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馬の背の橋 物問川居座りの初夏 屋根付きの橋に住み着いた癖ツヨの面々。祭りにの日に何かが起きる?  作者: あべ舞野


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六日目 七月十三日 御徳苑でメンツが揃った。やり取りするモノは…

六日目 七月十三日


 朝の七時だ。防災ラジオの定時放送が始まった。

『...昨晩未明に馬瀬市...町で男性の水死体が発見され、その場で死亡を確認...身に着けていたのは肌着だけで身元確定につながる物は...流域沿いの各キャンプ場で行方不明者がいないか確認作業を...』

「朝テレビで見たな」

 ハジメが呟いた。地元の出来事だ。ローカル局で放送していた。死因は水死。パンツ一枚で全身に打撲痕。増水した川に流されて岩や漂流物にぶつかったせいらしい。事故と事件の両面から調査中との報道だった。

 玲市とハジメは気まずい雰囲気のまま食卓を囲んでいる。

「その町ってどの辺?」

「隣町だよ。車で一時間くらいかな。僕らの管轄地域との境だったから一応呼び出しがかかった感じだね。警察はもう来てたから車線規制とかやじうま整理の手伝い。遺物がないかちょっと捜索もしたね」

「ふうん...」

 昨日の会話が尾を引いているのか。話はするがハジメの表情は固まりがちだ。

「それで捜索に今日も行くけど、配食は不要だよ。御霊流しがもう明日だろう? だから皆は部屋を開けて避難...じゃないな。移動して誰もいないよ。手伝った」

「え? いつ? 爺ちゃんも?」

 ハジメが帰宅したのは夕方だ。いつゼロがそんな作業をしていたのかさっぱり気が付かなかった。

「うん。夜のうちに動いた。あ、食べたら駅まで送るよ。何時がいい?」

 思いっきり帰れの催促だ。ハジメは口を尖らせた。

「御霊流しまで置いてくれるんじゃなかったか」

「そうだね」

 意外とあっさり玲市は引き下がった。

「前日だから協会の仕事もそれなりにあると思うよ。良ければそっちへ行ってみる?」

「うん」

 ハジメは腕をぐるぐる回した。

「あ~もう体を動かしたい! 湿っぽくて適わないよ」

 何もすっきりしない。


 


 観光協会の中では今朝のニュースでもちきりだった。物問橋から離れた場所とはいえ、地元での事件だ。

「そういえば奥の方へ猿とラーメン屋が行ってなかったか。まさかあの二人が結託して...」

 羽舞がケラケラ笑って手を振った。

「嫌だ~まさか! ゼロちゃんはずっと橋にいたじゃない。あのシャツだよ~皆見てるでしょ?」

 ああ、とその場の者は頷いた。

「あのメットも持ってたな」

 ハジメはラーメン馬瀬のヘルメットをかぶったままだった。意図せずに玲市のアリバイを作っていた。羽舞は知っていながら白々しく疑いの目を逸らす。

「あの人畜無害のゼロちゃんが悪い事するはずないよ~。さあ開門だぁ」

 羽舞は鍵の束と傘を持って橋に向かった。きょろきょろ、と周囲を見渡す。天気のせいでご近所の散歩も殆どいない。それよりも橋の扉がもう開いていた。

「え~?」

 ちゃんと昨晩は施錠したはずだ。屋根が雨を防ぐ。傘を畳んで橋をすすんだ。男女の声がする。猿と女王が帰っていた。部屋の前で何か言い合っている。赤い面が羽舞を見つけてやって来た。コンビニのビニール袋を下げている。

「おう、ぶりっ子! 爺さん知らないか? 朝飯を持って来たんだが居ねえんだ」

「そんな呼び方、やめてもらえますぅ? ていうか、鍵を開けたのお猿さん? 勝手に開け閉めしないでほしいんですけど」

 女王がヒールを鳴らして近づいた。湿気があっても髪のロールは完璧だ。赤い唇を歪めて羽舞を見下ろす。

「ここの連中って手癖はどうなの?」

「何のお話かな? うーちゃん分かんない」

 ちっと舌打ちした。女王は猿に言った。

「ちょっとどうしてくれんの」

「俺だって知らん」

 羽舞は鍵の束を指でくるくる回した。わざとらしく声を張り上げる。

「ゼロちゃんから伝言を預かってたんだ~思い出した!」

 二人の目線が集中する。

「御霊流しの間、部屋にも飾りつけで人が入るじゃない? だから皆で一時退去します、良ければご一緒にいかがですかって」

「どこだ」

「うーちゃんそこまで聞いてないもん。夜ならここに迎えに来られるって言ってたよ」

 二人が顔を見合わせた。羽舞はにっこり笑う。そしてくるっと背を向けた。また何か言い合いを始めたようだ。しかしそこまで関知するものではない。耳に蓋をした。羽舞のミッションは、開門して二人に玲市の言葉を伝えるだけだ。

