42 破られた壁
いつの間にか、アリアは眠ってしまっていたらしい。
頭頂部に硬い感触。
身じろぎするとさらさらとした何かが耳を撫でる。
ゆっくりと頭を持ち上げて隣を見る。
リオンくんがアリアの肩に頭を乗せて眠っていた。
アリアたちは互いにもたれかかる形で眠っていたらしい。
(まつげが長い)
綺麗な顔してるな、と思いつつ横顔を見つめていると、閉じられた瞼が静かにふるえた。
目が少し開く。
力の抜けた顔でリオンが身じろぎして、アリアを見る。
目が合う。
肩よりも近くにリオンくんの顔がある。
こんなに近くで顔見るの初めてだな、と思っていたら、リオンくんはびくっとふるえてアリアから距離を取った。
「悪い。眠ってた」
〖いいよ。わたしも寝ちゃってたし〗
「まだ時間はある。みんなが起きてくるギリギリまで資料に当たろう」
うなずいて、積み上げた本を読んでいく。
埃っぽい書庫の中でページを手繰り、気になったところを手帳にメモする。
急いでいる中で手に取ったその古書は、他の本と違う独特のざらついた手触りをしていた。
赤茶けた分厚い本。
手繰るページの感触がどことなく重たく感じられる。
素早く目を通していたアリアは、真ん中の辺りに隠すように綴られたその一文に息を呑んだ。
『何者かが世界から《反動魔法》を消そうとしている。私は未来のために、真実を託すためにこの本を記す』
その本は、わずか数ページの記述を残すためだけに作られていた。
それ以外の内容は、偽装のためのものだった。
他の本より明らかに多い誤字は、何者かを警戒しながら急いで作られたからなのかもしれない。
『聖女の生んだ赤子に《白の聖痕》はなかった。最初の聖痕が現れたのは、聖女が【黒の魔王】を封印した日だ。白い痣とともに生後半年だった赤子の視力が失われた』
『《反動魔法》には世界を一変させる力があった。我々はその力を誰よりも高く評価していた。可能性のある子供たちを集め、優れた《反動魔法》を作る研究を行った。危険な外敵や脅威から大切なものを守る力を得るために』
『これらの研究を無きものにしようとする者がいた。【裏切りの魔術師】フレデリック・アレンハウスと魔王に血を分けられた魔人たちだ。彼らは《反動魔法》を身につけた子供たちを世界から抹消した。研究施設は跡形もなく徹底的に破壊され、施設内にいた者たちは一切の記憶を失って廃人になっていた』
フレデリック・アレンハウスと魔人が《反動魔法》を身につけた子供たちを襲撃した事件が、何度も起きていると本には書かれている。
アリアは背筋に冷たいものが伝うのを感じる。
そこに書かれた内容が真実なのかはわからない。
しかし、この本の著者は心からそう信じているように感じられたし、だからこそ簡単には見過ごすことのできない説得力が綴られた言葉にはあった。
〖リオンくん、この本読んでみて〗
アリアはリオンに本を渡す。
リオンはアリアが指し示した箇所に視線を落とす。
〖どう思う?〗
リオンはしばしの間、本の記述を目で追ってから言った。
「信じられるものかどうかはわからない。だが、信じたくなるだけの力はあるな。少なくとも、著者は書いている内容が正しいと確信しているように見える」
彼の見立ても同じだった。
本に綴られた意味深で奥行きのある言葉に導かれるように、二人でページを手繰る。
『魔王の封印は百年周期で弱まる時期がある。魔物の活動が活性化し、旧魔王領の周辺地域には少なくない被害が出る。その期を狙って魔人が動いている痕跡も見られる』
ページを手繰る。
『すべては封印魔法の構造上の問題だ。五百年に一度さらに封印が弱まる可能性が高い。このまま何もしなければ、聖女の封印から二千年後に魔王は力を取り戻し、世界は再び恐怖に沈むことになる』
アリアは息を呑んだ。
少し遅れてリオンの息も止まる。
