3 特級魔術師と聖なる壁
五年の月日が流れ、アリアは十二歳になった。
あの日の約束をリオンが覚えているかはわからない。
だけど、少なくともアリアは毎日十時間魔法の勉強を続けていた。
座学は自分でもかなりできる方だと思う。
数え切れないくらい練習してきたから、魔法式の精度なら大人の魔術師にだって負けてない自信がある。
しかし、実技面でアリアは行き詰まりを感じていた。
猫をマッサージする魔法は、どんな氷の心を持った猫もとろけさせるマスタークラスまで上達したけれど、他の魔法は出力が極めて低いものしか使うことができない。
極めて難しいとされている無詠唱魔法だから、使えるだけでもがんばってる方なのかもしれないけど。
でも、『誰も真似できない特別な魔術師になれる』と言われた七年前のことを考えると、今の状況にどうしても物足りなさを感じてしまう。
(もしかしてあの言葉も、わたしをがっかりさせないための優しさだったのかな)
本気で言ってくれたと思っていたのだけど、本当は違ったのかもしれない。
普通の詠唱魔法が使えない自分は、魔法の世界で居場所がないのだろうか。
そう思うと、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
こんなに好きなのに。
やっぱり声が出せないからダメなんだろうか。
普通ができない自分にできることなんて何もないのだろうか。
(いけない。弱気になるな。自分を信じる。普通じゃなくても大丈夫)
目を閉じて、心の中で呪文みたいに唱える。
心を落ち着けてから考える。
(そういえば、どうしてマッサージの魔法だけは昔から上手に使えるんだろう?)
わからないことばかりだ。
誰かに教えてもらえればいいのに、と思う。
だけど、七年前の先生には教えられないと言われたし、詠唱魔法を使えない自分を教えられる魔術師がほとんどいないというのも事実だろう。
(わたしがかわいすぎる上に異端の才能を持っているがゆえの悩み)
両親に愛されて育ったがゆえの強めな自己愛を胸に、黒蜜醤油のいか焼きを食べながら頭を悩ませる日々。
「アリア、今度聖壁での記念式典があるんだが」
お父様が言ったのはそんなある日のことだった。
フランベール公爵領の北端にある巨大な壁――聖壁。
魔物が生息する旧魔王領から人々を守るために作られたこの壁は、二千年前の旧王朝時代に作られた。
一年に一度聖女様の偉業を称える式典があって、今年はアリアもそれに招待されているとのこと。
朝早くお母様に起こされたアリアは、寝ぼけ眼をこすりつつ身支度をする。
ふわふわの感触が好きで、毎日着ている薄手のマフラーを巻いて口元を覆う。
(顔が全部見えちゃってると、世界一かわいいわたしにみんなが恋に落ちて困っちゃうだろうから)
優しい両親によって、アリアの自意識は危険なレベルまで膨らんでしまっている。
朝早く家を出発し、公爵家馬車に揺られながら聖壁について書かれた本を読む。
《光の聖女》と《救世の七魔術師》によって作られたこの巨壁は、主として硬度の高い素材を用いた土魔法によって作られている。
分厚い壁には炎、水、氷、雷といったあらゆる魔法への完全耐性が付与魔法によって施されているらしい。
八式エーテル砲でも傷一つつけられないこの壁は、極めて高度な古式魔法によって作られていて、現代最先端の魔法でも再現することができないのだそうだ。
その全長はおよそ400キロ。
90メートルを超える高さの壁が彼方まで続く光景は圧巻で、いか焼きと魔法以外にあまり関心がないアリアも少しの間思わず見とれてしまった。
(世界にはわたしが知らないものがたくさんある)
素直に感心しつつ、馬車を降りる。
壁の周りには出店が並んでいる。
聖壁が作られたと言い伝えられている日に毎年行われているこのお祭りは、ちょうど二千年の節目ということで、例年以上に盛大に行われるとのこと。
有名な人がたくさん呼ばれているらしい。
その中でも特に話題になっているのが、王国最高位の魔術師である特級魔術師の一人が来ることみたいだった。
(特級魔術師……どんな人なんだろう)
特級指定されるためには、他と一線を画す圧倒的な魔力と独自の魔法を持つ魔術師だと認められる必要がある。
込められた敬意と畏怖。
威厳と風格のある大魔術師さんの姿を想像する。
期待があった。
その人なら、無詠唱魔法しか使えない自分も魔法を教えてもらえるかもしれない。
(どんな手を使っても教えてもらわないと……!)
