三日目 七月十日 ゼロ目線の現実
三日目。ゼロとハジメの間の空気が変わってきます。そして少しずつ不穏…。
三日目 七月十日
馬瀬市にはローカル鉄道が通っている。駅前には大きな建物はないものの商店街が国道沿いに伸び、役所や郵便局など公的な施設もまとまって存在する。
ハジメが来て三日目だ。多少は時間に余裕ができた。そんな玲市が訪れていたのは市役所だった。地域支援センターでケアマネジャーと面談の為だ。公俊は自宅を離れている。介護の支援が必要な状況であるものの、介護サービスは受けていない。
大きな窓から白い光が注ぐ。じりじりと照らされる席で二人は向かい合った。大きな葉の観葉植物の影が女性の顔を半分だけうっすら黒く隠す。母と同年齢だろうか。彼女は書類をいじってから視線を上げた。
「馬瀬さん。先日も申し上げた通り、今の状態では難しいですね」
「介護認定の申請は済んでいます。経済的にも年金と不労所得があるので心配ありません」
彼女の指がもじもじ動いた。
「ええ、それはいいんです。でもおじい様は自宅にいらっしゃらないのでしょう? まず面談さえできていないですよね?」
公俊の日常の世話は玲市頼りだ。公的な援助を一切使っていない。それを受けるためには、幾つかの段階がある。まずどの程度の介護を必要とするのか市の職員の訪問を受けて聞き取り調査が必要だ。そこへ主治医の意見を元に一次判定が出される。さらに介護認定審査会による二次判定を経て要介護度が決定される。そこからサービス計画書を作り、ケアプランに基づいて介護サービスが始まる。
「物問橋に出向いていただくわけにはいかないですか?」
「施設でもないですよね。いわば旅行中というか...。かかりつけの先生はいらっしゃいますか?」
冷房の風がうちわのような葉を揺らす。ゆらゆらと彼女の頬で影が動いた。
「いいえ。今は特には。病院嫌いなんです」
「それでも先生の意見書は必要です。こちらで選定した先生にお願いする事になります」
食事や入浴介助など日常を助けるサービスが受けられると、公俊の世話は各段に楽になる。祖父自身の健康にも役立つだろう。しかし橋にいる限りは無理だ。
「施設はご検討されていますか?」
「探してはいます」
「とにかく一度は自宅に戻っていただいてからになりますね」
お役に立てませんが、と彼女は唇を引き締めた。
もう席を立つしかない。公俊に介護サービスを受けさせるには、自宅に戻るか施設に入所か。どちらにしろ説得には骨が折れそうだ。
役所を出る。どんよりと灰色の雲が多い空だ。暑さもひと段落している。
(病院に寄るか)
玲子の洗濯物を取って来なくてはならない。午後からは業者と打ち合わせだ。
(あ...爺ちゃんの着替え...)
ハジメに頼むのを忘れていた。シャンプーをしてくれたのはありがたいが、着替えさせるのは大変そうだ。玲市も何度も言ってやっと服を替えてくれる。八十四歳になり、何をするにも億劫がる。いきなり介護をさせる事になるハジメだが、何をするにも嫌がらずにやってくれるし気も回る。逆にあまり頼るのにも躊躇があった。
結局病院に寄った後、物問橋に向かった。差し入れ用の買い物が両手にぶら下がる。太陽が真上に差し掛かった。オバサンの看板は出ていない。腕時計を確認する。昼休みのようだ。
すぐに公俊の部屋に行く気になれない。
(どう説得するかな?)
なぜ祖父が橋にこだわるのか理由は分かっている。それがある限り、彼はここを去らないだろう。階段に腰を下ろした。手すりというよりもはや壁に寄りかかる。暑さはひと段落しているとはいえ、石の建造物は熱を含んで温かい。波は途絶えず橋脚に当たって跳ねる。観光客の話し声と相まって不揃いなメロディは途切れず耳に届く。
玲市は川の音が好きだ。時には荒く、時には優しいまるで子守歌のようだ。体中を水音で満たす。落とした視界に黒い靴が入った。
「ゼロ。こんな所で昼寝か?」
赤い面の猿だ。いつものようにシャツとパンツは黒い。後ろに女性がいる。肩までの黒い髪で額にはカチューシャよろしく真っ黒なレンズのサングラスが乗っている。化粧はどちらかというと派手目だ。白いニットワンピースにサンダル。避暑に来た有閑マダムという雰囲気だ。むき出しの首に年齢が多少現れている。肘には白いハンドバッグ、肩に大きめの籐のバッグをかけていた。一泊か二泊くらいの荷物なら入りそうだ。彼女は猿の肩に両手を置いた。
「じゃあ、私は先に行くね。土産物でも見ているわ」
そしてすっと横を通り抜けて階段を上がった。面の下で猿の黒目が左右に揺れた。
「俺の港の彼女なんだ。旅立つまではしばらく寄るぜ」
玲市は立ち上がった。彼女の姿はもう見えない。彼は腕を組んだ。
「その港を目指すんだね。早めにお願いしたいな。勝手に住人を増やさないで欲しいんだ」
「だからちょっとの間だ。すぐによそへ行くって」
玲市は立ち上がった。すっと面の横に顔を近づけた。
「猿も一緒にね」
