第6話
ナイトレイ公爵家の客室は、暖炉の炎がぱちぱちと静かに爆ぜる音だけが響いていた。
窓の外は、もうすっかり夜の闇に沈んでいる。
私は、リアム様の瞳をまっすぐに見つめ返した。もう、この人から目を逸らしてはいけない。そう、魂が告げていた。
震える指先で、ベッドサイドに置かれていた羊皮紙とペンを取る。
インク壺の蓋を開ける、小さな音さえも、この静寂の中ではやけに大きく聞こえた。
何から、書けばいいのだろう。
あまりにも長すぎる年月、一人で抱え込んできた秘密。その重さに、ペンを持つ手が再び震え出す。
その手に、リア-ム様の大きな手が、そっと重ねられた。
「……焦らなくていい。君のペースで」
温かい、感触。
彼の心の声が、言葉になるよりも早く、私の心に流れ込んでくるようだった。
『大丈夫だ。俺が、すべて受け止める』
その無言の励ましに後押しされ、私は、ゆっくりと、けれど、もう迷うことなく、ペンを走らせ始めた。
『わたくしの家、クラウゼル公爵家には、代々伝わる使命がございます』
『それは、自らの魔力と生命を糧として、この国を魔物の脅威から守る、大結界を維持し続けること』
書きながら、今は亡きお母様のことを思い出す。
優しい笑顔の裏で、彼女がどれほどの痛みに耐えていたのか。幼い私には、知る由もなかった。
『母が亡くなった後、その役目はわたくしが受け継ぎました。けれど、まだ幼かったわたくしの魔力はあまりに強大で、不安定でした。その力を制御するため、わたくしは……声と引き換えに、すべての魔力を結界に注ぐことを、自らに課したのです』
声が出ないのも、魔力がないように見えるのも、すべてそのため。
『声なし』『出来損ない』という罵倒は、私がこの国を守れている証でもあった。
甘んじて、受け入れてきたつもりだった。けれど……。
ペンが止まる。
あの婚約破棄の夜の、屈辱。市場で投げつけられた、石つぶて。
思い出そうとしなくても、心の傷は、生々しい痛みを訴えてくる。
リアム様は、黙って私の言葉を待ってくれていた。彼の静かな眼差しが、まるで「話してくれ」と促してくれているようだった。
『アルフォンス殿下との婚約は、皇太子妃という立場から、より強固に結界を維持するためのものでした。けれど……婚約を破棄されたことで、王家からの魔力供給が途絶え、わたくし一人の力では、綻びを塞ぎきれなくなってしまったのです』
凶作も、魔物の活発化も、王都への侵入も。
すべては、私の力が足りなかったせいなのだと。
書き終えた羊皮紙を、彼に差し出す。
それは、私の魂の告白にも等しかった。
リアム様は、食い入るように、そこに綴られた文字を追っていく。
彼の表情は、まるで氷の仮面を被ったかのように、動かない。けれど、彼の瞳の奥で、激しい感情の嵐が吹き荒れているのが、私には分かった。
驚愕、怒り、そして……深い、深い痛み。
「……そうか。そういうことだったのか」
絞り出すような、低い声。
彼はゆっくりと顔を上げ、その手で、私の頬にそっと触れた。
その指先が、わずかに震えている。
「今まで、ずっと……一人で、そんな重荷を……」
彼の心の声が、嵐のように私の心になだれ込んでくる。
それは、私への憐憫ではなかった。
私の痛みを、まるで自分の痛みであるかのように感じ、私の孤独に、心の底から寄り添おうとしてくれる、魂の慟哭だった。
『信じられないだろう。一国の安寧が、か弱い君一人の肩に懸かっていたなど……』
『なぜ、誰も気づかなかった。なぜ、俺は、もっと早く気づいてやれなかったんだ……!』
『許せない。君を蔑み、傷つけた、あの愚かな連中を。そして、君にこれほどの犠牲を強いてきた、この国の理不尽な宿命そのものを……!』
心の声が聞こえる能力は、彼にとって呪いだったはずだ。
人の醜い本音ばかりが聞こえる世界は、どれほど地獄だっただろう。
けれど今、その力は、誰にも理解されることのなかった、私の声なき心の叫びを、確かに受け止めてくれていた。
「セレスティア」
初めて、彼は、私の名を呼んだ。
その響きは、まるで長年探し求めていた宝物を見つけ出したかのような、慈しみに満ちていた。
「もう、君を一人にはしない。これからは、俺が君を守る。君のその重荷を、半分、いや……すべて俺が背負う」
それは、誓いの言葉だった。
彼の瞳には、氷を溶かすほどの、燃えるような決意の炎が宿っている。
私の頬を、涙が、とめどなく流れ落ちた。
けれど、それはもう、悲しみや悔しさの涙ではなかった。
生まれて初めて、誰かに本当の意味で理解してもらえた、温かい、喜びの涙だった。
私は、彼の胸に顔をうずめ、子供のように声を殺して泣いた。
リアム様は、そんな私の背中を、ただ黙って、優しく、何度も何度も撫で続けてくれた。
その夜、私たちは、夜が明けるまで、ただ寄り添い合っていた。