意気込むアリア。
しかし、魔法界で何の実績も無いアリアからすると、特級魔術師は雲の上を超えて星まで届くくらいはるか高みにいる存在。
近づくためには、戦略が必要になる。
アリアは作戦を考えた。
(まずは世界一かわいいわたしの魅力で籠絡しよう)
天才的な作戦だ、とアリアは思った。
(つま先立ちで大人女性感を出して、オーラ込みなら身長三メートルの高身長であることもアピールする。あと、本気にさせちゃった後で傷つけない断り方も用意しないと)
考えながら、お母様と一緒にお祭りを回った。
手帳には〈魔法を教えてください!〉、〈無詠唱魔法のコツってありますか!〉、〈ごめんなさい。わたし、今は誰とも付き合う気が無くて〉と会話用のフレーズが書いてある。
「いか焼きの屋台があるけど、アリア食べる?」
お母様の言葉にアリアはうなずいた。
いか焼きの出店を三つ巡って、味の違いを確認する。
(この隠し味……おそらく傘のひらいていない黒曜茸の粉末)
目を閉じ、いか焼きという名の芸術を堪能していると、前にいたはずのお母様と侍女がいなくなっていた。
(二人とも迷子になってしまうとは)
やれやれ、と思いつつ辺りを見回していると、視界に入ったのは魔法を使った射的ゲームの出店だった。
他の出店三つ分くらいの大きさがあるその奥には、放たれた魔法の威力を数値化して表示する測定器が置かれている。
壁の前に置かれた多面体の水晶に炎の魔法が当たって、繋げられた計器の針が12の値を示した。
「まだ小さいのにすごいね」
サングラスをかけたお兄さんが、背が高い男の子の頭を撫でる。
「次、やりたい人いますか?」
お兄さんの声に、反応したのは近くに居た顔に傷のある男性だった。
「おい、お前やれよ」
「見せてやれって、準二級魔術師の力」
はやし立てる二人に、中心にいたオレンジ髪の男性が首元をさすりながら言う。
「仕方ねえな。いっちょ見せてやるか」
男性は、歩み出て線が引かれた場所に立つ。
空中に何かを描くように両手を動かす。
魔法式が展開して鮮やかに光を放つ。
その魔法式の精度にアリアは見とれた。
(この人、うまい)
「其は疾駆する稲妻。天雷の咆哮。我が命に従い、敵を討ち滅ぼせ」
軽やかな呪文の詠唱。
肌で感じる魔力の気配が、男性が腕のある魔術師だと示している。
「――《雷光閃》」
放たれた電撃が、水晶の多面体に炸裂する。
耳をつんざく破裂音。
振動が足下を揺らす。
計器の針が示した数値に、観衆からどよめきがあがった。
「89点!」
「今日の最高記録!」
声が質量をもって鼓膜を揺らした。
「さすが雷鳴のエギル」
「凄腕とは聞いていたけどここまでとは」
観衆が口々に言い合う声が、アリアには聞こえていなかった。
魅入られたみたいに魔法式の残滓を見つめている。
ずっと一人で魔法の勉強をしてきた。
他の人が使う魔法を見た経験はほとんどなかったし、ここまで高度で質の高い魔法をアリアは見たことがなかった。
近づきたい。
こんなすごい魔法が使える人に教えてもらえたら――
「次は、お嬢ちゃんがする?」
すぐ隣から聞こえた声に、アリアは息を呑んだ。
さっきの人の魔法に見とれて、気づかないうちに前に出てしまっていた。
これでは、次にやりたいと言っているみたいじゃないか。