30 アクシデント
前日に約束した通り、コンテストが始まる二時間前にアリアはヴィクトリカと合流した。
コンテストの会場である古城。
アリアの二十メートル後ろでは、集まった五親等以内のフランベール家親族一同が横断幕と旗を準備していたが、ヴィクトリカは気づかなかったみたいだった。
「まずいことになったわ」
〖何かあったの?〗
「魔法コンテストに、とんでもない大物が参加してるのよ」
〖とんでもない大物?〗
「『異端の探求者』ベルナルド・アボロ。聖壁の向こう――死と隣り合わせの旧魔王領の遺跡調査を、単独で千回以上繰り返してる魔法考古学界の伝説」
〖そんなにすごい人なの?〗
「魔法コンテストなんて出ちゃいけない超一流の魔術師よ。少なく見積もっても準特級以上の力がある」
〖そんな人がどうして?〗
「わからないわ。今は《光の聖女》に関する学術調査をしてるみたいだから、研究への投資を集めるために実績と知名度を上げたいんじゃないかって運営の人は話してたけど」
ヴィクトリカは歯噛みしながら言う。
「他にも二組の準特級魔術師が参加してる。三位以内に入るには準特級レベルの魔術師一組に勝たないといけない」
〖勝てばいいんじゃないの?〗
「簡単に言わないで。準特級と言えばお母様と同等よ。私は生涯でお母様に勝ったことがない。負けたことは……もう嫌になるくらいあるけれど」
〖準特級って魔法界全体でもほとんどいないって話だもんね〗
「あのレベルの魔術師がなんで三人も出てくるのよ……!」
真紅の髪をかき乱して言うヴィクトリカ。
「とにかく、今から魔法式を修正するわよ」
〖でも、これを使う準備と練習をしてきたのに〗
「これじゃ三位以内には入れない」
〖今のわたしたちのベストを尽くせばそれでいいと思うけど〗
アリアは首をかしげる。
ヴィクトリカが、どうしてそこまでずっと上を見ているのかわからない。
最高学府である王立魔法大学の学生でも十位以内に入るのは至難の業だと聞いた。
四年生の先輩でもそうなのだから、三位以内なんて現実的な目標とはとても思えない。
「私は三位以内に入らないといけないの。どんな手を使っても、絶対に」
ヴィクトリカは殺気だった声で言った。
「貴方がやらないなら私一人でやるわ」
〖わかった。手伝う〗
アリアはヴィクトリカと一緒に魔法式の修正をした。
しかし、時間をかけて入念に準備してきた魔法式だ。
今の自分たちにできる最高のものがそれだったのだから、改善する具体的な方法はなかなか見つからない。
一時間が過ぎて、ヴィクトリカの顔に焦りの色が浮かんでいたときのことだった。
「申し訳ございません。トラブルが発生しました」
コンテストの運営スタッフとして作業を行っている男性が出場者の控え室に現れて言った。
「今回の魔法コンテスト。事前にお伝えしたとおり、判定は七人の審査員と最新式の魔力測定鏡を使って行われます。魔法鏡は放たれた魔法と魔法式の構造を解析し、その数値と審査員のつけた点数の合計が【美しさと創造性】【魔力の純度と出力】【強度と安定性】【魔法式精度】【連係精度】の五項目で点数が発表されます」
男性の額には大粒の汗が浮かんでいる。
「しかし、直前になって使われる魔力測定鏡に不具合があることが判明しました。今からお伝えする第二補助式が使われた魔法は、いくつかの項目が正しく測定されず実際よりも低い数値が出てしまっています」
男性は続ける。
「運営としては、不具合に関わる第二補助式は使用しないことを推奨します。禁止というわけではありません。しかし、点数は実際の数値よりも確実に低くなることをご留意ください」
男性は深く頭を下げて言った。
「誠に申し訳ございません」
点数が低くなると伝えられたのは、魔法の出力と安定性を強化する系統の第二補助式だった。
この補助式を扱える人は出場者の中でもほんの一部。