 夕べの会話がフラッシュバックする。呼び出されて夜の街道沿いで話した。メールやメッセージを残したくないそうだ。

『でも、もし猿が来なかったらどうすればいいの?』

『絶対来るよ。朝のうちに来てくれるといいけど』

 玲市の予言は的中した。御霊流しは明日だ。羽舞も忙しい。このタイミングで助かった。何も知らない、知らないのだ、と何度も自分に言い聞かせながら協会に戻った。

 配布するチラシの仕分けや当日の人員整理の当番表も印刷しなくてはならない。本業が目白押しだ。増水した川への注意喚起の札も必要だ。今日のうちに出店の屋台も到着するだろう。場所の目印をつけるのも協会の役目だ。

 ......晴れるといいな......

 これも小さな祈りであった。


 前日準備は、日が暮れても終わらなかった。雨に濡れながらもイベント用の舞台が作られた。ブルーシートがかかった屋台もイベント広場に並ぶ。後は明日を待つばかりとなってから、ようやく人の姿もなくなり、観光協会の電気も消えた。

 何時と約束はしていない。玲市が部屋にいた二人の前に現れたのは十時過ぎだ。猿は不機嫌な声を上げる。

「遅いぞ、ゼロ」

「いないかと思った。扉が開いてたね。猿が開けたの?」

「そうだ。お前が入れないと困るからな。それでどこへ行くんだ?」

「車だよ」

 行き先をはっきりとは伝えない。玲市がくいっと顎を反らせた。二人は険しい顔付きだが着いて来た。玲市の車は無人の職員用駐車場にあった。

「俺の車も観光客用の方にある」

「知ってる。でも取り敢えず乗ってくれるかな」

 玲市はさっさと運転席へ乗り込んでキーを回した。

「無断駐車だから早く出たいんだ」

 後部座席は濃い赤茶の染みが点々と付いている。女王が顔をしかめた。

「ナニこれ。汚いわね」

「爺さんの血だよ。洗車する暇が無かったんだ」

 返事は無かった。

 タイヤが水を弾いて静かに発進した。後部座席の猿に、ハンドルを握る玲市の目元がルームミラーに映って見える。相変わらず何も読み取れない。猿が言った。

「俺たちが来ないとは思わなかったか?」

「そうだねえ...」

 ちょっと目が細くなった。鏡越しに視線が合う。細くなった瞳は、まるで微笑んでいるようだ。玲市はすぐに前を向いた。黒い森が近づく。物問神社だ。あの塀の扉近くに車が停まった。街灯がなくてほぼ真っ暗だ。

「そこ」

「はあ? ふざけてんのか」

「いやいや。皆いるよ」

 玲市はダッシュボードから小型の懐中電灯を出した。手のひらに収まるほどのサイズだ。車の鍵をかける。

 そして壁の一部に手をかけた。そこは木の板だ。上部だけがネジで固定されている。サーフボードほどのそれを、ぐるりと上に回した。一人だけ通れる隙間ができる。先に滑り込み、隙間から顔をのぞかせた。

「もし来なかったら? でも来たよね? 彼女は絶対に来てくれると思ってたよ」

 それからさっと姿を消した。片手だけ見せる。手首を曲げておいでおいでと招いた。最後に親指と人差し指を立てた。他の三本は曲げたまま、すっと大きく上下に動かす。銃を発射の手真似だ。

 猿が怒鳴った。

「付き合ってられるか。帰るぞ!」

 しかし女王が言った。

「行くわよ。行ってやろうじゃないの」

 中は暗い。膝までの高さの草はびしょ濡れで、すぐにスカートは湿り始める。猿も中に入った。ばたん、と板が回って出入口を閉じた。遠くにぼんやり街灯が見える。それ以外は玲市が振り回す懐中電灯だけだ。

 彼はひょいひょいと飛ぶように先を行く。

「待ちなさいよ!」

 一足先に追いかけようとする女王を、猿が急いで止めようとした。だが遅かった。彼女の姿は突然消えた。悲鳴が響く。

「痛いっ、熱い! 何よコレ! 臭い!」

 何が起こったのか分からない猿も数歩進んだ。途端に前のめりに転ぶ。手を付いた瞬間、鼻の先でばちっと音がした。丸いワイヤが閉まる。

「どうせなら一緒に落ちて欲しかったな」

 少し先で玲市が言った。小さいとは言え暗闇だ。灯りの後ろで表情が見えない。

「...罠かい...」

「動物用だよ。女王様が落ちたのは水琴窟跡だね。たくさんあるんだ。ときどき動物が落ちるんだけど、そこにもいる? 消石灰を撒いたばかりなんだ。眼をこすらない方がいいよ」

