46 無祈竜
ベルナルドは、しばしの間アリアたち三人を観察するように見つめた。
「ここまで来てしまっている以上、他に手はないか……」
唇を引き結んでから続けた。
「我々は【無明の大空洞】に向かっている。君たちにも同行して欲しい」
その言葉に、隣にいた片眼鏡の男性魔術師が息を呑む。
「待ってください。ここは【還らずの禁域】ですよ。こんな子供を同行させるのは――」
「ここまで来てしまった以上、引き返すのも同じくらい危険だ。何より、《幻影の群鹿》を仕留めたのを見ただろう」
表情を変えずに淡々とベルナルドさんは言う。
「残る二人も最年少での準一級魔術師。既に一線級と呼んでいい実力者だ。無傷でここまでたどり着いていることを見ても低く見積もっていい相手ではない」
「しかし、一歩間違えれば命を落とす危険が」
「三人でここまで来たんだ。我々が叱ったところで進むことを止めはしないだろう。だったら、同行させた方がまだ安全を確保できる」
ベルナルドさんはアリアに視線を向けた。
「構わないか」
アリアは振り返って氷文字を浮かべる。
〖私はいいと思う。二人はいい?〗
「ああ。ありがたい」
「私も断る理由はないわ」
確認してから、ベルナルドさんに言った。
〖お願いします〗
ベルナルドさんと助手の人が加わってくれたことで、【禁域】を進む速度は大幅に上がった。
二人は、経験の少ないアリアたちとは比べものにならないほどの豊富な知識と探索用魔道具を持っていた。
魔物に対する対処も的確で、大抵の魔物であれば弱点を突いて反撃される前に倒してしまう。
(さすが超一流の魔術師さん)
感心しながら二人の後に続く。
「魔術師にとって【禁域】で最も危険なのが【無祈竜】だ。大型の竜種で、あらゆる魔法を完全に無効化する未知の力を持っている」
〖わたしの《反動魔法》も無効化されるんですか?〗
「【無祈竜】の半径五十メートル圏内ではあらゆる魔法が使えないという証言がある。それも、魔法の力を生む源である空気中の粒子が完全に運動を停止するという話だ」
〖それ、魔法大学の学長先生が使ってました〗
「あの人は元特級魔術師だからな。しかし、先生でも停止させられる粒子は身体からごく近い距離までのはずだ」
〖そうでした。少し離れたところなら起爆させられたので〗
「学長を爆発させようとした経験があるのか?」
〖ええ。惜しくもうまくいかなかったんですけど〗
「…………」
ベルナルドさんは少しの間アリアを見つめてから、何もなかったかのように口を開いた。
「君の《反動魔法》も【無祈竜】の前には発動しないと考えておいた方がいいだろう。情報も極めて少ないし、どうして魔法が使えなくなるのかも解明されていない。そもそも、存在が知られたのも九年前のことだ」
〖そんな危険な竜がどうして存在を知られずに生息してたんですか?〗
「出会った者が一人も生きて帰れなかったからだと推測されている」
ベルナルドさんは言う。
「九年前、特級魔術師一人を含む王宮魔術師と王立騎士団の精鋭、各地の名高い冒険者によって構成された三十八人が前例のない戦力で【還らずの禁域】における探索を行った。彼らは過去に例のない速度で【還らずの禁域】の最奥に到達した。そして、【無祈竜】と対峙した」
感情が含まれていない淡々とした口調で続けた。
「生き残ったのは最初に逃げ出した冒険者一人だけだった。【無祈竜】を前に、探索隊は何一つできなかったと彼は証言している。あれは戦闘でさえなかった。【無祈竜】は獲物で遊んでいるように見えた、と。一切の祈りが通用しない怪物。ゆえに【無祈竜】」
髪を撫でる風が体温を奪っていく。
アリアはマフラーを少し持ち上げた。
ベルナルドさんは真っ直ぐにアリアを見つめている。
「私は過去に一度【無祈竜】と対峙している。そのときは魔法が使えなくなったことに気づいた瞬間、全力で逃走した。恥も外聞も魔術師としての誇りもすべて捨てて逃げることに徹した。そうして、なんとか生き残ることができた」
ベルナルドさんは言う。
「運が良ければ出会わずに大空洞に入ることができる。私が過去に大空洞に入ったときもそうだった」
〖もし【無祈竜】に出会ったら〗
「全力で逃げることを徹底してくれ。我々は君たちを助けられない。あれはそういう次元の相手だ」
アリアは背筋を冷たいものが伝うのを感じる。
魔法が使えなくなってしまったアリアたちはただの子供に過ぎない。
王立騎士団の精鋭が誰一人として生きて帰ることができなかった怪物を相手に、無事に逃げ帰れる可能性がどれだけあるだろう。
(引き返すように言うべきかもしれない)
しかし、リオンとヴィクトリカを説得できる言葉をアリアは持っていなかった。
引き返してもらうなら、アリアも一緒に戻らないと二人は絶対にうなずいてくれないはずだ。
ここまで来て、アリアにすべて任せて帰るような子ではないことを、一緒に過ごしてきた時間がアリアに伝えている。
(お願いですから、竜に会いませんように)
心の中で祈りつつ、先に進む。
アリアの願いが通じたのかはわからない。
しかし結果として、たどり着いた【無明の大空洞】の入り口に【無祈竜】の姿はなかった。
「やった……! ついてる……!」
助手の男性の言葉に、ベルナルドさんがうなずく。
「急いでこのまま進もう」
大空洞の入り口は、禁域の最奥にそびえる山脈のふもとにある。
大空洞から噴き出す魔素の影響で、周辺に木々は生えていない。
数百メートルにわたって遮るもののない赤茶けた岩肌が露出している。
急いで大空洞の入り口へと進む。
魔素濃度による森林限界から三百メートル進んで、大空洞の入り口まで半ばを過ぎたときのことだった。
(何か、いる?)
