51 光の聖女の失敗
フレデリックにとって、それからの毎日は地獄以外の何物でも無かった。
彼女の声を聞く度、胸は締め付けられるように痛んだし、やり場のない怒りが身体の芯を焼いた。
感情をコントロールするのが得意だと思っていた。
今までと変わらない自分でいられると思っていた。
間違いだった。
自分が思っているより自分は弱かった。
傷つくのが嫌で、彼女から距離を取った。
彼女は少し寂しそうだった。
でも、仕方の無いことだとも思っていた。
彼女は王太子妃なのだから。
変な噂を立てられたら、国中が彼女の敵になってしまう可能性もある。
衆目を集める彼女を貶めたいと願う者は、たくさんいるのだから。
結婚式が盛大に執り行われた。
彼女と王子殿下の関係はうまくいっているようだった。
「すごく大切にしてくれてる」といつも言っていた。
魔族との戦いで、会える時間が限られていたのも夫婦生活にとってはよかったのかもしれない。
一年後に子供が生まれた。
聖女と王子の間に生まれた女の子は、国中から祝福された。
男の子が産めなかったことを責める声もあった。
彼女は少し傷ついているようだった。
それでも、ずっと大きな喜びが彼女の中にあるみたいだった。
「本当に、信じられないくらいかわいいの。生まれてきてよかったってあんなに心から思えたの初めてかもしれない」
幸せそうな彼女を見て素直によかったな、と思った。
自分にとっては一生に一度の恋だった。
大切な人が幸せそうなのは、いいことだ。
心の奥では、耐えられない痛みが自分を裂いていたけれど。
仕方の無いことだったと言い聞かせた。
多分、僕はずっとあの選択を後悔するだろう。
だけど、これが一番良い結末だったのだ。
【還らずの禁域】の最奥、【無明の大空洞】にいる魔王に対する奇襲作戦を彼女が強硬に主張するようになったのはそんなある日のことだった。
「今が最大のチャンスなの。リスクはあるけど、その分リターンも大きい。大空洞を制圧して【黒の魔王】を封印できれば、魔族との戦いは事実上決着する」
しかし、それは明らかにリスクが大きすぎる作戦だった。
成功する確率は決して高くないように感じられたし、失敗すればまず生きては帰れない。
なぜ彼女がそんな作戦を強く主張するのかフレデリックにはわからなかった。
反対するフレデリックに、彼女はつんざくような声で怒鳴った。
「なんでわからないかな! こんな簡単なことが!」
そんな彼女の姿を見るのは初めてだった。
会議は紛糾した。
「危険すぎる。たしかに、魔王を封印できる可能性はあるだろう。だが、同行した者たちはほとんど生きて帰れない。最悪の場合、全滅もあり得る」
彼女だけが残った会議室でフレデリックは言った。
「仲間の安全を何よりも優先してきた君らしくない。人類は次々に魔族から領地を取り戻している。時間をかければ、より安全に確実に魔王を封印することができる」
「わかってるよ。それくらい私もわかってる」
「じゃあ、どうして」
「時間がないの」
彼女は絞り出すような声で言った。
「私の肌は光を浴びすぎたって魔法医さんに言われた。全身に悪性の腫瘍ができてるの。現代の魔法医学では治せない」
フレデリックは目を見開いた。
「何を言って……」
「私、あと三ヶ月しか生きられないんだ」
言葉は、知らない異国の言語みたいに聞こえた。
頭の中が真っ白になった。
何も考えられない。
何が起きているのかわからない。
彼女があと三ヶ月しか生きられない?