 学校の校庭でかつて白線を引くのに使われていた消石灰だ。消毒にも利用される。水を含むと発熱して肌や粘膜に付着すると炎症を起こす事があり、さらに目に入れば失明の危険性もある。

「御徳苑は山水の庭だったんだ。知ってるかな? 湧水があるし今も湿地ぽくってね。足元が悪いんだ。気を付けないと危ないよ」

 玲市なりの目印があるのか。安全な道筋があるはずだ。猿はまだ起き上がらない。だんだん目が慣れてきた。近くならぼんやりと様子が分かる。しかし雑草が繁茂している。どこに何があるか掴めない。そっと手を伸ばすと、穴の縁だ。罠の仕掛けといい、下手に動くと危険だ。

「お前はどうしてこんな真似をする?」

「落ち着いて聞きたい事があったんだ。ねえ女王様。なぜ爺さんを突き落としたのかな?」

 え、と猿が上半身を起こした。穴から声がする。

「知らないよ!」

「気が付かなかったのかなあ。橋には監視カメラがあるんだよね、矢倉(やくら)みどりさん。『バーみどり』ってひねりが無さすぎない? ねえそちらの太田(おおた)国定(くにさだ)さん」

 突然名前を呼ばれて二人の体が硬直する。

「それが本当の名前か僕は知らないけど、少なくとも免許証の名前だね」

「お前はいつ見た!」

「鍵が無くて不用心な部屋だよねえ」

 二人そろって部屋を留守にした記憶はない。しかしほんの僅かでも隙があれば侵入は可能だ。爺さんがいれば、玲市の訪問の言い訳はなんとでもなる。玲市は灯りの前に左手を突き出した。また二本の指で拳銃の形を作ってみせる。

「ぱ~ん」

 女王の声が低くなった。

「お前か! 人の銃を盗みやがって!」

 逆に猿の声音は高くなる。

「何で銃なんか持ってんだよ!」

「うるさい!」

「そういえばバタフライナイフって言うんだっけ? あれもあったね。物騒だよねえ」

 銃を撃つジェスチャーを二度もやったのに、あくまで玲市は白々しい。

「...まあ女王様はきっと来てくれるだろうと思っていたよ。あ、猿。あんまり動かない方がいいよ」

 玲市の手に銃があるとしたら。猿はその場でじっと彼を睨んだ。面の塗料が流れ出して胸元を染めている。

「爺さんもオバサンも、名乗らないよね。名前なんか記号だって言ってるけど、名乗るべき名前がないからじゃない? 君たちの商品は名前...戸籍なんだろう?」

 風が枝を揺らす。ざああっと水滴が大量に落ちて三人を濡らす。

「分かったから出してよ。痛いのよ」

 ナニを理解したのか舌に砂糖を乗せた声で女王が訴える。けれど徒労だった。玲市はその場から動かない。

「まだ答えてもらってないよ。どうして爺さんに怪我をさせたのか。下手したら死ぬところだった。爺さんの名前を売っちゃったのなら、もう居ないはずの人だよね」

 わざわざ危害を加える理由が分からない。しかも階段から落とすとは、殺すには不確実すぎる。

「保険かな?」

「うるせえなあ! 上手くいけばくたばったのに」

 女王の金切り声が響いた。

「死のうが怪我だろうがどっちでもいいんだよ! ジジイの戸籍買った奴がばっくれちまった。保険会社から何度も金をひっぱりやがって、もう疑われてるんだよ」

 まず戸籍を第三者に売り渡す。買った者はその名義を使えば本来の自分を隠したままで活動できる。

 例えば自分の写真を使って免許証を作る。そして借金。

 例えば保険金詐欺。怪我や病気だと偽って保険金を搾取する。いざとなれば偽の身分を放棄して本来の自分に戻ればいい。

 爺さんの成りすましが逃げてしまったようだ。ばれると警察沙汰だ。仲介の女王もただでは済まない。しかし『本人』が死亡なら全ては闇の中へ押し込められる。怪我であっても責任は『本人』。口止めはもちろん必要だが。

「じゃあどうして保険屋さんまで来たんだ? あ、猿。動かないで」

 玲市はさりげなく猿の動きまで目を配っている。猿はぎりぎりと歯を食いしばった。爺さんへの加害者は八木沢ではなかったのか。

 女王が叫ぶ。

「そいつは知らないよ!」

「へえ? 昨日見つかった水死体って誰だろうね?」

 女王が乾いた笑いを立てた。

「知らないってば。もし八木沢なら勝手に来たんでしょうよ。せいぜい小金でも太田から強請(ゆす)って、『本人』はいなかったなんて事にしたかったんでしょうよ。ねえ太田! 案外アンタがやっちまったんじゃないの?」