それは空気に含まれたかすかな違和感だった。
アリアにしか感知できないほんのわずかな振動。
大きな影がアリアたちを覆う。
見上げたその瞬間には、天へそびえる巨大な尻尾しかそこには残っていなかった。
強い風がアリアの前髪を吹き飛ばす。
痛みをこらえて懸命に目を開けたアリアが見たのは、竜の大樹のように巨大な腕。
何が起きたのかわからなかった。
骨が砕ける音がした。
一番後ろを歩いていたベルナルドさんの助手が壁に打ち付けられていた。
赤い飛沫が舞った。
水風船のように潰れていた。
感覚的に理解していた。
取り返しのつかないことが起きた。
今、この人は死んでしまったのだ。
「走れ!」
ベルナルドさんが言うその前に、アリアたちは駆け出していた。
本能的恐怖。
咄嗟に描いた魔法式は光を放つこと無く霧散した。
魔法は使えない。
戦う手段のない状態。
特級魔術師を含む王宮魔術師と王立騎士団の精鋭、各地の高名な冒険者が集められた探索隊を簡単に壊滅させた怪物。
理解するより先に身体が動いている。
森に引き返すのではなく大空洞の入り口を目指したのは、一番後ろにいた助手の男性がやられたから。
思考ではなく本能によってそうせざるを得なかった行動は、――【無祈竜】の想定していた通りのものだった。
一番前を走っていたベルナルドさんの身体が消える。
壁が崩落して、粉塵が舞う。
赤い液体が飛び散る。
状態を確認している余裕はなかった。
粘性のある胃液がせりあがってくるのを感じる。
時間がいつもより遅く流れている。
身体の中が冷え切っている。
安心がほしい。
一刻も早くここから逃げないといけない。
「なにしてんの早く――!」
運動が苦手なアリアをヴィクトリカが追い抜く。
アリアの右手をつかみ、力強く引く。
やわらかい手。
汗ばんだ感触。
ふわりと舞う赤髪と薔薇の香り。
次の瞬間、右手からヴィクトリカの手はなくなっていた。
揺れる大地。
舞う粉塵。
破砕した小石が転がる。
(ヴィクトリカ――!?)
駆け寄ったのはそれ以外に何もできなかったからだ。
アリアは気づいていた。
最後の瞬間、ヴィクトリカは自分で手を離すことを選択した。
アリアを巻き込まないために。
力なくうなだれたその身体は、アリアが想像していたほど潰れてはいないように見えた。
(これならまだ助かる)
駆け寄るアリアの左手をリオンが引いた。
「なにやってるんだバカ行くぞ!」
力任せに引っ張られて、アリアはよろめく。
それでも、何とか体勢を立て直してその場にとどまろうとする。
助けないといけない。
ヴィクトリカは大切な友達だから。
一切の思考が停止したアリアをリオンが引こうとする。
しかし、多分業を煮やしたのだろう。
逆に突き飛ばされて、アリアはヴィクトリカの足下へと転がる。
(それでいい。リオンくんだけでも逃げて)
そう思いながら、逃げようとする彼の姿を横目で見た。
リオンくんは既にそこにいなかった。
アリアたちが引き合っていたその場所の、すぐ横にある岸壁に叩きつけられて、力なくうなだれていた。
(逃げたんじゃない。わたしを守って――)
アリアはぺたんと座り込んだ。
自分のせいでリオンくんが攻撃を受けてしまった。
身体は潰れていない。
明らかに、最初の助手さんへの一撃よりも加減をした攻撃。
(遊んでる)
アリアは呆然と竜の巨体を見上げる。
【無祈竜】は想像していたよりもずっと無邪気な生き物であるように見えた。
猫が小鳥をもてあそぶみたいに。
狩りではなく嗜好として獲物をいたぶる。
アリアを見下ろす【無祈竜】は少し落胆しているように見えた。
逃げようとしないのか、と。
逃げている方が面白いのに、と。
頭が回らない。
何も考えられない。
呆然とするアリア。
竜はアリアを見つめる。
大樹のような腕を振り下ろす。
目を閉じる。
痛みは無かった。
衝撃も無かった。
何も無かったかのように静かだった。
死というのはこんな感じなのだろうか。
「よかった。間に合った」
目を開けたとき、そこにあったのは巨大な竜の腕だった。
アリアの目の前で、それは少しも動くこと無く完全に静止している。
そして、その竜の腕とアリアの間に一人の男性が立っていた。
艶やかな藤色の髪。
揺れるロングコート。
形の良い手がアリアの右肩に添えられている。
反対側の手が巨大な竜の腕を止めていた。
「助けに来たよ。もう大丈夫」
ローレンス・ハートフィールドがそこにいた。