表情は落ち着いたままだ。天気の話でもしているように。
「出て行けっていうのか?」
「ここは絵描きさんの港でね。他の誰かの場所じゃないよ」
「...絵描きはここに居てもいいと...」
「猿がそう言ったって、絵描きさんに聞いてもいいんだね? 僕は彼をここから退去させる資格のある人だよ」
かっと猿の目が見開いた。絵描きと猿の意思疎通はスムーズではないようだ。滞在の許可などもらっていないのだろう。そこを玲市に突かれた。
「ごちゃごちゃうるせえな。前から思ってたんだよ。頼みもしないのにここに出入りしちゃあぶんぶん飛び回って。ハエかよ」
玲市は目元をほころばせただけだ。現在は公俊を含めて四人が橋に住んでいる。彼らの事情を玲市は聞かなかったし、彼自身の情報も話していない。芸術家である公俊が住み着いているからこそ、同じ種類の人間としてこの橋に居住するのが黙認されていた。画家が退去するとなると、居続ける口実がなくなる。そこへ『資格』とは含みのある言葉だ。
「お前、まさか役所の奴? 観光協会の職員? 平日の昼間っからふらふらしやがって」
「そうくる?」
血縁関係が浮かばないようだ。玲市は腕を組んだまま壁に寄りかかった。どこか楽しそうな目線を猿からはずさない。
「もうすぐ御霊流しだよ。期間中は出ていくよね? だったらそのまま猿と彼女の港を目指したら? 部屋には鍵がなくて不用心だね。そもそも風呂もトイレも無い場所に、あの彼女は平気なのかな?」
「黙れ!」
図星のようだ。最後の言葉は、猿も心配していた事なのだろう。玲市の襟首を掴んで揺すった。
「何様だてめえ!」
「お子様? 年齢的に図々しいかな?」
「ふざけんな!」
突然の怒号に周囲がざわめく。足を停める人もいる。玲市を掴んだまま、もう片手の拳を振り上げた猿は、そんな雰囲気にすぐに気が付いたようだ。乱暴に玲市を振り払う。壁にどん、と背中が当たる。エコバッグが落ちた。
ふん、と肩をいからせて猿が階段を上がる。左右の人々が身をかわす。玲市の口角は少し上がったままだ。
(分かりやすいな。いっそ殴ってくれた方が良かったんだけど)
衆人環視だ。言い逃れはできない。暴力沙汰を起こしたとなれば玲市に有利に事を進められただろうに。バッグを拾う。
次はオバサンだ。
「こんにちは。差し入れどうぞ」
ああ、とかうう、とか声がした。手前の部屋に姿がない。ベッドの上には服がきちんと畳まれていた。そのそばにA5サイズの紙がある。文言をちらっと見た。それからペットボトルの水を数本床に置く。この季節にはいくらでも必要だ。
彼女は奥の台所でお湯を沸かしていた。室内には熱気がこもっている。ロングスカートはそのままだ。だがさすがにベールと手袋ははずし、上半身は黒いノースリーブ一枚だった。年齢を重ねた手と腕だが、爪は真っ赤に染まっている。
「お洋服をまとめてお出かけ?」
「分かってるくせに何を言ってんだい。煩わしいのは嫌だね」
先ほどの紙は観光協会からのお知らせだ。物問橋で大きなイベントがある度に部屋に配られる。橋のライトアップや飾りつけと、夜間の観光客立ち入りが許可されるため、部屋からの退去を求められる。
「ご協力感謝」
胸に手を当て、足を一歩引いて礼をして見せる。
「ふん、協会の回し者かい。まあいつもの所へ行くよ」
え、と玲市は首をかしげた。
「みまみ町の健康ランドの事? あそこはもう閉店したよ」
宿泊のできる入浴施設があったのだ。ベッドや布団はなく休憩所で休むタイプだが、値段は手ごろだ。しかも営業時間が長い。午前中の数時間だけ清掃タイムだ。しかし営業場所が悪かったのか。あまり流行っているとはいえず、老朽化を理由に既に営業終了していた。それをオバサンは知らなかったようだ。丸い目が更に大きくなり、それからしょぼしょぼと瞬いた。
「...そうかい」
もうそろそろ世間は夏休みだ。宿の値段も上がるし、これから宿を探すとなると手間だろう。オバサンはもごもご呟いた。
「最近は...占いの方もねえ...」
一度大きくため息を吐き、それから声を張った。
「ゼロ、昼ご飯は? 一緒にどうだい」
台所にあるのはザルに盛られたうどんだけだ。玲市は首を振った。
「ううん。絵描きさんのところへ行くよ」
オバサンはじろっと玲市を見上げた。玲市は軽く肩をすくめて見せた。だが彼女の視線は離れない。
「大丈夫かい? 占ってやろうか」
彼女は何を見て心配するのだろう。シャツの襟に触れると乱れたままだ。知らん顔でいじって直す。玲市は首を振って微笑んだ。
「大丈夫。僕は畳の上で死ねるんだったよね」
ご託宣によると、玲市の手相はとてもよろしいらしい。畳の上で安楽に息を引き取るそうだ。それを思い出したのだが、彼女は首を振った。
「縁起でもない。畳は寝たり座ったりするもんだよ」
やかんの口から湯気が立つ。
「ごもっとも」
「あの子...新しく来たあんたのツレは信用できるのかい」
「うん。何も知らない。すぐに帰るよ」
