第7話
夜明けと共に、リアム様は行動を開始した。
その動きは、迅速かつ、大胆不敵だった。
「行くぞ、セレスティア。すべての真実を、愚か者たちに突きつけに行く」
彼は、私の手を強く握りしめた。その力強さに、私はこくりと頷く。
もう、一人ではない。
彼がいる。それだけで、どんな困難にも立ち向かえる気がした。
ナイトレイ公爵家の紋章を掲げた馬車は、夜明け前の静かな王都を、真っ直ぐに王城へと向かった。
城門の衛兵たちが、公爵のただならぬ気配に気圧され、慌てて道を開ける。
私たちが向かったのは、玉座の間だった。
早朝にもかかわらず、そこには国王陛下と、アルフォンス殿下、そして側近たちが集められていた。
原因不明の厄災続きに、連日、対策会議が開かれているのだ。
「何の騒ぎだ、ナイトレイ公爵!」
玉座の間への乱入者を咎める宰相の声を、リアム様は冷たく一蹴した。
「緊急事態につき、ご容赦を。この国の存亡に関わる、重大なご報告がございます」
彼の言葉に、その場にいた誰もが息を呑む。
リアム様は、国王陛下の前に進み出ると、厳かに膝をついた。私も、その隣に並んで、深く頭を下げる。
「陛下。今、この国を襲っている数々の厄災の真の原因……それは、我が国を守護する大結界が、崩壊の危機にあるためです」
「な、なんだと……!?」
国王が驚愕の声を上げる。
リアム様は、そこで初めて、私の存在を皆に示した。
「そして、その大結界を、これまでただ一人、その身を賭して支え続けてこられたのが、ここにいる、セレスティア・フォン・クラウゼル嬢、その人なのでございます」
しん、と玉座の間が静まり返る。
誰もが、信じられないという表情で、私とリアム様を交互に見ていた。
一番、動揺していたのは、アルフォンス殿下だった。
「馬鹿なことを言うな! こいつは、魔力の一つも持たない『出来損ない』だぞ! そんな女に、国が守れるものか!」
その声は、ひどく上擦っていた。
自らが切り捨てた女が、実は国の守護者だったなど、到底、受け入れられるはずもないのだろう。
フローラも、真っ青な顔で、わなわなと震えている。
リアム様は、ゆっくりと立ち上がると、アルフォンス殿下を、凍てつくような視線で見据えた。
「殿下。貴方様が『出来損ない』と蔑み、その婚約を無慈悲に破棄された、その瞬間から、この国の崩壊は始まったのです。彼女が王太子妃という立場を失ったことで、結界は大きくその力を失った」
彼の言葉は、もはや告発だった。
国王の顔色が変わる。
「では、あの『声なし』も……」
「はい。彼女が声を発することができないのは、その力のすべてを結界の維持に注ぎ込んでいるがゆえ。彼女は、自らの声を犠牲にして、我々を、この国を守ってくださっていたのです!」
リアム様の声が、糾弾の響きを帯びて玉座の間にこだまする。
もう、誰も笑う者はいなかった。
侮蔑の視線は、驚愕と、そして、畏怖へと変わっていく。
「そ、そんな……そんな話、にわかには信じられん!」
アルフォンス殿下が、なおも悪あがきのように叫ぶ。
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
城全体が、不気味な地響きと共に、激しく揺れた。
壁にかけられたタペストリーが大きく揺れ、天井の巨大な魔法のシャンデリアが、きしむ音を立てる。
窓の外が、急速に、闇に覆われていくのが見えた。
まるで、日食のように、太陽の光が失われていく。
「何事だ!?」
「報告! 王都の北、西、南の三方から、大規模な魔物の軍勢が接近中! その数、およそ……計測不能!」
血相を変えた伝令騎士が、玉座の間に転がり込んできた。
「そ、そんな馬鹿な……王都の周囲には、強力な防御結界が……!」
狼狽する大臣の言葉を、リアム様が冷たく遮る。
「その結界は、今、まさに、機能を停止しようとしています。……セレスティア嬢の力が、限界に達したからです」
その言葉通り、私の体は、もう立っているのがやっとだった。
結界の維持から完全に手を離し、もはや魔力の制御もままならない。
口の端から、血の味がした。
「信じられぬと言うのなら、その目でご覧になるといい。貴方様方が、これまで、いかに尊い犠牲の上で、偽りの平和を享受してきたのかを」
リアム様が言い放った瞬間、玉座の間の巨大なステンドグラスが、けたたましい音を立てて、粉々に砕け散った!