しかし、それはアリアとヴィクトリカが準備してきた魔法の根幹を担う補助式だった。
(準備していた魔法が使えない)
アリアは目を見開く。
「そん、な……」
隣で、ヴィクトリカが蒼白な顔でそう漏らすのが聞こえた。
ヴィクトリカの動揺は、痛々しく感じられるほどだった。
誰の言葉も耳に入らない。
愕然とした顔で、へたり込んでいる。
青白い顔はひどく疲れているように見えた。
〖大丈夫?〗
気遣いつつ、氷文字を浮かべる。
〖魔法式の修正をしないと〗
「わかってるわ。大丈夫よ」
ヴィクトリカは言った。
いつもの自分を装っているように見えた。
しかし、その顔は明らかに普段のヴィクトリカとは違っていた。
「外の風にあたってくるわ」
控え室を出て行くヴィクトリカ。
ついていこうかと考えたけど、一人になりたい可能性もあると思った。
迷った末にアリアはついていかないことを決める。
(先に一人で修正案を考えておこう)
しかし、十分経ってもヴィクトリカは戻ってこなかった。
二十分が過ぎて、まだ戻ってこない。
(おかしい。明らかに)
アリアはヴィクトリカを探すことにした。
目を閉じて、意識を集中する。
会場の廊下を行き交うたくさんの人々。
数え切れないくらいたくさんある魔力の気配。
その中からヴィクトリカの魔力を――振動を探す。
(多分、こっちかな)
かすかな感覚を頼りにたどり着いたそこは、建物の端にある女子トイレだった。
あたりに人気は少ない。
二つある個室の奥の方に鍵がかかっている。
(ヴィクトリカがいる)
しかし、声が出せないアリアには声帯をふるわせて言葉を伝えることができない。
少しの間考えてから、氷文字で自分の思いを形にした。
〖大丈夫?〗
個室の中に氷文字を作る。
アリアから文字は見えない。
感覚を頼りに魔力を操作する。
「大丈夫じゃない。終わりよ……もう終わりだわ……」
声はふるえていた。
顔が見えなくても、彼女が泣いていることがわかった。
「私は一族の期待を背負ってるの。お母様の期待に応えないといけないの。でもできない。これで終わり……」
別人のように力ない声だった。
アリアはヴィクトリカの心を軽くしたいと思った。
思い詰めなくてもいいと伝えたかった。
〖大丈夫。魔術師に失敗はつきものだし、ヴィクトリカのお母さんも許してくれる〗
「お母様は許してくれないわ。一度だけ、お母様の期待を裏切った日のことを覚えてる。お母様はひどく汚いものを見るような目で私を見たの。そのときに気づいた。私はこの人が求める自分じゃないといけない。そうじゃないと必要としてもらえないんだって」
か細い声が響く。
「私は完璧じゃないといけないの。失敗なんてしちゃいけないの。できない私なんて誰も必要としてくれない」
アリアはヴィクトリカにどう声をかければいいかわからなかった。
同世代の子と過ごした経験は多くなかったし、唯一の友達であるリオンくんともこんな類いの話はしたことがない。
アリアには声が出せない。
みんなが普通にできることができない自分には、誰かの心を軽くする言葉なんて伝えられないのかもしれない。
それでも、アリアは伝えたいと思った。
自分にもきっとできることがあると思った。
(わたしの言葉で、わたしの伝え方で)
アリアは目を閉じる。
魔法式を起動する。
◆ ◆ ◆
ヴィクトリカはトイレの個室で膝を抱えている。
強くかきむしった左腕で血が滲んでいる。
長袖の服の下にはいくつもの傷が刻まれている。
古い傷は白い跡になって残っている。
受験のストレスだと母は言う。
「よくあることだし、私もそうだった」と。
おそらく、母の言葉は正しいのだろう。
お母様はいつも正しいから。
だけど、ヴィクトリカが必要としていたのはそんな言葉では無かった。
苦しみに気づいて欲しかった。
『よくがんばったね』と言って欲しかった。
『無理しなくても大丈夫だよ』と抱きしめて欲しかった。