彼女はもう一度探るように尋ねた。
「何かあったかい?」
玲市の目が細くなった。
「僕は大丈夫なんだよね? だって畳の上で」
「言った、確かにそれ言ったよ! しつこいねえ。でもあんたのそういう所...アタシは嫌いじゃないよ」
乾燥した竹のような指が宙をちょこまか動いた。オバサンは軽く息を吐いた。湯気を吐くやかんを火から竃の上に動かす。
「それはともかくね。今朝、アイツを見かけたような気がするんだよ」
出て行こうとしていた玲市は振り返らなかった。
「気のせいだよ」
手を思い切り開いて目の前に突き出す。それからぐっと握りしめた。
「気候もいいし観光客が増えてる。似た人もいるからね。それよりも泊まれる所を探しておこうか?」
聞いておきながら返事を待たずに部屋を出た。彼女の経済状況は分かっている。夏日の外が涼しく感じる。それから公俊への訪問だ。
「お邪魔」
勝手に扉を開ける。公俊は今日はコットの近くにいた。立ったり座ったりを繰り返す。強度としては緩いながらもスクワットだ。
「絵描きさん、午後の体操だね。昼は済んだ?」
「おう。大儀」
クーラーボックスは入れ替わっていた。ハジメはちゃんとミッションをこなしている。
公俊は定位置の椅子に移動した。少し息が切れている。床に置いたままのボトルを持ち上げて中身を飲み干す。
「差し入れだよ。水も飲んでね」
缶コーヒーを数本、彼の近くの床とコットに置いた。小さな窓から外を覗く。空と川、それらが全てだ。
「ちょっと話があるんだ」
玲市はその場から公俊の方へ向き直った。
「突然だけど...母さんが入院してるんだ。原発不明のがんで、あちこちに転移してる。ステージ4だって。もうすぐホスピスへ転院する予定だよ」
自身の症状を知っている。その上で玲子は父親にさえ口止めをした。それでも今は伝えなければならない。公俊は無言だ。缶コーヒーを玲市に差し出す。彼はタブを引き上げて返した。
「あと数か月、年内もつかどうかだって」
返事はない。コーヒーの薫りだけする。玲市も缶を取った。
「店は改装して貸す事になったんだ。僕の身の振り方はまだ決めていないんだけど、ここに通うのがどうなるか分からない。だから家に戻ってくれないかな? 施設でもいいんだ。幾つか当たりをつけてあるよ。資料は家にある」
玲市の言葉には情感的な抑揚がない。まるで今朝見たテレビのニュースを伝えるかのような落ち着いた響きだ。しばらく静寂が二人を満たした。公俊がつぶやく。
「玲子がここに来るんだな」
一気に缶を傾けた。玲市の喉を苦い液体が通る。公俊は断言した。もはや疑いようもなく娘が橋に来るのだ、と確認する言葉なのだ。
「かもしれないね」
二人の足元では水が躍る。決して途切れない旋律を歌う。
ちょいちょい、と公俊の手が玲市を招く。窓辺に缶を置いて彼の前に行った。人差し指で自分の前の床を指す。何だろう、とひざまずく。祖父の眉は白くて厚い。もはや灰色がかった瞳が、それでもしっかりと孫を見つめた。左腕が上がる。そっと髪に触れる。曲がったままの右手もゆっくりと添えられた。壊れそうなガラス玉を抱く手つきで、玲市の頭を包んで撫でた。
一方、今日のハジメもそれなりに忙しい。朝一番に配食のお勤めを果たしてから国道に出た。
羽舞おすすめの成田屋に行きつくまでに、数回国道を行きつ戻りつした。駅前は店が密集している。想像したよりもこじんまりした店だった。和菓子全般の他に赤飯も置いてある。店内には米を蒸す匂いが充満していた。ハジメの目当てみそ団子は山盛りだ。串に白い団子を刺した状態で売っている。団子というよりは小麦の丸い饅頭だった。大きさは小ぶりのおにぎりくらいありそうだ。軽くあぶってから別添えのみそだれをかけて食べるそうだ。
しかもまとめ売りの数が十本単位だ。一つ一つの団子が大きいので、最小単位でもかなりボリューム感がある。
「ばら売りはありますか?」
多くね? と思って尋ねた。しかし売り子の女性は福々しい頬を緩めて言った。
「あるけどこっちの方がお得よ。それにあっという間になくなっちゃうから。みんな食べちゃうの!」
「もらった方も焼くのって面倒じゃないかな?」
「大丈夫! 焼きたてが美味しいの! 一本食べる?」
しっかりお代を払って味見だ。店ごとに味付けが違うそうだ。成田屋製は黒糖とはちみつ入りで濃厚な甘みだ。しかし味噌の塩気が効いていてしつこくない。地元民おすすめなら外れはないだろう。とりあえず三十本入りを買った。行き先は物問神社だ。
参拝者用の駐車場にバイクを停めた。迷わず中華ヘルメットは置いていく。社務所はそこから近い。途中御徳苑跡の横を通った。早々と銀色の工事用フェンスが建っている。昨日のうちに作業が終わったようだ。もっともハジメが入り込んだのは外側からだが。
「こんにちは」
社務所に声をかける。昨日の男性はいなかった。対応してくれたのは紺のベストを着た壮年の女性だ。事務職らしい。