そこから、翼を持つ魔物、ガーゴイルの群れが、雪崩のように飛び込んでくる。
騎士たちの悲鳴と、貴族たちの絶叫が、阿鼻叫喚の地獄絵図を描き出した。
これが、現実。
これが、セレスティアという一人の少女の犠牲の上に成り立っていた、この国の、真の姿だった。
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砕け散ったステンドグラスの向こうには、絶望的な光景が広がっていた。
暗雲が渦巻く空を、無数の魔物が黒い川のように覆い尽くしている。
王都の街からは、黒煙が上がり、人々の悲鳴が、地獄の叫びのようにここまで届いてきていた。
「ひっ……!」
「た、助けてくれぇ!」
玉座の間は、パニックに陥った。
腰を抜かす大臣、泣き叫ぶ貴婦人たち。
アルフォンス殿下は、目の前の現実が信じられないとでも言うように、ただ呆然と立ち尽くしている。
「フローラ! お前の魔法で、魔物を蹴散らせ!」
我に返った国王が、娘の名を叫んだ。
しかし、フローラは、血の気の引いた顔で首を横に振るだけだった。
「む、無理です、お父様……! こんな数、わたくしの魔法では……!」
彼女の華麗な攻撃魔法は、あくまでもショーのためのもの。
本物の、命のやり取りを前にして、彼女は恐怖に足がすくみ、一歩も動けなくなっていた。
「くそっ! 役立たずめ!」
その時、アルフォンス殿下が剣を抜き、ガーゴイルの一匹に斬りかかった。
しかし、彼の剣は、ガーゴイルの石のように硬い皮膚に、かん、と甲高い音を立てて弾かれてしまう。
体勢を崩した彼に、別のガーゴイルが、鋭い爪を振り下ろした。
「殿下!」
その身を庇ったのは、リアム様だった。
彼は、いつの間にか抜いていた剣で、その一撃を受け止める。
火花が散り、凄ま-じい衝撃に、リアム様の足が、大理石の床を数寸、滑った。
「ぐっ……!」
「リアム、様……!」
私は、彼の名を叫ぼうとして、激しく咳き込んだ。
口から溢れた血が、ドレスの胸元を赤く汚す。
もう、限界だった。意識が、遠のいていく。
(ごめんなさい……リアム様……皆を、守れなかった……)
膝から崩れ落ちそうになった、その体を、力強い腕が背後から支えてくれた。
「セレスティア! しっかりしろ!」
リアム様だった。
彼は、私を庇いながら、次々と襲い来る魔物を、神業のような剣技で捌いていく。
けれど、きりがない。彼の体力も、無限ではないのだ。
「諦めるな、セレスティア。君は、一人じゃない」
彼の声が、すぐ耳元で聞こえる。
彼の背中から伝わってくる、温もり。
その時、私の左腕にはめられた、母の形見の腕輪が、カッと、まばゆい光を放った。
そして、それは、リアム様の体からも放たれている、淡い青色の光と、共鳴するように結びついていく。
「これは……!?」
リアム様も、自らの体に起きている変化に気づき、驚きの声を上げた。
彼の心の声が、今まで以上に鮮明に、私の魂に直接流れ込んでくる。
それは、私を案じる、彼の純粋な想い。
『死なせはしない。絶対に、君を守り抜く』
その想いが、枯れ果てたはずの私の魔力に、再び火を灯していく。
違う。
これは、私の魔力じゃない。
リアム様の、生命力そのものが、私の中に流れ込んできているのだ。
そして、私の魔力もまた、彼の中へと流れ込んでいく。
「……そうか。ナイトレイ家に伝わる『心の声を聞く力』……その本質は、他者の魂と深く共鳴し、力を分かち合うことにあったのか……!」
リアム様の言葉に、私は、はっとする。
お母様の最後の言葉が、再び脳裏に蘇る。
『いつか必ず、あなたの心の声を聞いてくれる人が、現れるわ』
お母様は、すべて、分かっていたのだ。
私が、いつか、この運命の相手と出会うことを。
私と彼が出会うことで、この国の本当の夜明けが訪れることを。
「セレスティア……今なら、分かる。君の、声にならない心の声が」
『リアム様……!』
声ではない。魂の、対話。
私たちは、言葉を交わすことなく、互いのすべてを理解し合った。
「行こう。二人で、この国を……俺たちの未来を、守るんだ!」
『はい!』
私は、彼の手を強く握り返した。
二人分の、いや、それ以上の力が、体中に満ち溢れてくる。
私たちは、手を取り合ったまま、玉座の間の中心へと歩み出た。
襲い来る魔物たちが、私とリアム様から放たれる、あまりにも神々しい光の奔流に、怯んだように後ずさる。
私は、ゆっくりと、天に手を掲げた。
生まれて初めて、声を発することを、自分に許す。
「──光よ」
それは、鈴を転がすような、けれど、誰もがひれ伏すほどの、荘厳な響きを持つ声だった。
私の声に応えるように、天蓋が吹き飛び、王城の屋根が消失する。
そして、暗雲に覆われた空から、一本の、巨大な光の柱が、まっすぐに、この玉座の間へと降り注いだ。
光は、慈悲深い浄化の雨となり、王都全域に降り注ぐ。
光に触れた魔物たちは、次々と悲鳴を上げて、塵となって消滅していった。
渦巻いていた暗雲は晴れ、失われたはずの太陽の光が、再び、この大地を照らし出す。
偽りの平和の終わり。
そして、真実の夜明けが、訪れた瞬間だった。




