1 声が出せない少女
「アリア様……本当にいいんですか?」
王国有数の名家であるフランベール公爵家本邸。
栗色の髪をした侍女は低い声で言った。
「これほど強大な相手に私は出会ったことがありません。そもそも、私は平民出身で魔法を使うこと自体初めてなんです」
張り詰めた空気。
侍女の言葉には不安の色がある。
「もし失敗したらいったいどんなことになるか……」
対して、視線の先にいる少女は静かにうなずきを返した。
迷いのない瞳。
銀色の髪が深紅のマフラーにくるまれてふわりと広がっている。
その口元はマフラーで覆われていたが、少女の所作は言葉よりも雄弁に彼女の意思を伝えていた。
「わかりました。やります」
侍女の声は少しふるえていた。
怯え。畏れ。
自分が対処できる相手ではないかもしれないという不安がある。
屋敷の資材置き場に広がっていた深い闇。
おぞましく、見ただけで寒気がするそれに抵抗できるような技術を彼女は持っていない。
それでも、これは自分がどうしてもやらないといけないことだから。
侍女は覚悟を決めて、少女に教えられた言葉を口にした。
「其は清浄なる流水。一切を浄化し、分解し、死滅させる」
おずおずとした手つきで描く魔法式。
侍女が初めて描いた魔法式は、白い光を放って薄暗い部屋を染めた。
眩しさに目を閉じる。
少しの空白の後、恐る恐る目を開けた侍女は息を呑んだ。
「嘘……あれだけ深い闇が一瞬で……」
それはさながら奇跡のような光景に見えた。
鮮やかに光を放つ魔法式と、一切を浄化する白い泡。
(やっぱりこの子、すごい……)
侍女は横目で少女を見る。
口元をマフラーで覆った少女は、目を輝かせて侍女の魔法式が広がったその空間を見つめている。
「――という感じで、アリア様に教わった魔法が本当にすごかったんですよ。地獄みたいに広がっていた黒カビが一瞬で綺麗に。あれは本当に奇跡のような光景でした」
二十分後、熱のこもった口調で侍女は資材置き場での出来事を話していた。
「馬毛のブラシで一時間格闘しても全然落ちなかったんですよ。地下室の頑固な黒カビが一息でするするっと落ちちゃったんです」
「あれを落としたの!? すごいね、それは」
驚いた顔で言う同僚に、侍女は続ける。
「魔法なんて使ったことがない私が、少し教わっただけでそんな魔法が使えたんですよ。魔力だって全然ないのに。本当に奇跡みたいな光景でした」
「私が《割れたお皿を修復する魔法》を教わったときもそうだったな。魔法の素養が無い人に魔法を教えるのはすごく難しいって聞くのに」
「魔法に対する知識量が本当にすごいですよね。まだ十二歳の子供なのに」
「一日中魔法の本を読んでるもんね。この前なんて、歩きながら分厚い本読んで壁にぶつかってたし」
「好きなことに夢中でいいなって思います。でも、だからこそ少し悲しくなるというか」
栗色の髪をした侍女は、顔を俯けて言った。
「詠唱さえできたら、誰にも負けないくらいすごい魔術師になれているはずなのに」
「あんなに詳しいのに自分ではできないんだもんね」
沈黙が流れた。
同僚の侍女は少し間を置いてから続けた。
「でも、アリア様は全然そんなこと気にしてないと思う。いつも魔法に夢中で本当に楽しそうだから」
「そうですね。勉強のしすぎで身長が伸びてないのは少し心配ですけど」
「背が小さいのは結構気にしてるみたいだよね」
「そういえば今日、オーラを含めれば身長三メートルあるってよくわからないことを仰ってました」
「全然現実が受け入れられてない……」
困惑した声が部屋に響いた。
物心つく前から、アリアは声が出せなかった。
それは彼女にとって自然で当たり前のことだった。
最初は思っていた。
すぐに自分も話せるようになるのだろう、と。
だけど、いつまで経っても話せるようになる日は来なかった。
自分より幼い子が楽しげに友達と話していた。
アリアは少し離れたところから、それを見ていた。
どうして自分だけ声を出すことができないのだろう。
