第5話
夜会からの帰り道は、ひどく長く感じられた。
リアム様の温もりがまだ残る手を、もう片方の手でぎゅっと握りしめる。
彼に真実を打ち明けるべきか、それとも、このまま一人で使命を抱え続けるべきか。
答えの出ない問いが、私の頭の中をぐるぐると回り続けていた。
公爵家の紋章が入った馬車が、王都の石畳を駆けていく。
街灯の光が、等間隔に窓の外を流れ、私の顔を照らしては、また闇の中に消していく。
その単調な光景が、突然、終わりを告げた。
「ヒヒーンッ!」
馬の甲高い嘶きと、御者の悲鳴。
そして、馬車全体を揺るがす、凄まじい衝撃。
何事かと身構えた瞬間、護衛の騎士が叫ぶ声が聞こえた。
「魔物だ! 影狼の群れだ! 馬車を囲まれている!」
影狼……!
下級のゴブリンとは違う。俊敏で、狡猾な、中級の魔物。
そんなものが、なぜ、王都のこんな中心部にまで……!
結界の綻びは、もはや私の想像を遥かに超えて、深刻な状態になっているのだ。
窓の外では、剣と爪がぶつかり合う、金属音が響き渡る。
しかし、多勢に無勢。騎士たちの苦戦している様子が、伝わってきていた。
(このままでは、皆が……!)
私のせいで、誰かが傷つくことだけは、絶対にあってはならない。
私は覚悟を決めた。
(お母様、お許しください。ほんの一瞬だけ、この力を使わせていただきます)
左腕にはめられた腕輪に、強く、強く祈りを込める。
結界の維持に注ぎ込んでいた魔力の流れを、無理やり、自分の内側へと引き戻す。
全身の血管が逆流するような、激しい苦痛。
けれど、今は、それに耐えるしかなかった。
「……ッ!」
声にならない叫びと共に、私の体から、淡い白銀の光が溢れ出す。
光は、馬車全体を包み込む、薄いドーム状の障壁を形成した。
ガキンッ!
影狼の鋭い爪が障壁に弾かれる、甲高い音が響く。
けれど、こんな即席の魔法、長くはもたない。
力の制御が難しく、障壁がみしみしと音を立てて、ひび割れていく。
魔力を消耗し、くらりと眩暈がした。
もう、だめかもしれない。
そう思った、まさにその瞬間だった。
一陣の風が吹き抜け、月光を反射して煌めく銀色の刃が、影狼の一匹を、闇夜に切り裂いた。
「──リアム、様……!」
声にはならなかったが、私の唇は、確かに彼の名前を形作っていた。
夜会の黒い軍服ではなく、動きやすい軽装に身を包んだ彼が、馬上で剣を構えている。
なぜ、ここに?
私の馬車を、つけてきてくれたのだろうか。
彼の剣技は、まるで舞うように美しく、そして、恐ろしいほどに正確だった。
騎士たちが苦戦していた影狼の群れを、彼はたった一人で、次々と斬り伏せていく。
最後の魔物が断末魔を上げて霧のように消え去ったのを見届けた時、張り詰めていた私の意識の糸は、ぷつりと、切れてしまった。
薄れていく意識の中で、私は夢を見ていた。
幼い日の、お母様との最後の日の夢だ。
病の床に伏したお母様が、私の髪を優しく撫でながら、微笑んでいる。
『ごめんね、セレスティア。あなたに、こんなにも重い宿命を背負わせてしまって』
違うの、お母様。これは、わたくしの誇りです。
そう伝えたいのに、声が出ない。
『この力は、きっと、あなたを孤独にするでしょう。誰も、あなたの苦しみに気づいてはくれないかもしれない。けれどね、覚えておいて。いつか必ず、たった一人でいい。あなたのその、声にならない心の声を、静かに聞いてくれる人が、現れるわ』
お母様の姿が、なぜか、リアム様の姿と重なっていく。
あなたの心の声を聞いてくれる人……。
次に目を覚ました時、私は、見慣れない天井を見上げていた。
天蓋付きの豪奢なベッド。燃え盛る暖炉の火。部屋には、落ち着く香木の匂いが漂っている。
「……気が、ついたか」
そばの椅子に腰掛けていた、リアム様の声だった。
彼の顔には、隠しきれない疲労と、それ以上の安堵の色が浮かんでいる。
「ここは、俺の屋敷だ。君は、あの後、気を失った」
そうだった。私は、魔物に襲われて……。
体を起こそうとすると、リアム様が、そっと肩を押さえて、それを制した。
「今は、動かなくていい」
彼の深い色の瞳が、まっすぐに、私を見つめる。
その瞳には、もう、何の迷いもなかった。
「単刀直入に聞く。セレスティア。君は、一体、何と戦っているんだ?」
あの馬車で、私が魔法を使ったのを、彼は見ていた。
もう、誤魔化すことはできない。
彼の真摯な問いかけが、私の心の奥底にまで、静かに、けれど、確かに届いていた。
亡き母の言葉が、脳裏に蘇る。
──いつか必ず、あなたの心の声を聞いてくれる人が、現れるわ。
その人は、今、目の前にいる、この人なのだろうか。
私は、ゆっくりと、震える手で、彼の手に自分の手を重ねた。
すべてを、話そう。
この人にだけは、私の、本当の声を、聞いてほしい。
そう、決意した瞬間だった




