った。


「妙な娘だ。本当に」


 手。手を。握られて。待って。供給。供給が、過ぎる。


「だが──そうだな。あなたに、これほど想ってもらえるのなら」


 彼の瞳が、夕日の中で、やわらかく細められた。


「私を幸せにする責任は──あなたにあるな。オクタヴィア」


 ……は。


 はい?


 いま、なんと?


 陰で支える、ただのファンでいるつもりだった。推しが幸せになってくれれば、それでよかった。私が隣に立つなんて。畏れ多くて、考えたこともなかった。


 なのに。


 最推しが。いま。私の手を握って。


 報われなかった、私の手を。


 ゲームでは、誰にも看取られず、一人で死ぬはずだった人が。


 今、確かに、誰かを愛そうとしている。


 私を。


「……っ、せ、責任、とらせていただきます……っ」


 涙で、ぐしゃぐしゃになりながら。私は、そう答えるのが精一杯だった。


 あの夜会で、遠くから、ただ拝むことしかできなかった人が。


 今、私の、すぐ目の前で、私の手を握っている。


 ああ。


 たどり着いた。


 幻の、トゥルーエンドに。


 報われなかった、最推しが。報われなかった、わたしが。二人とも幸せになる、ただ一つの結末に。


 ──ちなみに。


 そのトゥルーエンドで、彼を幸せにする相手が、まさか、この私だったなんて。


 そんな結末、攻略本のどこにも書いていなかったの、だけれど。


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