頭の後ろの方を冷たい何かが流れている。
「王室の人たちは急いで《反動魔法》の研究を進めている。でも、形にできるまでどれだけかかるかわからない。私がいなくなれば、人と魔族のパワーバランスは一変する。たくさんの人が傷つき、失われることになる」
リリアは言った。
フレデリックは少しの間押し黙ってから言った。
「だが、魔王を封印するために必要な魔法式がまだ完成していない」
「完成してるよ。方法を見つけたの」
「そんなはずはない。今実現可能な方法では、対価として術者の生命エネルギーがすべて持って行かれてしまう」
「それでいいんだよ」
リリアは言った。
「残り少ない私の命で魔王を封印できるなら、対価としては安いと思わない?」
息を呑むフレデリック。
リリアは真っ直ぐに彼を見て続けた。
「一生に一度。そして最後のお願い。私に魔王を封印させて」
リリアの意思は固かった。
反対していたフレデリックも、最後には根負けして彼女に協力することを決めた。
関係各所に頭を下げて、協力してくれる人を集めた。
まず生きて帰ることはできない作戦。
しかし、予想に反して同行を希望する騎士と魔術師、冒険者の数は一万を超えた。
「聖女様のおかげで死なずに済んだんです。聖女様の力になれるなら、こんなに良い命の使い方ないなって」
照れくさそうに笑って一人の冒険者は言った。
「好きな人たちが魔族のいない世界で安心して暮らせるなら、俺の命くらいあげてもいいかって思ったんすよ」
フレデリックは胸がじんと熱くなった。
みんなそれぞれの理由のために、自分を犠牲にしてでも協力しようとしてくれている。
自分もこの戦いにすべてを捧げよう。
準備にはリリアも熱心に協力してくれた。
「手伝わなくていい」と伝えたが、頑として譲らなかった。
「体調を良い状態で維持するのが一番大切だろ」
フレデリックは何度も言った。
「殿下と、アリシアちゃんと過ごせるのも今だけだ」
「殿下はお忙しいから。王室では乳母が主導して子供を育てると決まってて、アリシアに会うこともできないしね」
「そうなのか?」
「うん。だから、他にやることもないの。じっとしてると余計なことを考えてしまいそうになるし」
「余計なこと?」
「怖いな、とか。死にたくないな、とか。やめたいな、とか」
リリアは低い声で続けた。
「嫌ならやめろ、とか言わないでね」
彼女は何度か取り乱して泣いた。
落ち着かせるのは簡単なことじゃなかった。
肺に水が溜まり、激しい咳を繰り返した。
涙が頬の包帯を濡らしていた。
「なんで私なの」と言った。
「私、そんなに悪いことしたのかな。みんなを助けるためにがんばってきたのにな」と言った。
「私の人生って何だったのかな」と言った。
彼女はみんなが思うような聖女ではなく、弱さを抱えた女の子だった。
隠していただけで、本当は悲しくなるくらいにボロボロだった。
「みんな君だから集まってくれたんだ。君のためなら、自分の命を捧げてもいいと思ってる人がこんなにいる。それだけ君に感謝してる。君は本当に価値あることをしてる」
必死になって言葉を尽くしたが、彼女を元気づけることはできなかった。
無力だった。
とても戦える状態ではないと思った。
作戦は中止にするしかないと思った。
だけど、作戦前日に彼女は真っ直ぐにフレデリックを見て言った。
「これは私が絶対にしないといけないことなの」
彼女はフレデリックが思っているよりずっと強かった。
迎えた作戦の日。
【還らずの禁域】に攻め込んだ聖女の軍勢を、魔族たちは想定していなかったようだった。
仲間の安全を第一に行動を選択していた今までとは、まったく異なる動き。
大きなリスクを伴う作戦は、結果として魔族の不意を突いた。
自分の命を捧げて戦うと決めた者たちは、フレデリックが想像しているよりもずっと強かった。
作戦は想定していた以上にうまく進んだ。
【無明の大空洞】最奥に到達した聖女の軍勢は、九千人を超える犠牲の先に魔王を封印することに成功した。
成功、と史実では言われている。
「失敗した……」
黒曜石の玉座に刺さった杖の前にくずおれて、リリアは言った。
そこは地底湖で、魔王を封印した魔法式の残滓が蛍の光のようにあたりを舞っていた。
リリアの全身は真っ赤な血に濡れ、立っていることもできないくらい衰弱していた。
「成功してる。大丈夫だ」
フレデリックは言った。
慰めではなく、本当にそう思っていた。
封印の魔法式は準備していた通りに起動して、その役割を完遂したように見えた。
彼女は首を振った。
「失敗したの。私一人の生命エネルギーでは対価が足りなかった。私は魔法式の制御に失敗した。一緒に一番大切なものを持って行かれてしまった」
「一番大切なもの?」
「あの子の、アリシアの生命エネルギー……」
リリアはふるえる声で言った。
「お願い、あの子を助けて。あの子は何も悪いことをしてないの。私が失敗したから――」
「大丈夫。大丈夫だ」
フレデリックはリリアの肩をつかもうとした。
二つの手は、彼女の身体をすり抜けた。
彼女は既に実体としての肉体を失っていた。
形を保てないほどに軽くなった存在が中空に霧散していく。
「お願い。お願いだから――」
必死ですがる彼女に、他に何が言えただろう。
「あの子は僕が守る。絶対に幸せな人生を送れるようにする。約束するから」
気づいたとき、彼女の姿は最初からなかったみたいに消えていた。
戦いの中でちぎれたローブがそこに残っていた。
割れるような痛みが頭を襲ったのはそのときだった。
魔王という存在が振りまく人体には耐えられない濃度の魔素による魔素障害。
フレデリックは懸命に意識をつなぎ止めようとした。
しかし、彼の身体は既に消耗しきっていた。
静かな地底湖の中で、彼の意識は霧散していった。