 猿は拳を握りしめた。

「みどり...。俺とパートナーになってくれるって、俺を迎えに来たんじゃなかったのか...」

「バッカじゃないの。アンタの戸籍ももう売っちまったじゃないの。もう商品を持ってない奴とどうするって?」

 猿と爺さんは、かつて女王の客だったようだ。

「ねえちょっとお兄さん! あんたとなら組んでもいいわよ。その度胸と人を小馬鹿にした話し方も痺れるわ」

 誉め言葉だろう。女王は続けた。

「銃とナイフを盗んだのも許してあげる。さっさとイカレタお面なんか撃っちまって。アタシと来たら後悔させないわよ」

「その前にもう一つ。安中井乃を覚えている? 二年前まで『みどり』でバイトをしていたはずだ」

 これは安中から聞いた情報だ。 

「そんな昔の話、覚えていないわよ。女の子なんて入れ替わり立ち代わりだもん。ねえ~早く出してよ~」

 もう一つの灯りが近づいた。玲市の光よりも頭一つくらい高い。それが穴に近づく。まともに女王の顔を照らした。長い髪が垂れた。もう片手の銃口が光った。安中己龍だった。

「どのお面を撃つかは俺の勝手だな」

 眩しさだけではなく、女王の瞼が激しく瞬いた。

「アンタ誰?」

「誰でもいい。井乃はまっとうに働いていたんだ。なのに戸籍を売ったな。知らん請求や身元確認の電話とかやたら来た時期があった。お前だな。正直に言え。先に言っておくぞ。何もしゃべらない口は要らん」

「笑っちゃうね。何がまっとうよ。アタシの手伝いをしてたんだよ。橋にまだいるだろう、あの婆さんの戸籍を買って欲しいって言って来たのもアイツだよ」

「やっぱり知ってるんだな。誰が殺した。何故?」

「本当にしつこい。ウザい! 井乃の買い主が保険の請求でバカをやらかしたんだよ。で、八木沢が調査に来やがった。井乃は警察に行くだとさ。もう死にたいって言うからザックリといってやったよ。アンタ彼氏? どうなったか見たよね」

 女王は首に指を当ててすっと横に引いて見せた。イベント広場の奥に人目はない。女王の服装なら観光客に紛れて目立たないだろう。

「どうせアタシも殺すんでしょ。面倒くさいな、さっさとやりなよ」

 ふう、と息を吐いたのは誰だろうか。雨音だけが響く。

「撃たないで下さい」

 最初に口を切ったのは玲市だった。

「その為に呼んだんじゃありません」

「...コイツだ。間違いない...」

「安中さんの髪、井乃ちゃんと同じくらいですね。もしも井乃ちゃんがそこに居るのなら...撃ちますか?」

「うるさい...じゃあどうして銃を俺に見える所に置いたんだ?」

「隠したつもりだったんですが」

 玲市はちらっとプレハブ小屋を見た。管理は神社ではない。しかしどうしても安中に入ってもらう必要があった。そこで見つかってしまったようだ。

「...このままコイツらを帰すわけにはいかない。ここに埋めてしまえば誰にもばれない」

「安中さん! ダメだ、僕が知ってる。猿、動くな!」

 そこへ、ざく、ざくと新たな足音が近づいた。傘を差した人影は右へ左へ危うく揺れる。一緒に風船も動いた。灯りが乏しくて真っ黒なこぶを幾つも従えているようだった。爺さんだ。

「雨だよ、夜遊びは冷えるよ、もうお帰り」

 不穏な空気に気が付いたのか付け加えた。

「喧嘩は良くないよ。みんな仲良くね」

 安中は歯を食いしばった。額にほつれ髪が貼りつく。雨だけではない。汗も全身から噴き出していた。束ねた髪の先から水が滴る。濡れた服はもう一つ肌のように皮膚にはりついた。

「くそ...!」

 銃口を下げる。引き金を引いた。地面に向かってぱしゅ、と軽い音がする。カタストロフィを呼んでくれるほどの勢いがない。

「何でこんな情けない音なんだ...」

 女王の声が震えている。

「ば、バカじゃないの。当たり前でしょ、サイレンサーが付いてるじゃない」

 ふふ、と安中が笑った。額をこする。

「そうか、サイレンサーね。そうか...」

 それからしばらく腕を顔から動かさなかった。ライトが右側に逸れる。暗い木々の幹が黄色く照らされて流れ落ちる水が黒く光った。

「安中さん、爺さんを連れて帰ってもらえますか?」

「お前はどうする?」

「すぐ行きます。あ、元の場所に戻しておいて下さいね」

 この僅かな間にも、猿の手が休みなく周囲を探っていた。小枝を拾って地面を突きながら少しずつ進む。玲市が通った足跡を辿れば安全だ。ふと固い物を突いた。目を凝らす。ギザギザの金属の歯が向かい合っているトラバサミだ。かかれば大怪我を負う。動物用だが散歩中の人やペットに誤用される恐れがあるので使用規制がある。

