第4話
リアム様が訪れてから、さらに数週間が過ぎた。
国の異変は、もはや隠しようのないほど、深刻なものとなっていた。
ついに、王都の近郊にまで、下級の魔物であるゴブリンの群れが現れたという知らせが、別邸にいる私の耳にも届いた。
知らせを聞いた騎士団がすぐさま討伐に向かったものの、王都のすぐそばまで魔物が侵入するなど、この百年、一度もなかったことだ。
人々は怯え、宮廷は混乱の極みにあった。
そんな中、私はお父様から、一通の短い手紙で本邸に呼び戻されることになった。
『フローラの婚約披露夜会を執り行う。姉として、お前も必ず出席するように』
その文面からは、私を心配する気持ちなど、ひとかけらも感じられなかった。
狙いは分かっている。
華々しい魔力を持つフローラの隣に、『声なし』で『出来損ない』の姉を立たせることで、アルフォンス殿下の選択がいかに正しかったかを、満天下に知らしめるための、残酷な見世物。
断ることは、許されなかった。
久しぶりに訪れた本邸は、夜会の準備でどこか浮足立っていた。
使用人たちの私を見る目が、以前にも増して冷たくなっている。まるで、家に不幸を持ち込む疫病神でも見るかのように。
夜会当日、私はクローゼットの奥で眠っていた、一番地味な濃紺のドレスに身を包んだ。
妹のフローラは、炎のような真紅のドレスをまとい、その胸元には、アルフォンス殿下から贈られたという大粒のルビーのネックレスが輝いている。
「まあ、お姉様。そんな地味な格好では、まるで夜会に仕える侍女のようだわ」
鏡の前で微笑むフローラの言葉には、棘があった。
私は何も答えず、ただ静かに一礼する。
夜会が始まると、案の定、私は好奇と侮蔑の視線に晒された。
婚約破棄をされた哀れな姉と、その座を射止めた輝かしい妹。これ以上ないほど、分かりやすい対比。
「聞いたか? 先日、王都の近くに現れた魔物を、フローラ様が一撃で仕留められたそうだ」
「なんと、素晴らしい! それに比べて、姉の方は……」
「まさしく、女神と出来損ないだな」
そんな囁きが聞こえてくる。
事実、フローラは得意の攻撃魔法でゴブリンを一体、見物人の前で華麗に焼き払ってみせ、人々から称賛を浴びたらしい。
けれど、それは根本的な解決にはならない。結界の綻びを塞がない限り、魔物は何度でも現れる。
その根本的な原因が、自分にあるという事実が、重く私の肩にのしかかっていた。
その時だった。
アルフォンス殿下が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、フローラと腕を組みながら、私の前に進み出た。
「セレスティア。見ての通り、フローラは国の危機にその身を挺して戦ってくれた。それに比べて、お前は何だ? このような時にも、ただ黙って突っ立っているだけ。まさしく『役立たず』だな」
殿下の言葉に、周囲の貴族たちが同調するように、くすくすと笑う。
心が、凍っていく。
違うのです。わたくしは、この身を削って、今も戦っているのに。
そう叫びだしたい衝動を、奥歯を噛み締めて必死にこらえた。
「その言葉、聞き捨てなりませんな、皇太子殿下」
突然、低く、静かな声が、嘲笑の空気を切り裂いた。
声の主は、いつのまにか私の隣に立っていた、リアム・ナイトレイ公爵だった。
彼の登場に、アルフォンス殿下が、たじろぐのが分かった。
「……ナイトレイ公爵。何の用だ」
「令嬢への無礼、そして不当な侮辱は、一人の騎士として見過ごせません。それに、この国の危機に、本当に『役立っている』のは誰なのか。殿下は、ご自身の目で正しくお見極めになるべきかと」
リアム様の言葉は、静かでありながら、有無を言わせぬほどの威圧感をまとっていた。
彼の視線は、まるで氷の刃のように鋭く、アルフォンス殿下を射抜いている。
殿下は何か言い返そうとしたが、結局、ぐっと言葉に詰まり、フローラと共にその場を去っていった。
嵐が去った後、リアム様は、私に向き直った。
「……行こう」
そう短く告げると、彼は、私の手を、そっと取った。
大きな、節くれだった、騎士の手。
その手が、信じられないほど温かい。
私はなされるがままに、彼に導かれ、息の詰まるような広間を抜け出し、月明かりが差し込む静かなバルコニーへと向かった。
「すまない。君が望まないことだったかもしれん」
私は首を横に振る。
心の底から、感謝していた。あのままあそこにいたら、私はきっと、心の平静を保てなかっただろうから。
「君が、何かを隠し、たった一人で耐え忍んでいることは、分かっている」
月明かりの下、リアム様の瞳が、真剣な光を宿して私を見つめる。
「君が話せないのなら、無理強いはしない。だが、俺は、君の真実を知りたい。君という人間を、信じたいと思っている」
彼の瞳から、言葉よりも雄弁な心の声が、私の心に直接流れ込んでくるようだった。
そこには、嘘も、偽りも、打算も何もない。ただ、ひたむきなまでの誠実さが、溢れていた。
(この人になら……)
初めて、そう思った。
この重い宿命を、打ち明けてもいいのかもしれない、と。
けれど、それは、クラウゼル家に生まれた私の使命を裏切ること。そして何より、彼を危険に巻き込んでしまうかもしれない。
迷いと恐怖が、私の口を開かせなかった。
何も言えない私の頬を、一筋の涙が、静かに伝っていく。
その涙を、リアム様の指が、そっと優しく拭ってくれた。
その夜、私たちは、ただ黙って、欠けていく月を、二人で見上げていた。




