第3話
王都を離れたクラウゼル公爵家の別邸は、静寂そのものだった。
小鳥のさえずりと、風が木々の葉を揺らす音だけが、穏やかな時間の流れを教えてくれる。
けれど、私の心の中は、まるで嵐の前触れのように、一日として凪ぐことはなかった。
「……また、だわ」
ティーカップを手に取った瞬間、指先に、ぞくりと痺れるような微かな振動が走った。
それは大地が揺れるような物理的なものではない。もっと根源的な、世界の均衡が軋む音。
私にしか聞こえない、悲鳴のような響き。
窓の外に目をやると、抜けるように青かった空が、ここ数日、薄い紗をかけたように、どこか色褪せて見える。庭師が丹精込めて手入れしている薔薇たちも、心なしか元気がない。
すべては、綻びの兆候。
私が王太子妃としての公務から外れ、結界の維持に全霊を注げなくなったことで生じ始めた、この国の歪みだった。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
誰にともなく、心の中で謝罪を繰り返す。
この身が引き裂かれるほどの魔力を日々結界に注ぎ込んでも、なお足りない。婚約破棄をされたあの日から、日に日に結界の綻びは大きくなっているのだ。
夜になれば、維持から解放された反動で、力の残滓が悪夢となって私を苛む。
人々が魔物に怯え、泣き叫ぶ夢。この国が闇に沈んでいく夢。
そのたびに、私は自分の無力さを呪いながら、冷たい汗と共に目を覚ますのだった。
そんなある日の午後。
一人の予期せぬ訪問者が、私の静寂を破った。
「リアム・ナイトレイ公爵様が、お見えでございます」
侍女の言葉に、私は読んでいた本のページから顔を上げた。
ナイトレイ公爵様? なぜ、彼がここに?
あの市場での一件以来、顔を合わせてはいない。彼が私のことなど、とうに忘れていると思っていたのに。
客間に通された彼は、やはり黒の軍服に身を包み、窓の外の沈んだ景色を眺めていた。
私が音もなく入室すると、彼はゆっくりとこちらを振り返る。
夜の湖のような瞳が、私をまっすぐに見据えた。
「……突然の訪問、失礼する」
私は首を横に振り、侍女が用意した手帳とペンで、返事を書いた。
『ようこそおいでくださいました、ナイトレイ公爵様。何か、御用でございましょうか』
彼が私の手帳に目を落とす。その時、私の心の内で渦巻いていた不安や罪悪感の奔流を、彼が聞き取ってしまわないかと、心臓がどきりと跳ねた。
彼の能力は、噂でしか知らない。けれど、もし本当なのだとしたら……。
「近隣の騎士団の視察に来た、そのついでだ。……顔色が、優れないようだが」
『お気遣い、痛み入ります。わたくしは元気にしております』
嘘だった。
本当は、今にも張り裂けそうな不安に押しつぶされそうだった。
私の言葉とは裏腹に、ペンを持つ指先が、微かに震えてしまう。
リアム様は、その震えを見逃さなかった。
「そうか。……ならばいいのだが」
彼は一度言葉を切ると、少しだけ声のトーンを落として続けた。
「実は、近頃、不可解なことが続いている。この周辺の領地では原因不明の凶作が報告され、さらに、北の国境付近では、これまで確認されなかった種類の魔物の活動が活発化している」
彼の言葉一つ一つが、見えない棘となって私の胸に突き刺さる。
凶作。魔物の活発化。
すべて、結界の弱体化によって引き起こされた事象だ。大地のマナが乱れ、闇の気が澱み始めている証拠。
ああ、やはり、私のせいで……。
(どうしよう……わたくしが、もっとしっかりしていれば……!)
顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。動揺を悟られまいと俯くが、もう遅い。
「クラウゼル令嬢」
静かに、名前を呼ばれた。
おそるおそる顔を上げると、リアム様は、まるで私のすべてを見通すような、真摯な瞳で私を見つめていた。
「もし、何か知っていることがあるのなら。……いや、もし君が、一人で抱えきれないほどの困難に苛まれているのなら、俺を頼ってほしい」
(──え?)
彼の言葉が、信じられなかった。
心の声が聞こえるがゆえに、誰よりも人間を嫌っているのではなかったのか。
誰もが私を『出来損ない』と遠ざけるのに、なぜ、この人は、私に手を差し伸べようとしてくれるのだろう。
『……わたくしには、公爵様のお力になれるようなことは、何もございません』
そう書くのが、精一杯だった。
これ以上、彼を巻き込むわけにはいかない。これは、私一人で背負うべき宿命なのだから。
私が差し出した手帳を見て、リアム様は、かすかに、本当にごくわずかに、悲しそうな表情を浮かべた気がした。
「……そうか。分かった。だが、覚えておいてほしい。俺は、君の味方だ」
そう言い残して、彼は別邸を去っていった。
一人残された客間で、私は、しばらくの間、動くことができなかった。
彼の言葉が、凍てついていた私の心に、小さな波紋を広げていく。
『君の味方だ』
その言葉が、これほどまでに温かい響きを持つものだと、私はこの時、初めて知ったのだった。
しかし、その温かさは、同時に私の罪悪感を、より一層色濃くさせるだけだった。