「昨日の男性...名前が分からないんですが、これを借りたんで返しに来ました」
洗濯済の熊さんTシャツとサンダルを差し出す。彼女が目を丸くした。
「あらっ! 鈴木さんの息子さんの?」
「...は?」
どうやら学童保育に持参する子供の着替えを渡してくれたらしい。最近の小学生は体が大きいのか、シャツの素材の伸縮性が優れていたのか。
まさかアナタが着たのでしょうか...という目線が痛い。サンダルはやはりトイレで使用して廃棄予定だった代物だった。それでも助かったのには変わりない。
「お礼といっちゃなんですが、皆さんでどうぞ。え~と鈴木さん? にもよろしく」
成田屋の出番だ。紙袋を見て女性の目がさらに大きくなった。
「ありがとうございますっ! ご丁寧に...却って申し訳ないわ」
と言いつつ包みを受け取る。再度礼を言って社務所を出た。扉を閉めたかどうかのタイミングで甲高い声が聞こえた。
『成田屋のみそ団子を頂いちゃったわよ~!』
やはり人気のソウルフードのようだ。羽舞に聞いて正解だった。
そのまま神社の奥へ歩き始めた。雲が多いとはいえ皮膚を熱が包む。湿気が多いようだ。しかし木陰に入ると涼しい。靴の下で白い玉砂利が鳴る。日陰を探しながら歩を進めた。社殿が見えてきた。
広くなった場所にテントがある。『御霊流し供物』と墨で書かれた看板が立つ。運動会でよく見るような白い帆布だ。御霊流しの為に臨時に建っているようだ。長い机には白い布がかかり、笹の船や花が籠に盛られている。そして人体を象った白い紙。
(これが噂のナニね)
机の向こうに立つ巫女さんから声を掛けられた。
「供物授与でよろしいですか?」
「俺は初めてなんだ」
何だかこの場にはそぐわない発言だ、と口から出てから思っても遅い。アルバイトなのか、まだ高校生くらいに見える彼女はにっこり笑った。
「お盆のご先祖供養です」
旧歴のお盆は七月だ。紙の人型に供養したい名前を記入して、笹舟に乗せて川に流す。現在は環境保護の為に、土の微生物で分解されやすい紙を使っているそうだ。
「名前を書いて頂いたらこちらに奉納して、代わりにろうそくとお花をお渡しというものできますよ」
笹船は付き物だ。むしろ人型より人気らしい。個人名を記載して公的な場所へ流すのも、現代では抵抗があるだろう。人型は神社で供養してくれるそうだ。
「流す時間と場所は決まってるの?」
「お気持ちなので決まりはないです。夕刻の涼しくなってからが多いみたいですね。たくさんの灯りが川を流れるってとてもきれいですよ」
火を灯して流すならやはり暗くなってからが適当だろう。でもお盆の行事なのでまだ授与だけだ。流す人はいない。
「ここへ来なくちゃもらえないのかな?」
「いいえ。お盆の期間は物問橋にも出向きます」
そういえばイベント広場がある、と玲市が言っていた。
また後で、とその場を離れた。
参道沿いに立て看板が並ぶ。物問神社の縁起と物問川の歴史の掲示だ。羽舞から聞いた洪水の話も絵巻で掲載されていた。江戸時代の絵巻物を大きく引き伸ばして印刷してある。大きく波立ち、渦を巻く川。それに飲まれて流される牛馬や人、家屋の破片。屋根付きの橋が流されている。最初の物問橋が木造だったのか。
続く場面は水の引いた川辺だ。人々が物を訪ね歩く。生きた人は袖で顔を覆い、死者は額に白い布をつけている。在る者は天を仰ぎ、他の者は川を覗きこむ。草むらを棒で突く姿もあった。流れる水のような字で書かれていたのは『ものをとう ひとかあやかし ものといかわ』。馬瀬カルタの『も』は、これを使ったのだろう。
そして馬の背に乗る狐の絵が続く。後ろの二本足で立ち、揺れる背中で踊るようにバランスを取る。危なっかしい。
(神社のキャラクターって狛犬だっけ、お狐さんだっけ? 見ざる言わざるの猿もいたか? 眠り猫...いやあれは確か日光)
その辺りの知識は怪しいハジメだ。とんでもない神仏混交だ。橋の男まで浮かんだ。そもそもキャラクターと呼ぶなんて不敬である。
縁起絵巻は続く。馬から降りた狐は、頭に手ぬぐいを乗せて人に化ける。手招きに誘われてついて行くと川を離れる。そして黒い穴に落とされるのだ。当時の地名から馬背ギツネと呼ばれるそいつは、賢くて人をからかうのが得意だったらしい。穴に落ちたハジメは思った。
(俺も化かされたのかなあ)
そよぐ風に空を見上げる。あらゆる緑色に輝く枝が揺れる。その先に馬瀬岳の尖峰が見えた。先祖の暮らした地に立っている。また不思議な気持ちになる。確実にハジメの父のルーツがここにある。三代前の親戚なんて顔さえ分からない。しかし彼らは確実にこの地で暮らし、彼らがいるからハジメもいる。命の連鎖が繋がる場所だった。
御霊流しに誰の名前を書くのか。強い痛みが胸を刺した。自身の家族は元気だ。二年前に亡くなった春枝は祖母だが同居はしていなかった。少し遠い存在だ。母方の祖父母や親戚は健在で、近年命を落とした者はいない。きょうだいも夏休みを満喫しているに違いない。
では玲市は?
