54 結末
ローレンスさんが何を言っているのかアリアにはわからなかった。
説明して欲しくて。
いつもみたいにわかりやすく教えて欲しくて。
だけど、丁寧に教えられたとしてもアリアはそれを理解することができなかっただろう。
大切な人を失った経験がアリアにはないから。
みんな永遠に生き続けるんじゃないかって淡い幻想の外を知らなかったから。
どんなに説明されても、アリアはそれを受け入れることができない。
「騙しててごめんね。君の成長を見届けられないことだけが心残りだ。まったく、ここに来てもう少し生きていたいと思うなんて。神様は本当に意地悪だよね」
ローレンスさんは苦笑してから言った。
「声が出せるようになった君が、夢を叶えて世界一の魔術師になることを祈ってる」
いつもみたいにふわりとやさしく笑った。
「できるよ。君なら絶対大丈夫」
暴風のような魔力圧がアリアを吹き飛ばす。
尻餅をついて、黒曜石の床を転がる。
目にも留まらぬ速度で展開する黄金の魔法式。
地底湖が金色の光で包まれている。
水面が光を反射してちらちらと明滅する。
初めて出会った日と同じやわらかい曲線。
目を奪われずにはいられない美しい魔法式。
アリアの身体が淡く発光する。
知らない感触が喉の中を襲った。
(なんだ、これ……)
頭の中が真っ白になった。
理解が追いつかない。
吐く息が喉をふるわせている。
頭で考えるより先に、身体が理解していた。
アリアは声を出せるようになっている。
ローレンスさんは本当に魔王の封印を作り直し、《白の聖痕》をこの世界から消そうとしているのだ。
聖女の血を引く者たちが二度と悩まなくて済むように。
自分の命を犠牲にして。
それは多分、良い行いなのだと思う。
ローレンスさんがずっとそのために準備をしてきたのもわかる。
だけど、アリアはそれを受け入れることができなかった。
(わたしはローレンスさんに生きていて欲しい)
わかってる。
これはわがままだ。
それでも、アリアはローレンスさんをこのまま行かせてはいけないと思っている。
(ずっとがんばってきたローレンスさんにこんな終わり方をさせてはいけない)
アリアは暴風の中、立ち上がる。
手を伸ばし、魔法式を起動する。
ローレンスさんの描く黄金の魔法式に自分の魔法を重ねる。
――ヴィクトリカと一緒に練習した複合連係魔法。
アリアの魔法に気づいたローレンスが焦った顔で振り向く。
「何をしてる! そんなことをすると君も――」
初めて見る怒った顔。
だけど、それもアリアを心配してるからだってわかってる。
「わかって、ます。それでいいん、です!」
アリアは言った。
初めて使う喉がひりひりと痛んだ。
「聖痕が、なかった、らいいのにって、ずっと思ってました。声が出せたら、わたしにも、魔法が、使えたはずなのにって。だけど違うって、ローレンスさんが、教えてくれた。みんなと同じ魔法が、使えないわたしには、みんなと違う魔法が、使えるんだって」
アリアはローレンスさんを見つめて言葉を続けた。
「今、わたしはみんなと、同じようにできない自分も、いいなって思うんです。不便なことも、ある。悲しくなる言葉を、言われることも、ある。だけど、わたしは今の自分が、好きなんです。できない自分を、できないまま愛したいなって、思うんです」
アリアは言った。
〖わたしは、声が出せないままでいい。声が出せないわたしが好きだから〗
アリアの魔法式が銀色の光を放つ。
喉元が白い光を放った。
白い痣が浮かび上がる。
アリアは再び声が出せなくなっている。
それでいい。
その分の生命エネルギーはあげていい。
だから、お願いだからローレンスさんに救いを。
奇跡を――
魔法式が激しく振動する。
地底湖の天井が激しく明滅する。
不意に、やわらかな声が空気をふるわせた。
「力を分けてくれてありがとう」
銀色の髪が揺れた。
小柄な女性がそこにいた。
「アリアのおかげで、私は少しだけここにいられるみたい」
半透明の身体。
赤い瞳。
彼女の顔をアリアは知っていた。
追憶石の中に封じ込められていた記憶。
思いだせなくなるくらい遠い昔に、ローレンスさんが見ていたのと同じ笑み。
「久しぶりだね、フレちゃん」
《光の聖女》がそこにいる。
「どうして……」
ローレンスさんは呆然と立ち尽くしていた。
目の前で起きていることを信じたくないみたいだった。
信じてしまうと、裏切られたときに耐えられないから。
