第2話
クラウゼル公爵家の自室に戻っても、安らぎはどこにもなかった。
「我が家の恥だ。しばらくは別邸でおとなしくしていなさい」
屋敷に戻るなり、お父様から投げつけられたのは、労いではなく、冷たい叱責の言葉だった。
夜会の喧騒が嘘のように静まり返った部屋で、私は一人、窓辺の椅子に腰掛けていた。
月明かりが、私の左腕を照らし出す。
そこには、長年使い込まれて細かい傷のついた、銀細工の腕輪がはめられている。派手な宝石もついていない、簡素なデザイン。けれど、これが私にとって、何よりも大切な宝物だった。
そっと指でその冷たい感触をなぞると、遠い日の記憶が蘇る。
あれは、私がまだ五歳だった頃。
この腕輪を貰う前の私は、まだ感情のままに魔力を垂れ流す、ただの幼子だった。その力のあまりの奔流に、声を発することさえ叶わなかったけれど。
その日、ささいなことで癇癪を起こした私の魔力は、初めて暴走した。
私の意思とは無関係に、部屋中の家具がガタガタと震え、窓ガラスは甲高い音を立てて砕け散った。庭の木々がまるで嵐にあったかのようにざわめき、空には暗雲が渦を巻き始める。
制御できない力への恐怖に、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
その時、お母様が駆けつけ、震える私を強く、強く抱きしめてくれた。
「大丈夫よ、セレスティア。あなたの力は呪いじゃない。この国を守るための、祝福の力なの」
その声は、嵐の中でも決して揺るがない、優しい響きを持っていた。
お母様は、自らの魔力と命の一部を注ぎ込んだというこの銀の腕輪を、私の腕にはめてくれた。
「これはお守り。あなたの力を、正しい道へと導いてくれるわ。だから、忘れないで。あなたはその力を、人々を守るために使うのよ」
腕輪が肌に触れた瞬間、荒れ狂っていた魔力が、まるで嘘のようにすうっと静まっていったのを、今でもはっきりと覚えている。
けれど、その代償はあまりに大きかった。
力を使い果たしたお母様は、それから数日後に、私の前から永遠に姿を消してしまったのだ。
(お母様……わたくしは、あの日交わした約束を、今も守っています)
腕輪にそっと口づける。
たとえ誰に蔑まれようとも、この使命だけは、決して手放すことはない。
婚約を破棄されたことの痛みよりも、結界の維持に支障が出なかったことへの安堵の方が、今は大きいのだから。
*
数日後、私は気分転換に、誰にも告げずに屋敷を抜け出した。
深くフードを被り、顔を隠して王都の市場を歩く。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、果物の甘酸っぱい香り、人々の活気ある声。こういう場所にいると、自分が守っているものの大きさを、改めて実感できる。
「わあ、見て! 綺麗なお花!」
一人の小さな女の子が、花屋の店先に駆け寄っていく。その無邪気な笑顔を見ているだけで、私の心も自然と和んでいった。
その時だった。
不意に強い風が吹き、私の顔を隠していたフードが、はらりと後ろにめくれ上がってしまった。
「あっ……」
慌てて被り直そうとしたが、遅かった。
先ほどの女の子の母親が、私の顔を見て、息を呑むのが分かった。
「……『声なし』の……クラウゼル令嬢……?」
その一言が、さざ波のように周囲に広がっていく。
市場の活気が、一瞬にして水を打ったように静かになる。
「呪われた令嬢だわ」
「関わると不幸になるって」
「不吉だ……」
ひそひそと交わされる囁き声が、私の耳に届く。
そして。
「魔女だー!」
幼い子供の甲高い声と共に、小さな石が私の足元にこつんと当たった。
続いて、もう一つ。今度は腕に当たり、鈍い痛みが走る。
投げたのは、先ほどまで無邪気に笑っていた、あの女の子だった。母親の後ろに隠れ、怯えと好奇の入り混じった目で、私を見ている。
(……痛く、ないわ)
自分にそう言い聞かせ、私は何も言わず、フードを深く被り直した。
そして、逃げるようにその場を足早に立ち去る。
背中に向けられる、冷たい視線を感じながら。
人通りのない路地裏に駆け込み、汚れた石壁に手をついて、ようやく浅い息を吐いた。
大丈夫。
この程度のことで、私の決意は揺るがない。
私が耐えることで、あの女の子が、市場の人々が、今日も笑って過ごせるのなら……。
「……大丈夫か?」
不意に、背後から低い声がかけられた。
驚いて振り返ると、そこには、夜会で会った、あの氷の彫像のような人が立っていた。
リアム・ナイトレイ公爵。
彼はいつからそこにいたのだろう。馬車が近くに停まっているのが見える。
もしかして、市場での一部始終を、見られていたのだろうか。
「……」
声が出せない私は、ただ驚きに目を見開いたまま、彼を見つめることしかできない。
恥ずかしさと気まずさで、顔から血の気が引いていくのが分かった。
懐から、いつも持ち歩いている小さな手帳とペンを取り出し、急いで文字を綴る。
『ご心配には及びません、ナイトレイ公爵様』
彼に手帳を見せると、リアム様は私の文字と、私の顔を、じっと見比べた。
彼の深い色の瞳が、何かを問うように、私を射抜いている。
「本当に、そうか?」
静かな、けれど有無を言わせない響きを持つ声。
彼の視線が、私の腕、石が当たってうっすらと赤くなっている場所に注がれていることに気づく。
その瞬間、私の心の奥底、誰にも触れられたことのない場所に、小さな、けれど確かな波紋が広がった。
それは、痛みとは違う、初めて知る種類の、戸惑いという名の波紋だった。