『御霊流しまでいる?』
どんなつもりで尋ねたのか分からない。去年は四人の名前を書いただろう。そして今年も。父、兄、妹、祖母の分だ。
(伯母さん、早く退院できるといいな...)
何の為に馬瀬市に来たのか。改めて思い返す。配食だけでいいとはいえ、介護の手伝いだ。自由にしてくれと言われたが、本当にそれだけで玲市の役に立っているのか。
空の雲の灰色がそのまま心の中に落ちたようだ。
(一度帰るか...)
そろそろ昼だ。駐車場に戻った。玲子製の中華ヘルメットが不意に愛しく思える。
「よっしゃ~!」
意味のない気合を入れてかぶり、バイクにまたがった。
『ラーメン馬瀬』が消えていた。正確には店の正面に掲げられていた看板が外された。ただの白いカバーに変更されている。シャッターの張り紙の文言も閉店に変わった。食べたばかりのうどんが逆流しそうだ。
「え」
玲市が車庫から出て来た。ちょうど帰宅したらしい。
「おかえり」
「あの、あれ」
どぎまぎしながら看板のあった場所を指さした。
「うん。看板を下ろしたんだよ。貸すんだ」
「一階ってお前の家じゃないか。どうするんだよ」
「二階へ移るつもり。居住部分をつぶして客席を増やすんだよ」
生活の空気がとても薄い一階は、改装の為に退去する為だ。やっとハジメにも手伝いを頼まれた理由が実感できた。階上とはいえ引っ越し、改装、母の入院、祖父の介護。一人で手が回るはずがない。
「何で...伯母さんは...」
「ちょっと長引きそうなだけ。僕が一人で店をやれないから、とりあえずね」
もう話は済んだ、とばかりにハジメの横を通り過ぎた。突っ立ったままの彼を振り返る。
「お昼は食べた?」
「うん。ゼロは? まだなら俺が用意しようか?」
料理できるよ、と言うハジメに、玲市は柔らかな風のように微笑んだ。
「ありがとう。でも絵描きさんの晩御飯を作るついでだからいいんだよ」
笑顔なのに、取りつく島がない。ガラスの壁を素手でひっかいているような気分になる。違和感が膨らんで言葉になり始めた。しかし、まだ喉を通らない。
「クーラーボックスを用意しておくから、二階で休憩していて」
「おいおい、テレビでも見てろってか」
先を行く玲市の背中を追いかける。
「地上波なんて三つしかチャンネルがないんだぞ。しかも朝のドラマを一日に三回! さらに次の日に別チャンネルで二回! ローカル局では知らん一般人がカラオケ歌ってるし! CMは動かないし! せっかく来てるんだから何か建設的な事をさせろよ!」
玲市の動きが停まった。裏口の扉に手をかけたままだ。
「ゼロ?」
「あはは」
玲市は声を出して笑った。この地域のテレビ状況を東京者が語る。それが可笑しかったようだ。
「ありがとうハジメ。来てくれて本当に嬉しいよ。配食してくれるのは本当に助かるんだ」
「じゃあ今日の夜は外にメシ食いに行かない? うーちゃんに屋台村って教えてもらったんだ」
「あそこはいいね」
一日くらい料理を休んでもらいたかった。しかしあっさりと首を振られた。
「行ってくるといいよ。じゃあこれからクーラーボックスを用意するね」
ハジメの鼻先でパタンとドアが閉まった。鍵の回る音はしなかった。もっとも合鍵を預かっている。ハジメを追い出すつもりがないのは分かる。しかし受け入れられているのか疑問になってしまう。
「ふ~ん、知らない人のカラオケ聞けってか?」
階段を上がった。足が何となく重い。配食まで少し時間がある。階段の隅には土埃が溜まっている。三階は賃貸だったはず。どういうつもりだが判然としなくても一階を貸すのも決まりのようだ。それなら少しでも見栄えを良くしておいた方がいいのでは。改めて見下ろすと、店の前も少し埃っぽいようだ。
また降りた。ばん、と玄関を開けた。
「おい、外用の箒とちり取りを貸せ」
台所から顔を出した玲市の目がまん丸だ。それから細くなった。
「カラオケ視聴はいいのかな?」
「俺の方がうまいわ。聞かせてやろうか」
ハジメって意外とおかん属性なんだね、と余計な一言付きながらも掃除道具を出してくれた。体を動かすのは嫌いではない。普段は面倒がって掃除は母親任せだ。反省と母に感謝をしつつほうきを動かした。
屋台村は少し山沿いの方だった。大概の場所は国道を進めば到着する。途中に道案内の看板があるからだ。ここも例外ではなかったものの、少し川を離れた場所だった。屋台村というだけに間口の小さな店舗がコの字に並ぶ。店内にも多少の席があるが、中央にパラソル付きのテーブルとイスが並ぶ。好きな料理を銘々に買って食べられる半屋外のフードコートだ。羽舞の言う通りに和洋中華が揃っている。いかにも屋台という焼き鳥も食欲をそそる。
(バイクなんだよな~)
アルコールは厳禁だ。帰りの足を考えながら何を食べるかしばらく迷いながら歩いた。
「おう兄ちゃん!」