〖二千年後って〗
「今年だ」
書庫の外から大きな音が聞こえてきたのはそのときだった。
早朝の澄んだ空気の中、慌てたような人の声と、たくさんの足音が聞こえてくる。
「見て来る」
リオンが書庫を飛び出す。
近くを走っていた騎士を呼び止める。
「何があった?」
「馬車に乗り込み、至急避難してください」
騎士の声は、書庫の中にいるアリアにもはっきりと聞こえた。
「聖壁が破られました。前例がない数の魔物が各地を襲っています」
聖壁が破られた。
その知らせは、王国に暮らす人々にとって衝撃的な出来事として受け止められた。
《光の聖女》と《始まりの七魔術師》により作られてから、二千年間維持されてきた大陸一の規模を誇る魔法結界。
現代の魔法でも再現できない、途方もない出力と魔法技術によって形作られたその存在が持つ意味は、単純な防衛設備の域を超えていた。
ほとんど信仰に近い信頼があった。
聖壁があるから大丈夫だと信じることができた。
二千年機能し続けているから問題は起きないと誰もが思っていた。
永遠に続くものだと錯覚していた。
終わりのときが近づいていることに、誰も気づいていなかった。
混乱の中で、アリアは王宮に向かう馬車に揺られていた。
楽器を入れる鞄の中で考える。
思いだされるのは、『大魔導祭』での魔法コンテストの後、ベルナルドさんと話したこと。
『百年に一度、魔王の封印が弱まる時期がある。その時期に何者かが【無明の大空洞】の最奥を侵入しようとしている痕跡が残っている。魔王の封印を解こうとしているのだろう。そのたびに魔物は活性化し、少なくない被害が出る』
『今は過去に例がないほどに魔王の封印が弱まっているように見える。大空洞の最奥で封印の修繕と補強をするべきだが、議会も大臣もことの重大さを理解していない。二千年封印は維持されているのだから、今回も大丈夫だろうと平和ぼけしている。財政と税制の諸問題の方が彼らにとっては重要らしい』
ベルナルドさんは、この状況をかなり近いところまで予見していた。
最悪の事態に備えて行動し、アリアに声をかけた。
『魔王が封印されている大空洞の最奥に入るには、聖女と同じ《反動魔法》の技術が必要になる。封印の補強と修繕を行うために、方法がないか考えていたときに聞いたのが君の噂だった』
『聖女の血を引き、《反動魔法》の使い手である君なら、大空洞の最奥に入るために必要な魔法式を描くことができる可能性がある』
封印が失われようとしている。
魔王の復活を阻止するために必要な修繕と補強。
それができるのは、自分だけかもしれない。
子供じみた錯覚かもしれない。
だけど、何かがアリアを激しく揺り動かしているように感じられた。
絶対に行かないといけないような、そんな気がしていた。
〖ベルナルドさんに話を聞きたい〗
鞄の空け口から小さな氷文字を浮かべる。
リオンくんが鞄に顔を近づけて小声で言う。
「わかった。どこにいるか確認する」
リオンくんは執事さんに指示を出す。
しばらくして戻ってきた執事さんは、ベルナルドさんが国王陛下と話したいと言っていて、王都の外れにある古城で会談する予定であることを伝えてくれる。
〖古城の傍で降ろして〗
「行くのか」
〖行かないといけない気がするの〗
アリアの言葉に、リオンは少しの間押し黙ってから言う。
「俺も行く……と言いたいが、さすがにこの状況で抜け出すのは難しいか」
馬車を厳重に警護する騎士さんたち。
リオンを守ることが彼らの最も優先すべき仕事であり、いなくなったとなると大変な騒ぎになるのは間違いない。
〖リオンくんは自分のすべきことをして。わたしはわたしのやりたいことをするから〗
「無茶は絶対するな。いいか。絶対だぞ」
リオンは鞄の裾を握りながら言う。
「必ず抜け出してそっちに行く」