だけど、救難信号は届かない。
一度だって届いたことはない。
(弱音を吐いてはいけない。がんばらないといけない。期待に応えないといけない)
たくさんの『いけない』がヴィクトリカを取り囲んでいる。
正しさと理想がヴィクトリカを責め立てて追い詰める。
心の中の誰かが自分を否定する。
『ありのままの私は誰にも愛されない』と言う。
『できない私は誰にも必要とされない』と言う。
『絶対に失敗してはいけない』と言う。
汗が噴き出す。
頭の後ろの方を冷たいものが流れていく。
怖い。
失敗の予感がある。
どこかで気づいている。
この壁を自分は超えられない。
想像を絶するほど多くの時間を魔法に捧げてきたヴィクトリカだからこそ、わかってしまう。
戦いたくない。
外に出たくない。
このままここにずっと隠れていたい。
湧き上がる本音が、惨めで救いようがなくて嫌になった。
自分がこんなに醜いなんて知らなかった。
両手で顔を覆う。
指の間から水の線が伝う。
扉の向こうにまだあの子がいることにヴィクトリカは気づいていた。
『大丈夫?』と聞いてきたあのやりとりから、何もせずずっとそこにいるのが気配でわかる。
きっと怒っているだろう。
当然だ。
本番直前でパートナーがこんなことになったら、私ならとても我慢できない。
思いつく限り正しい言葉で殴りつけるはずだ。
魔法式の光が扉の下から漏れる。
氷文字が浮かぶ。
言葉を見るのが怖かった。
だけど、その言葉はヴィクトリカの視界に入ってきた。
〖ヴィクトリカは誰よりもたくさんがんばってる。ヴィクトリカの魔法を見ればわかる〗
氷の文字が浮かんでいる。
形を変えて、次の言葉を作る。
〖誰かのためにそこまで頑張るなんてわたしにはできない。期待に応えるためにがんばってきたヴィクトリカをわたしは尊敬する。そんなヴィクトリカをかっこいいと思う。でもね、ずっとがんばってきたんだから今は休んでいいと思うんだ〗
形が変わる。次の言葉を作る。
〖お祭りが終わるまで二人でここで隠れていようよ。誰がどう思うとかそんなのどうでもいい。ヴィクトリカを無理矢理連れ出そうとする人がいたらわたしがやっつけるから。わたしはヴィクトリカの味方だよ。ずっとここにいる〗
氷が形を変えて言葉を作った。
〖だから、今は何よりも自分を大切にしてあげて〗
純粋な驚きがあった。
夢にも思っていなかった。
そんな言葉をかけてくれる人がいるなんて。
視界が歪んだ。
身体の奥から何かが湧き上がってきた。
気がつくと、ヴィクトリカは声をあげて泣いていた。
子供みたいな嗚咽が響いていた。
木製の扉にあの子が背中を預けるのが気配でわかった。
瞼の裏に濡れたハンカチの冷たさを感じた。
どれくらい泣いていたのかはわからない。
長かったのかもしれないし、短かったのかもしれない。
自分の中にあるものが全部外に出るくらい泣いてから、ヴィクトリカは服の袖で涙を拭った。
目の前の扉を見つめる。
立ち上がる。
鍵を開ける。
あの子が扉から離れるのが気配でわかる。
息を深く吐いてから、扉を押す。
扉の向こうにいたあの子は驚いた顔をしていた。
〖いいの?〗
氷文字が浮かぶ。
「愚問よ」
ヴィクトリカは目を合わさずに言う。
顔を見られるのが少し恥ずかしい。
だけど、気にしてないフリをして洗面台で目元を洗った。
泣きはらした情けない顔がいつもの自分に戻ったことを確認してから、頬を叩いた。
「行くわよ」
〖わたしはここにいてもよかったけどな〗
「バカなこと言わない」
控え室に向けて廊下を歩く。
気を抜くと、余計なことを言ってしまいそうになった。
ありのままの自分を受け入れてもらえたのは初めてだったから。
胸の奥があたたかくて、うれしくて。
だけど、それを悟られるのはなんだか気恥ずかしくて。
少し後ろを歩くあの子に顔を見られないように速度を上げた。




