20 挑戦の結末
『面白い子がいるんですよ』
入学試験の日、その魔術師が言ったその言葉を、学長ダンテ・エルネスティは鮮明に記憶していた。
ローレンス・ハートフィールド。
当時の最年少記録を更新する形で王立魔法大学に入学し、飛び級で卒業して王宮魔術師になった天才。
出世を重ねて瞬く間に特級魔術師にまで上り詰めたが、その性格には問題があることで知られていた。
年上の魔術師に対してもまるで敬意を払わず、雇い主である王室にもまったくといって忖度しない。
歯に衣着せぬ物言いと、この世界のすべてをどうでもいいと思っているような態度。
厭世的な視線の先には、深い諦念があるように感じられた。
自分のことさえも取るに足らないことのように思っているような。
自分自身が幸せになることをまるで勘定に入れていないような感じがした。
同時に彼は、明らかに何かを目的として生きていた。
世間の常識とは異なる何か。
それが何なのかダンテにはわからない。
そんなローレンスが一人の少女を高く評価して、かいがいしく世話を焼いているという話を、ダンテは最初信じることができなかった。
(他人に対してあまり関心が無い性格だと思っていたが)
ローレンスが他者に対して深く関わろうとしている姿を、ダンテは見たことがなかった。
彼は周囲に対して常に一線を引いているように見えた。
誰かと親しくしている姿はもちろん、特定の誰かに肩入れしているところも見たことがない。
ダンテが大学の講師として勧誘した際も、「未熟な魔術師を教えることにまるで興味が持てない」と話していたのを記憶している。
何か考え方が変わるような出来事があったのだろうか。
(あるいは、その子の持つ何かがそれほど強くローレンスを惹きつけているのか)
興味深く思っていたダンテにとって、今回の入学式での模擬試合は願ってもない機会だった。
件の少女と一対一で向かい合って魔法を交わすことができる。
そして今、実際に対峙した少女の魔法にダンテは全身が総毛立つのを感じていた。
(完全無詠唱でこの出力……!)
無詠唱魔法を使うこと自体は、王国最上層にいる魔術師たちにとって難しいことではない。
しかし、それを実用的に使える出力で扱うのは現代の魔法技術では容易なことではない。
異常なまでに磨き上げられた魔力操作と魔法式の精度。
持っている魔力量自体は平均よりも少し高いくらい。
しかし、振動に関する魔法を起動した瞬間、その魔力圧と魔力量は爆発的に上昇している。
(得意とする魔法があるのがわかる。だが、ここまで極端なものは見たことがない)
魔法界の常識では説明できない存在。
どうして無詠唱で異常な出力の魔法を放つことができるのか。
少女の動きを観察していたダンテは、右手で閃く魔法式を見て息を呑んだ。
王国最上層の魔術師であるダンテでさえ、一目では理解できない複雑な魔法式構造。
一切のロスなく魔力を通す美しい曲線と、繊細かつ力強い魔力操作。
魔導式を起動するというその一点に関して、少女の技術と理解度は明らかに他の追随を許さない領域に達している。
(いったいどれだけの練習を積み上げればそこまで……)
幼少期から重ねられた途方もない反復と試行錯誤。
なぜそこまで魔法式の起動という一点について練習を繰り返すことになったのか。
その理由に気づいてダンテは呼吸の仕方を忘れた。
(声が出せなかったことで詠唱魔法が使えなかったから)
みんなと同じことが彼女にはできなかった。
十倍、百倍の量を積み上げても、魔法式は起動しなかったはずだ。
しかし、彼女はあきらめなかった。
何度でも、何度でも繰り返した。
学習能力が高い幼少期から途方もない数を、魔法式を起動するという一点に向けて反復し続けた。
徒労に見える愚かな失敗の時間。
だが、その時間は人知れず常識外の異能を形作っていた。
(欠けているものが作り出した逸材、か……)
久しく経験していなかった衝撃と高ぶりに、ダンテの心は弾んでいた。
(面白い)
◇ ◇ ◇
無詠唱による全方位からの爆発魔法。
教授と職員が懸命に魔法障壁を張る中で、アリアは一心に対峙している学長先生を見つめていた。
全身の感覚を集中させている。
他のものはいらない。
何も見えなくていいし聞こえなくていい。
自分もいらない。
考えなくていい。
何もかもを忘れて夢中ですべてを注ぎ込む。
集中していたからこそ、アリアは目の前の相手から漏れるわずかな魔法式の残滓を感じ取っていた。
(今の魔法じゃ届かない)
アリアの予想は当たっていた。