言葉には強い意思が込められているように感じられた。
ベルナルドがいるという古城の傍で、リオンは水魔法で周囲の視界を遮りつつアリアの入った楽器を入れる鞄を降ろした。
水魔法の糸を使い、狭い路地の隙間に投げ入れる。
鞄の革越しに感じるとがった小石の感触。
リオンを警護する騎士たちが通り過ぎるのを待ってから、鞄を開けて外に出る。
路地の外に出たけれど、王都の外れにあるその場所の土地勘がアリアにはなかった。
(自分で動いたら絶対迷子になる気がする)
アリアは道を聞くことにした。
歩いている老婦人に氷文字で質問する。
〖この辺りに王室所有の古城ってありますか?〗
老婦人は驚いた顔で氷文字を見つめてから、古城への行き方を教えてくれた。
「この道を真っ直ぐ進むと正門が見えてくるよ」
〖ありがとうございます!〗
お礼を言って、古城へ急ぐ。
どこまでも続く格子柵と芝生の生い茂る庭。
大きな古城の門にたどり着いたところで、視界に映ったのは門から出てくるベルナルドさんの姿だった。
目元を覆う前髪。
歩み寄ったアリアを見て、驚いたように少しだけ顔を上げる。
「どうして君がここに」
〖ベルナルドさんと話したくて〗
アリアは言う。
〖リオンくんと一緒に先王陛下が所有していた古書を調べてみたんです。そこには、ベルナルドさんが言っていたのと同じことが書かれていました。魔王の封印は百年に一度周期的に弱まる時期がある。五百年に一度さらに弱まる時期があると本には書かれていました〗
「五百年に一度というのは初耳だな」
〖そうなんですか?〗
「ああ。だが、たしかに過去の例を見ても五百年周期でより大きな被害が出ていた」
〖その本を書いた人は、このままいくと封印から二千年後に魔王の封印は解けると書かれていました〗
「二千年後だと……」
〖今年です〗
アリアの言葉にベルナルドさんは唇を引き結ぶ。
「一刻も早く封印を修繕しないと」
〖国王陛下との会談はどうでしたか?〗
「検討するとは言っていたが、完全に信じてはもらえなかったようだ。あの分だと、本格的に戦力が【禁域】に送られるのは、国内で暴れている魔物たちを討伐した後になるだろう」
〖それで間に合うんですか?〗
「…………」
ベルナルドさんはしばらくの間押し黙ってから言った。
「わからない。間に合う可能性もあるだろう」
〖すべてが手遅れになってしまう可能性もある〗
アリアの言葉に、ベルナルドさんは答えなかった。
しかし、その沈黙が何よりも雄弁にアリアの言葉が正しいことを語っていた。
〖わたし、行けます〗
「魔王が封印されているのは【還らずの禁域】の最奥。【無明の大空洞】だ。他の地域よりもはるかに高レベルの魔物が生息している大陸で最も危険な場所。その上、異常なまでに高い魔素濃度が頭痛、息切れ、錯乱、昏睡を引き起こす」
〖魔素症ですね〗
「最悪の場合、命に関わる」
〖それは普通の人の話です。わたしは魔術師なので、魔素濃度が高い状況には慣れています。加えて、魔素濃度が高いということはそれだけ出力の強い魔法が使えるということ。むしろ有利です〗
「君を禁域に連れて行くことはできない」
ベルナルドさんは強い口調で言った。
「これは私のような大人が解決しないといけない問題だ。遠くないうちに、君が誰かを守るために戦わないといけないときが来る。君はそのときにがんばればいい。世の中はそういう風にできているんだ」
〖わたしはできます。力になれます〗
「君がすべき仕事は、安全なところに避難してご両親を安心させることだ」
〖でも――〗
「もし、禁域で君を見かけたら私は全力で攻撃を仕掛ける。君の意識を奪い、強制的に連れ帰って動けないように拘束する」
ベルナルドさんは感情のない目でアリアを見つめて言った。
「今回の一件で君にできることは何もない」