(こんなシロモノまで用意かよ。マジかよアイツ)

 猿は玲市に声をかけた。

「井乃とはどういう関係だったんだ? 彼女か」

「ううん」

 彼女が命を落とす数日前だ。橋で再会した。どうしてオバサンと暮らす事になったのか聞きはしなかった。彼女はただこう言って笑った。

 ...私、もう何者でもなくなったから。もう自由に過ごすから...

 戸籍は自分の意思で売ったのか。もう確認はできない。ただ()り所をなくしたのは事実だ。実家にも帰りにくかっただろう。それでも生まれ故郷で過ごすのを選んだ。金色だった髪も元に戻した。

「こんな真似してお前にどんな得があるってんだ?」

「うん。何かやったって事が残る」

 指にひっかかった命を離さずにいられた。それだけだ。猿は腕ほどの枝を拾った。それをトラバサミに突き刺す。

「俺をどうこう出来るなんて自惚れちゃいないだろうな!」

 ばち、と罠が閉じた。同時に立ち上がった。面を外して玲市に投げつける。振り払ったがライトを落とした。すかさず猿が襲い掛かる。すぐ近くまでにじり寄っていたのだ。頬に拳が飛ぶ。襟首を掴まれた。

「お前は馬背(ませ)キツネか? ふざけやがって」

 体格の差がある。二の腕に力こぶが盛り上がった。腕力の差は歴然だ。腹に膝蹴りが入った。玲市は呻いて体を曲げた。そのまま押し倒される。首が絞められて意識が遠のいた。

 女王が静かになった。様子を窺っているのだ。猿は懐中電灯を拾った。穴を照らす。泥にまみれた女が目を眇めた。残った男に向かって赤い唇が弧を描く。

「あら...やっぱりアナタしかいないわよ。あの時はああ言うしかなかったの。分かるでしょ、ね?」

「そうだな」

 足元のワイヤーを手繰った。最初に締まった罠だ。両端をそれぞれ握った。灯りは何とか右手で持った。

 穴に垂らすには充分だ。

「八木原には何とか誤魔化すわ」

「あいつはもう来ねえよ」

「え? 追っ払ったの?」

「ああ、彼岸の方向にな!」

 穴に伏せるようにワイヤーを垂らした。女王の首にかける。

「天国まで引き上げてやるぜ」

 懐中電灯が手を離れて飛び、雨に濡れる暗い森を僅かに照らした。



 安中は爺さんを連れてプレハブ小屋へ戻った。合鍵は夕べのうちに玲市から預かった。出力最大になっているであろう電気ストーブと、しかめっ面のオバサンが出迎えだ。一気に熱気が押し寄せる。安中は彼女に負けないくらい顔を歪めた。

「暑い」

「涼しいくらいだよ。風邪でも引いちゃかなわない」

「いや湿気がなあ」

 ふん、と鼻を鳴らしながらも、壁際の棚から乾いたタオルを投げてくれた。爺さんは傘のおかげであまり濡れていない。傘を出入口付近の大きなバケツに放り込み、マットの一つに寝転がった。いそいそと風船を撫でている。

 安中は顔を拭った。オバサンが不安げに扉の方をうかがった。

「ゼロは?」

「すぐ来るとは言った。でも俺もすぐ戻る」

 内部は十畳ほどの広さだ。資材小屋だけあって天井はあまり高くなく、棚は豊富だ。幾つかマットが敷かれて寝袋も置いてある。水やレトルト食品もそこに準備してある。折り畳み式のテーブルの上には電気コンロ。鍋とやかんもある。奥には簡易トイレとシャワー室まであった。数日はこもって過ごせそうだ。

 マットの上では公俊がいびきをかいている。

「酒居先生はよく寝ているな」

「コーヒーのおかげだよ。でももう嫌いになるかもしれないね。飲んで三十分もしたら寝ちまうコーヒーなんて、そうそう飲みたいかい」

 夕べと今晩とも玲市が差し入れたコーヒーを飲んでぐっすりだ。

 安中の額にうっすら汗が浮く。背中にシャツがからみつく。

 ...やれやれ...