みんなと話すことができないのだろう。
理由を教わったのは四歳の頃。
首筋についた白い痣のような何かがその原因だと教えられた。
「気にしなくて良いのよ。聖痕を持って生まれるというのはすごく名誉なことなんだから」
お母様はアリアをぎゅっと抱きしめてそう言った。
《白の聖痕》
それは、聖女の血を引く子供に稀に現れる身体機能が欠損する現象だ。
原因はわかっていないし、治療する方法も見つかっていない。
(わたしは声を出すことができない。死ぬまでずっとこうなんだ)
その事実は、アリアの胸をきゅっと締め付けた。
未来がすべて、闇に閉ざされたように思えた。
同い年の子の声を聞くたびに、心が凍り付くのを感じた。
痛かった。
どうして自分は、みんなと同じようにできないのだろう。
誰でも当たり前にできることなのに。
普通と言われている世界が遠く感じられた。
周囲の子たちはとてもついていけないくらい先に進んでいるように見えた。
世界は灰色だった。
何をしても楽しくなかったし、何を食べても美味しくなかった。
楽しげに話す子たちの姿を離れたところから見つめていた。
そんな日々の中で出会ったのが一冊の本だった。
父に連れられて訪れた古書店。
埃被った本棚の片隅で、それはひっそりと売られていた。
奥行きがある幾何学模様の装丁。
奇妙でミステリアスで不思議な本。
上の方を小さな指でひっかけて取り出す。
埃が舞ってちらちらときらめく。
ざらついた表紙の感触。
赤茶けた紙の香ばしい匂い。
『私は、普通ができない子供でした。周囲の子とはうまくやれず友達は一人もいませんでした』
習ったばかりの文字を少しずつ読んだ。
意味を理解して、周囲の空気がしんと冷えたのを感じた。
『ものをよくなくすし、片付けもできない。予定通り行動できないですし、空気もうまく読めません。でも、そんな私にもひとつだけできることがあったんです。他の人よりうまくできることが』
アリアは魅入られたように子供には難しい言葉を読み進めた。
『この本で私は二つのことを伝えたい。ひとつは、自分を救ってくれた魔法の魅力。魔法があったから生きていることができました。救ってくれた魔法に少しでも恩返しがしたい。そしてもうひとつは、普通なんてできなくても自分の価値は少しも下がったりしないことです』
ページをめくる。
香ばしい古書の匂いが鼻腔をくすぐる。
『価値は命に結びついています。生きてるだけで貴方には価値がある。何万年もの間、たくさんの人が命を繋いでできた奇跡なんですから。どんなときも貴方はひとりぼっちじゃない。私は貴方の幸せを願っている。人類を救った《光の聖女》が私たちの幸せを本気で願っていたように』
夢中で読みふける。
外の音は聞こえなくなっている。
気づいたとき、古書店には茜色の日射しが射し込んでいて、お父様は困ったみたいに笑って「やっと気づいてくれた」と言った。
「その本は買ってあげるから。続きは帰ってからね」
アリアは大きくうなずいた。
だけど、我慢できなかったので帰りの馬車の中でもずっと読んでいた。
馬車に酔ったけど、そんなことよりも続きを読みたい気持ちの方が強かった。
その本の言葉はアリアの中に不思議なくらい自然に入ってくるように感じられた。
本気で伝えようとしてくれているのが伝わってきたし、そこに浮かび上がる魔術師さんの人柄がアリアは好きだった。
そして、本の中に広がる魔法の世界は、アリアが知らないことばかりだった。
移動する巨大な森や、海の底に眠る海底神殿。
旧魔王領の最奥にある【還らずの禁域】
《光の聖女》と《救世の七魔術師》が二千年前に残した伝説の数々。
知れば知るほどもっと好きになった。
アリアは本をぎゅっと抱きしめて、香ばしい匂いを嗅いだ。
本を閉じる。
どうしてだろう。
目に映る全てがいつもより綺麗に見えた。
すべてが灰色に見えていたのに。
まるで今までとは違う自分になってしまったみたい。
(本ってすごい! 魔法ってすごい!)
アリアは時間を忘れて魔法の世界にのめり込んだ。