23 近くて遠い一席分の距離
魔法大学の授業が始まった。
生まれて初めて経験する教育機関の講義。
教授たちの授業は、誰に教えてもらうこともできず独学で五年間勉強していたアリアにとって魅力的なものだった。
朝早くから大学に行き、受けられるだけの授業を受けた。
魔法に関する授業はどれも面白かった。
聞いているだけでアリアは幸せな気持ちになった。
魔法に関連しない授業はどれもよくわからなかった。
アリアは宇宙の真理を聞かされた猫みたいな顔で授業を聞いていた。
〖リオンくん、さっきの授業わかった?〗
氷文字を浮かべて聞くアリア。
一席分間を開けて、隣で授業を受けていたリオンはうなずく。
「旧王朝時代にいた哲学者についての授業だろ。彼が残した思想について説明してた。社会契約論とか無知の知とか」
〖しゃかいけいやくろん? むちうち?〗
「とりあえず鞭打ちじゃないぞ」
〖哲学っていうのがよくわからないんだけど。そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかなって〗
「難しく考えないと生きられないやつもいるんだよ」
〖いか焼きが美味しいってことだけわかっていればあとは大体なんとかなると思う〗
「そのいか焼きへの異常なまでの信頼度の高さは何なんだ」
〖わたし、大切なことは全部いか焼きから学んだから〗
「すごいな、いか焼き」
〖次の授業は魔法式構造学基礎か。リオンくんは?〗
「俺もそれ」
〖また一緒だ。うれしい〗
アリアは目を細める。
リオンは左耳を向けて頬をかく。
同じやりとりはこの数日で何度もあった。
無計画に受けられるだけの授業を受けてみる方針のアリアに対して、リオンが受講する講義も同じものが多かった。
(相変わらず趣味が合うなぁ)
うれしく思いつつ、隣の講義室に移動する。
大学生活が始まって数日。
既になんとなくのグループや交友関係が新入生の間でできはじめている。
授業が始まる。
アリアは目を輝かせて魔法式構造について解説する教授を見つめている。
リオンが横目でアリアを見る。
しかし、アリアは視線に気づくことはない。
一心に前だけを見つめている。
その横顔が、やけに綺麗に見えるのはなぜなのだろう。
リオンは教科書に視線を落としながら考えている。
彼女が突出して恵まれた顔立ちをしているというわけではないはずだ。
周囲の動きを見る限り、彼女は恋愛対象として魅力的というよりは、いか焼きをこよなく愛する変な小動物という印象の方が強い様子。
にもかかわらず、どうして自分にはこんなに綺麗に見えるのだろう。
銀色の髪。形の良い耳。輝く瞳。口元を覆うマフラー。
リズムを刻みながらかすかに揺れる身体。
見ているだけで心臓がいつもと違う鳴り方をする。
リオンにはわからない。
どうしてみんなは彼女に興味を持たずにいられるのだろう。
こんなに、信じられないくらいかわいいのに。
周囲の意向で引き離されてから五年。
馬車で何度も通ったフランベール家の前。
柵の向こうに見える後ろ姿。
ずっと遠くから、盗み見ることしかできなかった。
埋めることが許されない隔たり。
離れていた時間が作るのは幻想だ。
薄々どこかで感じていた。
本当の彼女は、自分が思うほど素敵な相手ではないのだろう、と。
それでもいいと思っていた。
がっかりしてもいい。
嫌なところを見つけたい。
嫌いになれるくらい近づいてみたい。
そう思っていたのに――
(参ったな)
近くで見る彼女は遠くから見ていたときより、もっと綺麗に見えた。
魔法が何よりも大好きで、いつも誕生日にプレゼントをもらった子供みたいな顔で授業を聞いている。
周囲の視線を気にしていない、本当の感情がそこにはある。
だからこそ、眩しい。
どうしようもなく、綺麗に見える。
自分の不純さを痛感する。
魔法が好きなのは本当だ。
だが、俺の『好き』は彼女のように受けられるだけの授業を受けたいと思うほどのものではない。
面白いと感じない科目もあるし、一人なら受けていない授業も多くある。
一緒にいたいから合わせている。
同じ好きを共有しているフリをする。
単純接触効果なんて、本で読んだ知識を使いながら。
彼女が俺を好きになるように誘導する。
人を動かす計算は得意分野だ。
二人の兄を見て育つうちに、要領の良い立ち回りは自然と身についた。
すべては事前に計画したとおりに進んでいて。
なのに、予定外だったのは自分の心の反応。
一緒にいればいるほど好きになっている。
かわいいと思っていたその顔がもっとかわいく見える。
その理由に気づいて、リオンはこめかみをおさえた。
(単純接触効果が効いてるのは俺の方か……)
深く息を吐く。
他の相手ならもっと器用にできるのに。
彼女にだけはどうしてもうまくいかない。
(振り向かせるどころか、六十歳年上の学長が好きかもしれないとか言いだしてるし)
人を好きになった経験が少ないゆえの勘違いだと思いたいが、しかし年上が好みだという可能性もある。
彼女自身が年齢より幼く見える外見をしているから、自分にないものとして大人の方が魅力的に見えるのかもしれない。
(彼女の師……ローレンス・ハートフィールドも年上だし……)
脇目を振らせていると取り返しのつかない事態になりかねない。
早急に彼女の興味を自分に向ける必要がある。
〖ありがとう。リオンくんは一番の友達だよ〗と彼女の結婚式で友人代表のスピーチをして言われるような結末だけは絶対に回避しなければならない。
(もちろん、そのための手は既に打ってある)
魔法の勉強に並行して、恋愛に関連する本を読みあさった。
同年代の女子の間で流行っているというロマンス小説を読み、ぽっと出の俺様系転校生に破れた幼なじみ男に自分を重ねて血の涙を流した。
相手を振り向かせるための教則本を読んだ。
教則本に書かれていたボディタッチのテクニックを試してみた。
自然なタイミングでそっと肩に触れて、弾かれたみたいに手を離した。
触れた指先が熱かった。
自分のものじゃない何かがそこにはあった。
やたらと心臓がうるさいので、気づかれないようにそっけない態度を取るのが精一杯だった。
(やっぱり俺の方が効いてしまっている……)
他の相手になら器用に立ち回れるのに。
なぜ彼女にだけはこんなにうまくいかないのだろう。
横目で彼女を盗み見る。
眩しい横顔。
細い肩との間にある一席分の隙間。
置かれた彼女の鞄。
近づきたいけど、失敗したくない。
らしくない弱気な自分に気づいて、顔を手で覆った。