屋外の席から声を掛けられる。ラグビーシャツを着た中年男性だ。目をぱちぱちしてしまったが、日に灼けた顔で思い出す。匠の邑の人力車夫だ。数人の男性とテーブルを囲んでいる。枝豆とビールとはいかにも夏らしい。
「まだいたか。履歴書はいつでも受け付けてるからな」
少し酔っているようだ。そばの男がコップを差し出した。ビールが注がれる。
「飲めや」
「あっ...俺、運転が」
「代行頼め!」
ぐいっと押し付けられるように差し出された。歩いて帰れる距離ではない。バイクにも代行運転は来てくれるだろうか。しかし断れる雰囲気ではなかった。
「いただきます」
え~い、どうにでもなれ。グラスに口をつけた。ほろ苦い泡が舌を潤す。一口飲めば後はどれだけ呑んでも一緒だ。一気にあおった。
「うま!」
期せずして拍手が起こる。
「いい飲みっぷりだねえ。もう一杯いくか!」
「お邪魔では」
「いいからいいから。飲め!」
もうかなり出来上がっている方々のようだ。名前の通り酒が嫌いではないハジメだ。覚悟を決めたらもう飲むしかない。椅子もよそのテーブルから引っ張って来られた。ハジメには通じない地元トークも訪問地ならではBGMだ。しばらく同席してから席を立った。
また見覚えのある顔が歩いている。羽舞と安中だ。二人ともカジュアルな恰好...とハジメは思いたかったのだが。安中はごく普通の開襟シャツとジーンズだ。羽舞がかなり華やかだ。蛍光ピンクで飾られたツインテールに白いレースのチョーカー。フェイクパールがぶらぶらしている。フリルを多用したブラウスに膨らんだミニスカート。太ももまでのハイニー靴下だが、もちろん絶対領域は確保してある。彼女だけ秋葉原か原宿か、という雰囲気だった。ピンクのパールで彩った目がハジメを捕らえた。手が少し挙がるかどうかのタイミングで、テーブルにいた男性が安中に声をかけた。
「おう己龍、久しぶり。髪が伸びたな。妹はまっ黄色だったが」
羽舞がはっと振り返る。男の頬と鼻の頭が赤くなっている。
「もう三回忌かあ? だよなあ。あんな事になって可哀そうだよなあ」
言葉では同情しているようだが、充血した目は獲物を捕らえたように輝いていた。半分だけ上がった口元で言葉が止まらない。
「東京に行ったからか? やたら派手になったよな。それであれじゃあ浮かばれないって。気の毒だよなあ」
周囲が少し静かになっている。車夫のグループも下を向いて黙ったままだ。羽舞の視線は男と、そっぽを向いた安中とを行ったり来たりしている。
沈黙。風さえ流れず空気が淀む。そこへハジメが元気よく発声した。
「うーちゃん! 可愛い! 天使じゃん」
着飾った女性は褒めたい。ハジメの矜持だ。さらに羽舞はこの地方ではおそらく珍しい種類の服装だろう。たった一人のオリジナリティを貫く心意気は称賛に価する。辺りがざわめいたが放っておく。それからずかずかと安中の前に進んだ。
「俺、覚えてます? 落ちました! お手数かけました」
背後の発言は耳に届いてはいた。だがハジメは別の事に気を取られていた。穴に落ちた時の安中がちょっと怖かった。そんな彼に突然会ってしまい、これから何をすれば正解か。そちらへ意識が完全に向いていたせいで、男の不穏な言葉が脳の言語野に到達するのを無意識に防いでしまった。さらに事を荒立てたくない保身の気持ちが働いた。いわゆる『聞こえないふり』である。
安中の肩がびくっと動いた。じろっとハジメを見やり、またそっぽを向く。それでも返事はしてくれた。
「覚えている」
冷たい空気が割れた。酔っ払いは何かぶつぶつ言ったがすぐに離れた。
羽舞が手を叩く。
「え? ナニ? 御徳苑にハマったのってイトコ? ウケるんだけど!」
「そんなに喜んでもらえて何て言ったらいいか」
視線をはずしたまま、うんざりした口調で安中が答える。
「申し訳ない、だろう」
「...申し訳ありません...」
ふん、とだけ返答らしい物があった。
じゃあ、と羽舞が選んだのは店内の席だった。いわゆる居酒屋だ。今晩に来るとハジメが言ったので、羽舞も来たそうだ。
「ゼロちゃんも来るかと思って先輩も連れて来たのに~」
「声は掛けたんだけどね」
安中はビールで羽舞がウーロン茶だ。ハジメは改めて安中に頭を下げた。
「ちょっとはしゃいで穴に落ちました。余計な仕事を増やしちゃってすみません」
「本当だ」
相変わらず返答は短い。面倒を見てくれたのは鈴木氏らしいが。
「え~と塀を建てるとかさせちゃって」
「請求は所有者に回す」
玲子...結局玲市の所だ。落ちたのは自分だと、玲市にはまだカミングアウトしていない。電話はやはり彼のようだ。
「みそ団子を差し入れしてくれたそうだな。すまんな。みんな喜んでいた」
ああ喋ってくれた。目も合った。お礼を言ってくれるなんて良い人だ、とハジメの安中へ対する良い人メーターのレベルが上がった。