黒煙が風に揺れるその先。
現れた学長先生は、アリアの攻撃をすべて無効化していた。
身体の全方位を覆う高精細な魔法障壁。
(手が届く範囲は、魔法式を使っても干渉できない。でも、離れたところからだと魔法障壁に阻まれてしまう)
一切の魔法を無力化する二つの壁。
(しかも、学長先生は最も得意とする植物魔法を使ってない)
一番得意な魔法を全力で使っているアリアとの力量差は明らかだった。
少なくとも、今の時点でこの人はアリアよりもずっと高いところにいる。
(いいな。すごくいい)
だからこそ、面白いと思った。
(わたしがこの国最上層の魔術師さんに挑戦できるなんて)
一人でずっと続けてきた魔法。
アリアは知っている。
(たとえ無理みたいに思えても、あきらめない限り可能性は残ってる)
絶望的なまでに高い壁を前にしても、アリアは自分を信じることができる。
胸が弾んでいる。
(探せ。この高い壁を超える方法を)
全神経を集中する。
ひとつ、気になることがあった。
なぜ学長先生が最も得意とする植物魔法を使わないのか。
(おそらく、過去の模擬試合であの障壁を一度も突破されたことがないから)
植物魔法を使わなくても対処できると判断しているのだろうとアリアは推測する。
たしかに見事な魔法障壁だ。
惚れ惚れするくらいの魔法式精度。
でも、それは時に判断を見誤らせる材料にもなる。
制限時間は多分残りわずか。
これが最後の攻撃。
だからこそ、アリアは自分のすべてを込めることを決める。
《氷結》
振動数を下げることによる氷結魔法。
アリアの目の前から氷の波が学長先生に向けて疾駆する。
学長ダンテ・エルネスティは何もせずにそれを見つめている。
何もする必要が無いからだ。
魔法障壁が氷の波を止める。
攻撃は届かず、二人の間に凍り付いた跡だけが残る。
瞬間、アリアは用意していた振動魔法を起動した。
《解放》
振動による爆発。
発生源は、アリアの背中側、手を伸ばさなくても届くほどの至近距離だった。
アリアの背後を眩い光が染める。
鼓膜を叩く爆発音。
銀色の髪が舞う。
爆風がアリアの背中を押す。
弾丸のように弾かれたアリアは、そのまま氷の上を滑って距離を詰めた。
目にも留まらぬ速さ。
まばたきの間に二人の距離が詰まる。
(遠くからでは魔法式を起動できないなら、至近距離で直接起動させれば良い)
もちろん、学長先生はそれに対する対応策だって持っているはずだ。
だからこそ、不意を突いて切り替える時間を与えない。
初見だからこそ通用する奇襲。
手を伸ばして魔法式を起動する。
全身で体当たりしながら、魔法を身体に直接叩き込む。
自分を守ることは考えない。
自爆でも攻撃魔法を当てれば勝利条件は満たされる。
(行け――っ!)
前髪が激しく揺れる。
空気が頬を切る。
(王国最高レベルの魔術師に一発当てる――!)
崩れそうになるバランスを懸命に維持しながら突進するアリア。
至近距離で起動する魔法式。
身を守ることは考えない。
自分諸共吹き飛ばす爆発魔法。
魔法障壁の内側で爆発魔法が閃く。
瞬間、目の前に広がったのは花の壁だった。
咲き誇る無数の植物の壁。
展開したそれはクッションのようにアリアの身体を受け止める。
振動魔法による光の奔流と植物魔法の壁が交錯する。
燃焼反応は植物の壁を焼き尽くす。
しかし、植物の巨壁は濁流のように次から次に現れて爆風を相殺した。
気づいたとき、アリアは植物の壁にくるまれている。
沈黙が壇上を浸す。
誰も何も言えない。
張り詰めた空気が肌を刺す。
(届かなかった、か)
アリアは深く息を吐く。
「そ、そこまで!」
司会の人が上ずった声で言った。
「非常にレベルの高い攻防でした。植物魔法に絡め取られたアリアさんは惜しくも敗北という結果に終わりましたが、しかしその魔法は間違いなく見事なものでした。盛大な拍手を」
しかし、拍手は響かない。
想像を遥かに超える目の前の光景。
混乱が観衆を包んでいる。
「待て。その判定は間違っている」
遮るように言ったのは学長先生だった。
「彼女の魔法は儂に届いていた」
右手を動かしてローブを示す。
観衆たちは息を呑んだ。
ローブの右端の一部に焦げ跡がついている。
「この国で最も優れた付与魔法使いの仕立てたローブだったのだがな」
静かに口角を上げて続けた。
「儂に初めて攻撃を当てた新入生、アリア・フランベールに盛大な拍手を」
どよめきと戸惑い。
少し遅れて、経験したことのない音圧の拍手が響いた。