 今晩は眠れるのか。安中は二晩続く寝不足を覚悟した。

 話は昨日へ戻る。安中が玲市から呼び出された時間は深夜だった。場所は物問橋。扉が開いている。階段の上で玲市とオバサンが待っていた。

「忙しいところをありがとう、安中さん」

「全くだ」

 オバサンが目をぱちくりさせた。何か聞きたそうだ。だが二人ともそれには構わなかった。なるべく早くこの場を離れたい。

「オバサン、先に車に乗っていてくれる? すぐ下...観光協会横に一台しかないからすぐ分かるよ」

「ああ」

 彼女は風呂敷と黒い布袋を手に、ゆらゆらと歩く。玲市は安中に声をかけた。

「絵描きさんを背負うから手伝ってください」

「了解」

 公俊は椅子でずり落ちそうなほど体を曲げて眠っていた。

「起こさなくていいのか?」

「眠ってもらったんです」

 出ていくのをゴネソウだったからだ。詳細を説明する時間も必要もない。もしここに置いておいて何か危険があったら困る。玲子の薬には鎮静作用の強い物もあった。末期の痛みを抑える為だ。それは強い眠気をもたらす。濃いめに淹れたコーヒーでは、あまり味を感じられなかったようだ。

 それから寝ぼけまなこの爺さんを、安中が支えながら階段を下りた。

「猿は?」

「多分女王とお泊り。でも様子でも見に来られたら厄介だから」

「そうだな。急ごう」

 住人全員、特に怪我人の爺さんがいないのであれば、彼らの行き先を尋ねるだろうし、着いてくるだろう。御徳苑に二人を呼ぶ為に住人を連れ出すのだ。

 その為に玲市は倉庫の内部に居住できる環境を用意したのだ。使える時間はわずかだったろうに、彼は何とかやり遂げた。御徳苑跡のトラップもだ。

 二人がおびき出されるのは五分五分だろう、と安中は思っていたのだ。だが倉庫に来て確信に変わった。彼は玲市よりも頭一つ背が高い。つまり視界が広いのだ。棚の上部の箱の後ろに隠されるように置かれていたピンクの袋に気が付いてしまった。玲市の隙を狙って中を確認する。銃と大型のサバイバルナイフだ。何故、誰の物か。しかしこれがあるからこそ、玲市は彼らをここに呼べると踏んだのだろう。

 安中の回想はオバサンの声で破られた。

「アンタ、お嬢の家族かい」

 お嬢が井乃を指すのはすぐに分かった。

「...ああ、そうだ」

「お兄ちゃんかい」

 オバサンはぐっと唇を噛み締めた。それから深々と腰を折る。

「すまない。今更言えたクチじゃないが、本当に申し訳ない」

 二年前、井乃は帰郷した。しかし実家に戻らなかった。物問橋のオバサンの部屋に居ついてしまった。地元出身の彼女は、非公式ながら橋に住人がいるのを知っていた。

「何者でもないから、自由だから。そう言ってた。でも打ち解けて来た頃に、アタシは余計な話をしちまった」

 金が無い、という事だ。もっとも一緒に暮らせば経済状況はすぐにばれる。

「昔、アタシはドサ周りの手品師をしてた。あっちこっちの地方へ行って、旅館や公民館なんぞでショーをして日銭を稼いでたのさ」

 そして馬瀬市の旅館に数か月滞在した時だ。客が少ないと思っていたら、突然の閉館だ。何とか客寄せをしようとオバサンが呼ばれたのだが、効果が無かった。経営者は夜逃げし、従業員の給料は遅延の上に未払いだ。当然、流しの者に金が回るはずがない。彼女はほぼ無一文のままで放り出されてしまった。

 物問橋に来たのは、観光地で幾らかでも稼げるかと思ったからだ。そして橋に公俊が住んでいるのを知った。その頃には公俊以外の画家も寄宿している。一人も二人も一緒だ。空いていた部屋に転がり込んだ。

 それから数年後、井乃が来た。現金が無くて困っているオバサンに、お金になると持ち掛けられたのは戸籍の売買だ。もうオバサンには頼るような縁者はいない。このまま年老いて死ぬなら戸籍なんかもう要らないだろう。井乃はバーみどりへ連絡を取った。捨てて、逃げ出したはずの場所へ。

「アタシの為に良かれと思ってやってくれたんだ」

 八木沢が来た理由は分からない。井乃の戸籍を買った者に何か不都合があったのだろう。そしてみどりと会った井乃は。

 最期に二人の間にどんな会話があったのか。先ほどのみどりの言葉からは、そもそも戸籍の売買をする気があったのか。それより井乃自身の口封じが目的だったのかもしれない。もはや聞けない遠い彼方に去ってしまった。