ローレンスさんは怯えていた。
そこにいる彼女が幻なんじゃないかと怯えていた。
「魔王を封印するとき、私は自分の生命エネルギーを全部捧げた。二千年の間に、そのエネルギーは少しずつ少なくなっていったけど、それでもかなりの量がここには残っていたの。そして、フレちゃんとアリアが自分を捧げて封印を作り直したことで、私は外に出て目に見える形を取ることができた」
《光の聖女》は言う。
「多分、ほんの少しの時間が限界だけどね。アリアがくれた聖痕分の力でやっと形になれたし」
ローレンスさんが作り直した魔王の封印はほとんど完成していた。
あとは、最後の魔法式を起動させれば封印は完成し、ローレンスさんは対価として世界から消える。
静かになった地底湖。
白く光る半透明の彼女に、ローレンスさんは言った。
「気づけなくてごめん。間違ってごめん」
《光の聖女》は首を振った。
「フレちゃんは悪くないよ。決めたのは私だから」
「ずっと後悔してた。今も後悔してる」
「それもお互い様だって。私も、こんな火傷痕だらけの女、フレちゃんは嫌だよなって勇気が出せなかったし」
「君は綺麗だよ」
「ありがとう。でも、フレちゃんがそんなに私のことを想ってるなんて。さっき追憶石で見るまで夢にも思ってなかったな」
《光の聖女》は言う。
「私の娘たちに告白されてるのも全部断ってるし。いつもお世話してくれて、守ってくれるお兄さんとして初恋泥棒しておいて。本当に罪な男だと思ったよ。返事はいつも『僕には好きな人がいるから』って」
《光の聖女》は肩をすくめて続ける。
「新しい恋を始めてもよかったのに」
「その方がいいんだろうなとは思ってたんだけどね。でも、忘れられなかったんだよ。どうしても」
「そんなに私のことが好きだった?」
からかうように言う《光の聖女》。
「好きだったよ」
ローレンスさんは言った。
「君のために二千年がんばれるくらいに」
《光の聖女》は瞳を揺らした。
目を伏せる。何度かまばたきをする。
まつげに水の粒が浮かぶ。
「君のおかげで私の子供たちはみんな幸せだったよ。君はがんばりすぎるくらいにがんばってくれた。いつも私の願いを叶えてくれた。私は世界のみんなを救いたかったけど、本当はね。同じくらい君のことを幸せにできたらなって思ってたんだ。勇気が出なくて、最後まで言えなかったけど」
《光の聖女》は言った。
「私は、ずっと君が好きだったよ」
そのとき、ローレンスさんがどういう顔をしていたのかアリアには見えなかった。
だけど、多分救われたような顔をしていたんだと思う。
そういうあたたかい振動を感じたから。
口元をゆるめてから、目を開ける。
ローレンスさんがアリアを見ていた。
ふわりとやさしく微笑んで言った。
「僕を救ってくれて――生まれてきてくれてありがとう」
まばたきのあと、ローレンスさんはそこにいなかった。
封印の対価として自分を捧げたから。
寂しいけれど。
すごく寂しいけれど。
でも、その微笑みを見てよかったなって思った。
「すごくがんばってくれたね、アリア」
《光の聖女》は言った。
「貴方のおかげで思いを伝えられた。本当にありがとう」
目を細める。
半透明の身体がさらに薄くなっていた。
「人生にはいろいろなことがあるよね。うれしいことがある。悲しいこともある。アリアにも、昔の私みたいにひとりぼっちだって思う夜があるかもしれない」
《光の聖女》はアリアに歩み寄る。
「でも、誰とも繋がれないなんてことはないの。私は、未来に生まれる子供たちが安心して暮らせる世界を作りたいと思って戦った。一緒に魔王と戦って死んだ人たちもそう。みんな、本気で貴方の幸せを願ってたの」
《光の聖女》は言う。
「私の子供たちもそうだった。未来に生まれる貴方の幸せを願ってた。貴方はたくさんの人の願いと祈りに繋がってるの。貴方のために生きた人がいる。貴方のために死んだ人がいる。自分を犠牲にして命を繋いだ人がいる。食べるのを我慢して食べさせてくれた人がいる。生まれたときから死ぬまでずっと、ひとりになりたくてもなれないくらい、たくさんの人にしっかりと掴まれてるんだよ」
実体のない身体でアリアをぎゅっと抱きしめて言った。
「貴方はひとりじゃない。それを忘れないで」
目を開けたとき、《光の聖女》は消えていた。
地底湖に一人残される。
水面が静かに揺れた。
ちゃんと生きなきゃ、とアリアは思った。