観光の感想や東京のおしゃれ事情など、当たり障りのない会話がしばらく続く。ハジメがトイレから出ると、羽舞が待っていた。男女兼用なので体を傾けて道を開けるが、彼女はそのままだった。
「イトコちゃん、その...さっきオジサンたちが言ってた...」
口ごもる。いつも威勢の良い彼女らしくない。
「は? 何だっけ?」
妹がどうとか...。でも知らない人の話だ。ハジメにとっては重要な言葉があったのか酔った頭で思い出せない。きょとんとしている彼を見上げて、トンと肩を指で突いた。
「ねえ、『天然』って言われるヒト?」
「え? ないよ」
鮮魚店で値踏みでもするような視線だ。ハジメは自分の頬を人差し指で指して見せた。あまり深い意味はない。敢えていうならアルコールのせいか。ふ、と羽舞が息を吐いた。一度視線を外す。それからにかっと笑った。
「地元民だらけなのに馴染んでるってスゴイよね~。良い意味で空気読まないっての?」
「俺は褒められてるの?」
「もちろん! ところで今日はナニで来たの? ビール飲んでたよね?」
はっ、とハジメは固まった。バイクだ。どうしようか。分かっていて飲んでしまった。解決策を練ろうなどとはすっかり失念していた。玲市に来てもらうにも車だ。バイクがここに置き去りになる。
「近いから。...って駄目だよねえ...」
「当たり前でしょ! というか、ワンチャンス狙って帰っちゃいそうな発言やめて」
二人は席へ戻った。
結局は羽舞が車で送ってくれる事になった。まずハジメを送り届けてから玲市を乗せて店へ。そしてバイクで帰ってもらう。面倒だがそれが一番早そうだ。
羽舞の車は白い軽自動車だ。広い駐車場に停めてしまえば周囲によくなじむ。目立つ色ではなかった。それを言うと羽舞は苦笑した。
「私を一体何者だと思ってるかな」
本当はピンクのメタルカラーがいいそうだ。でも目立つと駐車中のいたずらを招きかねない。しかしダッシュボードにはアニメやⅤチューバーのフィギュアやハジメの知らないピンクのキャラクターグッズがずらっと並んで二人をお迎えだ。すぐに音楽をかけたが、アニメソングだった。
「秋葉原って憧れるな~。メイド喫茶で働いてみたい~。ロリータで原宿歩きたい~。あ、言ってるだけだから~。せいぜいこの恰好」
街頭の灯りがフラッシュのように頬で輝いては闇を落とした。
「やりたい事やって一人ってのはすごい」
「いいよ。フォローしてくれなくても」
「本当だって」
中学生の時だった。美術の授業で水彩画での校内写生があった。見たままの色を使うのが普通だろう。ハジメは濃淡をつけた青一色で校舎を描いた。色違いながら水墨画のようでもある。題名は『青春の壁』にしただろうか。なぜ一色で描いたのかよく覚えていない。ふざけ半分だったかもしれない。生徒の間でざわついたのはもちろん、美術教師にも呼び出されて注意を受けた。写生なのだ、どこが現実を映しているのかと。
しかし父は違った。逆に感心されてしまった。
『青春とは確かに青いな、その通りだ。心の色を現したともいえるか』
そして学校の歴史上初、これからも出ないであろうたった一人になったのをほめてくれたのだった。そこまで深く考えていなかったハジメは面映ゆいと同時に嬉しかった。
「良いお父さんだね。そりゃあイトコちゃんみたいなのが育つはずだよね」
羽舞の横顔が笑っているようだ。すれ違う車は少ない。窓は全開だ。夜をアニメソングがかき分けて走った。
まもなく看板が真っ白になったラーメン馬瀬に着いた。礼を言って車から降りる。クラクションの音で玲市が出て来た。目が細くなる。
「呑んだね」
「酒が居るってのが俺の...はい、呑みました。すみません」
羽舞が運転席の窓に肘をかけた。賑やかな音楽が途切れた。
「ゼロちゃん、やっぴ~」
意味不明の挨拶で手を振る。
「バイクが屋台村に置きっぱなしなの。このまま乗せて行くからさあ、持って帰る?」
「うん。ありがとう」
足元が若干ふらつくハジメにヘルメットの所在を聞く。バイクと一緒らしい。二階のドアが閉まるのを確認してから助手席のドアを開けた。
「悪いね」
「ううん。いいよ」
車が滑り出す。羽舞は音楽を止めた。
「看板、下ろしたんだね」
「うん」
社内は静かだ。羽舞は唇を引き結んだ。
「先輩も屋台村にいるよ。髪がスゴイ伸びたんだ。あの日から切ってないって」
玲市は黙って羽舞を見た。
「...屋台村でからむ奴がいてさ...思い出しちゃったよ...。それにイトコちゃんが私に井乃ちゃんと同じ事を言ったの! びっくりした...」
「聞いてもいい事?」
「うん。...一人はすごいよって...」
