7 初めての模擬試合
「申し訳ございませんでしたーっ!」
二十分後、王宮魔術師のリズベルさんはソファーの真ん中で頭を下げて言った。
左隣で赤髪ピアスさんが不服そうに視線を逸らし、右隣ではポニーテールさんが頭を下げる先輩を気まずそうに見ていた。
「私としたことが……残業続きで疲れが溜まっていたとはいえ、外部の人と会ってる仕事中に眠ってしまうなんて」
一生の不覚です、と言うリズベルさん。
右隣のポニーテールさんが目をそらす。
その額にはじんわりと汗が滲んでいる。
(黙っておいてあげよう)
静かに思うアリアの隣で、ローレンスさんが言った。
「ポニーテールくん、リズベルが寝てる間に追いマッサージやってもらってたけど」
「なにやっとるかお前ー!」
「すみません! 誘惑に逆らえなくて!」
リズベルさんはぽかぽかとポニーテールさんを叩く。
「私だって追いマッサージお願いしたかったのに! ずるい! ずるいぞ!」
残念な本音が漏れまくっている。
アリアは手帳にペンを走らせた。
〈追いマッサージ、やりましょうか?〉
「………………いえ、仕事中なので」
(今、間があった)
社会人としての責任感と欲望の間で激しい攻防が行われた結果、僅差で責任感が勝ったみたいだった。
「それにしても、見事な魔法でした。難しい無詠唱魔法であそこまで繊細な魔力操作を行うなんて」
リズベルさんは言う。
「振動を発生させている魔法式構造も通常魔法と異なる独創的なものです。たしかにあれなら、通常魔法への完全耐性を持つ聖壁にダメージを与えられる」
一線級の魔術師であるリズベルの卓越した審美眼と言語化能力。
アリアは自らの魔法への客観的な分析を聞いたことがなかった。
ずっと一人で続けてきた魔法。
人から魔法に対するフィードバックをもらったことがなかったからこそ、彼女の言葉がアリアに与えた衝撃は大きかった。
(この人、――めちゃくちゃ褒めてくれる!)
アリアはその分析を、純粋な褒め言葉として解釈した。
がんばってきたことを褒められるのはうれしいことだ。
分析を魔法の向上に活かそうとかは特にせず、ただただ幸せになっていた。
(えへ、へへへへ)
マフラーの下でだらしなくゆるむ口元。
顔の下半分が覆われているため、外からはクール系なアリアだがその内心は三日煮込んだ茄子くらいぐずぐずだった。
「小さな子供だからって褒めすぎでしょう。たかがマッサージの魔法じゃないですか」
赤髪ピアスさんが冷めた声で言った。
「聖壁に亀裂を入れたのもたまたま老朽化で弱くなっていたところを抜いたってだけでしょう。無詠唱魔法が難しいのは認めますが、それも質の高い簡易詠唱魔法が広まっている現代ではほとんど実用性がないですし」
淡々とした言葉に、リズベルさんは低い声で言った。
「君、無詠唱魔法に実用性がないって本気で言ってるの?」
「制御の難しさを考えると、実践的には簡易詠唱魔法の方が優秀です。実用的でないから、現代ではほとんど使われていない。それだけの話じゃないですか」
「ルミナリオ学派の考え方だね。そっか、君は南部出身だったか」
リズベルさんは言う。
「すみません、ローレンスさん。少しアリアさんに力を貸してもらってもいいですか?」
アリアに視線を向けるローレンスさん。
「力を借りたいって。いい?」
アリアはうなずく。
〈わたしでよければ〉
「ありがとう」
リズベルさんは言う。
「ルミナリオ学派の考え方は正しいよ。無詠唱魔法が使える人はほとんどいないし、使えたとしても曲芸みたいな実戦では使えない魔法が多い」
落ち着いた声で続ける。
「安定性に欠けるから、心理的動揺の起きやすい緊急時には使いづらいし、簡易詠唱魔法の方が統計的に言うと勝率は高い。でもね、それはほとんどのケースでそうというだけで例外があるんだ」
「例外?」
「無詠唱魔法を高い精度で使いこなせる魔術師相手だと話はまったく変わってくる」
リズベルさんは言った。
「君は多分、実戦でアリアさんに勝てないよ」
フランベール公爵邸の東側。
芝生が広がる開けた庭の中心で、二人の魔術師が立っている。
一人は赤髪ピアスの王宮魔術師。
そしてもう一人は、揺れる銀色の髪をマフラーでくるんだ小柄な少女だった。
「模擬戦の形式はクラシックスタイルの一撃先取方式、ってこれだとアリアさんはわからないか」
リズベルさんは言う。
「背中合わせに立った状態から、十歩前に歩いたところで止まる。私の合図と共に試合開始。先に攻撃魔法が少しでも身体に当たったら負け。わかったかな?」
どうやら、早撃ちでの決闘みたいな形の試合形式らしい。
「僕の言う通りやれば大丈夫だから」
ローレンスさんの言葉が心強い。