 安中はすぐに言葉が出なかった。自分の息が耳に響く。口に指を当てて体の震えに気が付いた。

 バーをやめた時点で、すぐに警察に行けば良かったのだ。家族や自分の体面を考えたのだろうか。そんな事はどうでも良かった。命を失うくらいなら。

「...馬鹿かアイツ...」

 項垂れたオバサンの横から爺さんの密やかな歌声が流れる。誰に聞かせるのか。眼を細めてうっとりと風船を撫でながら子守歌を紡ぐ。屋根に当たる雨粒が不規則にリズムを刻んだ。

 どすっ。

 安中とオバサンの肩が跳ねた。ドアの方向からだ。重い物が当たる音がした。オバサンを手で制した。安中が近づく。金属のドアは外の様子が見えない。耳を当てて窺う。雨音しかしない。

「誰かいるのか?」

 返事はない。内側に開くドアだ。細く開いた。黒い塊が地面に転がっている。ゆらり、と重みがこちら側にかかった。ドアが開く。もたれかかっていたのは玲市だった。全身泥まみれた。周囲に人影はなかった。

「おいゼロ」

 頬を叩いた。うう、と呻いた。目を閉じたままだ。とりあえず室内に引きずり込んだ。黒い筋が付く。頬に殴られた跡がある。腹も汚れているのは蹴りをくらったか。

「起こすかい」

 オバサンが活の入れ方を安中にレクチャーしてくれた。後ろで抱きかかえて膝で抑え、両肩を後ろに引く。胸を開く要領だ。

「汚れるなあ」

 ぶつぶつ言いながらも言われた通りにやってみる。すると数秒で玲市の目がうっすら開いた。焦点が合わない目付きで呟いた。

「.....餌を上げちゃいけない」

「何を言ってる?」

「車の屋根に乗るんだ、山の猿」

 夢でも見ていたのか。あ、と玲市が固まった。ちゃんと覚醒したようだ。安中の膝から身を起こそうとしてエビのように身を丸めた。

「...お腹が痛い...」

 安中が玲市の前に回ってしゃがんだ。

「どうした?」

「猿に襲われました。目を離した隙に、思ったより近づいてて」

「二人とも穴に落ちてもらうんじゃなかったか。甘かったな」

「...はい」

 猿と女王への言葉がブーメランになって戻った。二人とも穴に捕獲して警察を呼ぶつもりだった。それほど御徳苑跡の足場は悪い。しかしほふく前進されてトラップは役に立たなかった。

「お前を殺すつもりはなかったようだな」

「そうみたいですね。戻ります」

「やめろ。もういないだろう。いたところでまたやられるぞ。銃を持って行くか?」

 玲市は首を振った。撃てる気がしない。それに猿と女王を殺すつもりはなかった。穴に落として警察を呼んで終わり。そのつもりだった。

(甘かったな)

 凶器をこちらの手にした事で勝った気持ちになってしまった。

「警察を呼ぶか?」

「いいえ」

 と答えてから安中を見上げた。あの二人の今後の行動にもよるが、彼の言う通り逃げられたのなら井乃の事件の証拠は何もない。バーみどりから捜査が始まるかもしれないが、井乃の過去まで公にされてしまう。

「もう呼ぶつもりはありません」

 予め通報しておいたら結果は変わっただろうか。

 乾いたタオルが頭の上から振って来た。オバサンが背後にいた。

「ほら、さっさと拭きな。いい年したオトコが夜中に泥遊びとはね。着替えはあるのかい?」

「...絵描きさんのなら」

 安中は立ち上がった。少しだけ扉を開く。雨の音が激しくなった。草むらは暗い。玲市が落とした灯りも見当たらない。持って行ったか。念の為だ。安中は手近にあった規制用の黄と黒のポールを持った。柔らかくて頼りないが、それを持って外に出た。体を低くして御徳苑跡を窺う。雨音だけがする。安中は中に戻った。

「逃げたようだな。(アレ)はどうする」

「僕が折を見て処分します。誰にも必要ないでしょう」

 奥深い山か、深い川の底か。

「お前の車、大丈夫か?」

「鍵はかけました」

「分かった。俺は一度帰る」

「はい。ありがとうございました」

「全くだ。用心しろよ」

 オバサンがはっと口を開きかける。しかし言葉が出る前に安中はドアから滑り出た。玲市はすぐに鍵をかけた。ついでに水の入ったポリタンクをドアの前に並べる。気休め程度だが、少しでも侵入を防ぎたい。