同じ地域で似たような生活環境、学校もほぼ同じ。ご近所の冷蔵庫の中身まで知っているような場所だ。出る杭は打たれてみんな同じ高さになる。かなり雰囲気は変わったとはいえ、古い慣習がまだ幅を利かせているのだ。幼い頃から可愛い物や服が大好きで、しかも思うがままに実践していた羽舞は浮いた存在でもあった。
それを受け入れたのは一年先輩の安中井乃。長髪の宮司安中己龍の妹だ。二年前に二十四歳のまま年を取らなくなった。
思い出の中で井乃が笑う。羽舞が中学に入ったばかりの頃だ。巻き毛にしたツインテールにフリルのリボンをつけ、セーラー服の襟にはこっそりと推しのキャラクターをプリントしていた。白い靴下もフリル付きだ。もちろん校則にはぎりぎり触れなかった。髪は縛らなくてはならないが方法は校則に指定がない。靴下も白ならOKだ。それでも女子の先輩たちから目をつけられてしまった。通りすがりに嫌味を言われたり、下駄箱に虫を入れられたり。
いじめからかばってくれたのは井乃だった。
『可愛いじゃない。それにたった一人のオリジナリティってすごいよね』
結局は学校から羽舞と両親に指導が入った。そのために二か月で楽しい髪のセットは終わった。それでも井乃とは仲良くなった。ファッション雑誌を見たり、隣の市のショッピングモールへ行ったりしたものだ。
一足先に卒業した彼女は、希望のデザイン学校への進学は叶わなかった。地元にはない。近くても車で二時間ほどの県庁所在地で、下宿の必要がある。保守的な両親からすると、敢えて家を出て服の勉強をするのが将来に役立つとなかなか思えなかったらしい。
どうせ働くならアパレル業界に、と東京の会社に就職した。数店舗は展開する規模だったものの給与は充分とは言えなかったようだ。副業に水商売を始めたらしい。この頃から羽舞とは連絡が取りにくくなった。
不意に帰郷したかと思えば長い髪は見事な金髪だ。実家には帰らず、しばらく物問橋に身を寄せた。髪色を黒に戻してまもなく、橋の袂で他殺体で発見された。イベント広場の奥の林で、今なお立ち入り禁止の場所だ。犯人は未だ分かっていない。
「イトコちゃんが私を天使だってさ。都会の男ってみんな口が上手いのかな」
屋台村の灯りが見えて来た。駐車場はすぐそこだ。
「天使ねえ。服装の事だと思うよ?」
きっ、と羽舞がブレーキを踏んだ。のんびりした調子で何だか噛み合わない答えだ。感傷に浸っていたのに一気に現実に戻されたようだ。
「当ったり前でしょ! 中身まで天使扱いされたなんて浮かれるほどお子ちゃまじゃないし! も~イトコちゃんと一緒! 空気読め、空気!」
きょとんとした顔で玲市が車を降りる。
「だから服の話で?」
「もういいっての! ...ごはん食べてく? 先輩もいるし」
玲市は首を振った。
「もう食べたよ。また誘って」
「絶対だよ」
ありがとう、と手を振る。羽舞が車を停めている間に、玲市はバイクを見つけた。中華ヘルメットはシートの上だ。ちょっと撫でてからかぶった。店に向かう羽舞にまた手を挙げて別れた。
ライトアップも既に消えた。物問橋は真っ黒な動物が伏せているようだ。その首の根本、階段の上で人影が動いた。あまり高くない扉に内側から指がかかる。ふっと息を吐いたのは玲市だった。軽く飛び降りて静かに着地した。
話し声が外からした。手すりから外を覗く。遊歩道をこちらに向かうのは二人。遊歩道の灯りで猿と彼女だと分かった。まだ気づかれていない。急いで駆け降りた。階段の下に身を潜める。
しばらくして二人が階段についた。頭の上をまばらな足音が過ぎる。
「閉まってるじゃない。どうやって入るのよ」
「簡単だぜ。オバサンに聞いたんだ。合鍵なんて要らねえのよ」
ぴん、と高い金属の音がした。悲鳴を上げて扉がきしんだ。
「内側からは閉められないじゃない。バカみたい。どうすんの」
「開けとくよ。ぶりっ子の手間を省いてやってんだ」
橋の開け閉めは羽舞の管理だ。二人の声が遠ざかる。
「こんな所はもう嫌だからね。明日からホテルに連れてって。温泉もいいなあ」
「はいはい、お姫さま」
声が消えた。
(せっかく乗り越えたのになあ。あっさり開けちゃった)
しかし鉢合わせしなくて良かった。二人の気配はすっかり消えた。玲市はやっと階段の下から移動を始めた。鍵はやはり外れたままのようだ。少し開いている。
雲が多く白っぽい空だ。湿気を含んだ空気が玲市の首筋を撫でた。
(雨くさいな)
天気が崩れる前、空気が独特のにおいを玲市は感じる。ただの湿気とは違う。土が湿ったような感じだ。一足先に濡れた場所から風が運ぶのかもしれない。
無人の広場には鉄骨やテントなどの資材が積みあがっている。明るくなったら御霊流しの準備が始まるのだろう。
波が跳ねた。
読んでいただいてありがとうございます。
三日目にして、ハジメの気持ちにも変化が起こりつつあります。
それがゼロや安中先輩にもどのような影響を与えるのか。引き続きお読みいただけると幸いです。