「やってもいいですけど、結果は見えてますよ」
赤髪ピアスさんが冷めた顔で言う。
「俺が子供に負けると本気で言ってるんですか」
「それはやってみればわかる」
リズベルさんが言う。
「両者、開始位置について」
審判は、リズベルさんとポニーテールさんが務めてくれる様子。
後ろから、赤髪ピアスさんの大きな背中が動く感触。
ローレンスさんがアリアにすべきことを教えてくれる。
「前に十歩歩いて」
アリアは言う通り前に十歩歩いた。
「そこで止まって」
アリアは足を止めた。
十メートルほど間隔を開けて、赤髪ピアスの男性魔術師も背を向けたまま静止している。
「試合開始の合図で振り向いて、彼に魔法を放つ。先に攻撃を当てた方が勝ち」
ルールを説明してから、ローレンスさんは小声でアリアに耳打ちした。
「――――」
アドバイスに、アリアは戸惑いつつうなずく。
ローレンスさんがアリアから離れてリズベルさんの隣に立つ。
一人で赤髪ピアスさんに背中を向けて立っている。
心細さはあったけど、それ以上に楽しみな気持ちの方が大きかった。
王宮魔術師と魔法で競い合える。
マフラーの下で思わず口角が上がってしまう。
「両者、準備はいいですか」
リズベルさんの言葉にうなずく。
張り詰めた空気。
吹き抜ける風がアリアの髪を撫でる。
マフラーの中で吐く息が熱を持つ。
アリアは目を閉じる。
試合開始の合図を一瞬でも早く聞き取ることに全神経を集中する。
「――始め!」
リズベルさんの声。
先に動いたのはアリアだった。
声が出せない分、視覚と聴覚に裂くリソースがアリアは普通の人より多い。
生活の中で磨かれた感覚器官が声の振動を素早く感知する。
しかし、それはほんのわずかな差だ。
そして、赤髪ピアスの王宮魔術師はそのわずかな遅れを簡単に取り返せるだけの高い魔法技術を持っている。
無駄のない洗練された動きで描く魔法式。
素早く紡がれる簡易詠唱。
ルミナリオ学派で学んだ高速詠唱の技術。
魔法式から炎の矢が現れる。
《疾駆する炎の――》
赤髪ピアスの王宮魔術師は自信に満ちた目で詠唱を完遂した。
《――にゃ》
空気が凍ったかのような沈黙が流れた。
何も起きなかった。
霧散する魔法式。
自壊する炎の矢。
(今、何が)
赤髪ピアスの王宮魔術師の頭は真っ白になっていたが、それでも攻撃のために最速の魔法を再び起動していた。
一切の無駄がない高速簡易詠唱。
意識を集中して放つ。
《疾駆する炎のにゃ》
沈黙が流れた。
何も起きなかった。
目の前を小さな木の葉が一枚転がっていった。
ぷっと噴き出したのはリズベルとポニーテールの魔術師だった。
「炎のにゃって……にゃって……」
「ダメですよ、先輩。エリオットは真面目にやってるんですから」
「でも、怖い顔で魔法式起動してあんなにかわいい声。無理、耐えられない」
お腹を抱えて笑うリズベルと、堪えようとするが堪えきれずに笑みを零すポニーテールの魔術師。
「俺はたしかに炎の矢と言いました! なのに、口が勝手に――」
赤髪ピアスの魔術師は、はっとした顔でアリアを見た。
磨き上げられた感知能力が漂う魔力の残滓を感じ取る。
「マッサージの魔法で喉を振動させて詠唱の妨害を――」
「簡易詠唱魔法をどれだけ最適化しても、詠唱である以上一節以上の長さが必要になる。対して、無詠唱魔法は一切の詠唱を必要しない」
言ったのはローレンスだった。
「ほんのわずかな差だよ。でも、優秀な魔術師同士の戦いの中ではその差が埋められない大きなものになる。君が起動する最速の魔法を後から妨害して無効化できるほどに、この子の魔法は速い」
無詠唱だからこそ実現できる魔法式起動速度。
見てから反応して、まだ先手を取れる異常な速さ。
優れた観察眼と、妨害すべき詠唱の音節を的確に把握する魔法への深い理解。
マフラーで口元を覆った少女に、経験したことのない異質な何かを感じた赤髪ピアスの魔術師だったが、それでも自らの敗北を受け入れることができなかった。
「勝利条件は攻撃魔法を先に当てることだったはずです。この子は俺に攻撃魔法を当てられていない」
「まだ気づいてないかな」
ローレンスは静かに言った。
「君は既に、氷の中にいるよ」
赤髪ピアスの魔術師は、そこで初めて自分の首から下が巨大な氷に覆われていることに気づいた。
一面に広がる氷の世界。
辺り一帯が凍り付いている。
リズベルとポニーテールの魔術師が唖然とした顔で立ち尽くしていた。
何が起きているのかわからない。
しかし、自分が負けたことははっきりと理解できた。
赤髪ピアスの魔術師は力ない声で言った。
「俺の負けにゃ」
この子、容赦がないと赤髪ピアスは思った。