 爺さん二人は気持ちよさそうに寝ている。

「オバサンももう休んだら?」

「ふん。淑女を男性と雑魚寝させるなんて、さぞや良い夢が見られるだろうよ」

 それでもオバサンはマットに座ったままだ。

「電気を消すんじゃない」

「今夜はそのつもり」

 自分で消灯するなと言ったのに、眠れないとかぶつぶつ言われた。

「淑女が寝顔をさらすなんて!」

「みんな寝てたらお互い顔なんて見えないよ?」

「寝るのが問題なんだよ。なんで分からないんだろうねえ」

 ため息交じりに言われた。寝たかと思った爺さんも何かつぶやいている。環境が変わって眠れないのか。全員にコーヒーを飲ませるべきだったかもしれない。

「とにかく着替えさせてくれる?」

 玲市は公俊の着替えを持ってシャワー室へ行った。更衣スペースと洗面所は一緒だ。小さな鏡に映る頬には大きな赤い痣がある。明日には青くなるだろう。首と腹も赤い。脇腹も痛い箇所があった。あちこちの関節がギシギシ鳴っている。

(明日がヤバいかも...)

 暴力沙汰なんて初めての経験だ。計画が甘かったなあと反省しきりである。もっとももう二度と御免だが。温めの設定にしても、腕の擦り傷に湯が沁みた。安中に言われるまでもない。甘かった。

 次がないのを祈るばかりだ。女王と猿にしても確かに詰めは甘かった。鍵がないのを忠告したにも関わらず、凶器を部屋に置いて出かけてしまったのだ。二人はこちらを舐めてかかっているのだ。銃とナイフを見つけた時は『勝った』と思ったのだが。負けてはいないが達成感も希薄だ。

(慣れない事にはもっと準備が必要だな)

 出て来てもオバサンはまだ座っている。

「アンタもここで寝るのかい?」

「うん...まあ」

 住人に手を出すメリットがないが、猿が戻ったら面倒だ。玲市はオバサンの告白を聞いてはいない。

 オバサンはぶんぶんと首を振った。

「男ばっかりじゃないか! 独身の女がプライバシーの欠片もない場所で雑魚寝なんかできるかい」

 え~と、とタオルを肩に玲市は固まった。独身だから何が困るのか? ただで泊まれるし、危険もない。協会側の要望も叶えられる。来てしまってからまさかのダメ出しがここだった。

「今から他の宿泊施設はナイよ」

 もう日付が変わる頃だ。時間の問題はもちろん、お盆の初日に宿を探すのは至難の業だ。ほぼ無理だろう。

(僕の家か? いやいや、ハジメがいるし) 

 ぷう、と気の抜けた音がした。どちらかの爺さんの尻から出たようだ。ズボンをぽりぽり掻いているのは公俊だった。こっちらしい。

「ほら、ほら! 一緒は無理だろう」 

 なぜかオバサンが勝ち誇った顔になる。

「自然現象だよ...」

「アタシがするかもしれない。そんなの聞かれたくないから!」

 もぞもぞ公俊が動いた。うっすら目を開ける。それからよいしょっと起き上がってしまった。そうだった。使ったのは、寝つきは良くなるが効能の継続時間が短い薬だった。彼は目を瞬いた。眩しさばかりではなさそうだ。すっと目が糸のようになった。

「...何だ?」

「おはようございます」

 取り敢えず礼儀として挨拶をしてみた。公俊は答えない。きょろきょろ見渡した後、玲市の胴体で視線が留まった。

「何だ、と聞いておる」

「え~と、御霊流しで部屋に立ち入りがあるから一時的に」

「それがどうした。それは私の服だろう。だから何でお前が勝手に着ているんだと聞いている」

 そっち? と玲市の膝が崩れ落ちそうになった。視力が落ちているはずだ。しかしこのような自分の服はくっきり見えたらしい。オバサンが代わりに口を出す。

「この雨降りの夜中に外で泥遊びをしてきたんだよ。着替えが無いんだとさ」

 あわてて玲市が言った。

「遊んでたわけじゃ...いや...。ごめん。洗って返すよ」

「当たり前だ。だから何で勝手に」

 話がループする。公俊が寝ていたからだが、そもそも寝かせたのは自分だ。オバサンはまだぶつぶつ言っている。爺さんだけが大人しく寝ていてくれると思ったら、大きないびきをかき始めた。

 オバサンの要望通りに橋にすぐ帰るのは難しい。トラップだらけの草むらを抜けるのに、さっきは安中の手を借りた。一人では無理だろう。神社側の道は安全だが、閉門時間内だ。足の不自由な公俊を背負って傘を差し、爺さんの手を引いた上にオバサンを誘導する。至難の業だ。

 全ては夜が明けてからだ。ひたすら公俊に謝りつつ、オバサンをなだめながら御霊流しの日を迎えた。



お読みいただきありがとうございます。

いよいよ六日目。ハジメ滞在予定もあと二日となりました。

不穏です。

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