一日目 七月八日 ハジメが来た
かつて確かにそこにあり、二度と手の届かない場所へ去ったもの達へ
一日目 七月八日
火の消えた厨房は薄暗い。カウンターを挟んですぐのガラス戸からはそれこそ湯気の立ちそうなアスファルトが見える。それなのに馬瀬玲市の背筋はなぜかヒンヤリしていた。完全に明かりを落とした店内のせいだろうか。高校を卒業して以来七年の間、修行も兼ねて家業の手伝いをしていたが、こんな状態は正月以来だ。
(次に火を点けるのは誰だろう?)
手のひらを顔の正面に押し出すように突き出した。できる限り指を広げてじっと見つめる。そこを通すように軽く息を吐いた。爪が皮膚に喰いむほど指を握りしめる。それから大きな保冷バッグを威勢よく持ち上げた。力を入れすぎて少しよろめいた。
(中身は大丈夫か?)
とりあえずは見なかったふり。カウンターの端の板を跳ね上げると厨房から出た。席はわずか6席。店内を横切るには、玲市が大股で三歩。それで引き戸を開けばもう道路だ。混雑時は表にビールのコンテナを積み上げた。そんな即席テーブルでも、お客さんは食べてくれたものだ。今は、道路からは敵意を示すかのような照り返しがあるばかりだ。
ほぼ真上の太陽が容赦なく体をあぶる。一気に額に汗の玉が浮く。白いTシャツの袖で額をぬぐった。店の前に停めてあったロードバイクにまたがった。シートからの熱攻撃はジーンズ越しでも逃れられない。玲市はちょっと腰を浮かせた。バイクをあきらめる。店の横は扉のないガレージだ。小型のバンが猫が昼寝中のように待っている。ドアを開けてため息をついた。
(こっちも暑いな)
関東北部でも夏はやはり暑いのだ。
近隣はありふれた商店街だ。高くてもせいぜい三階までだ。手の届きそうな緑の山並みがよく見える。馬瀬山々と呼ばれる頂が近い。真っ白なマシュマロを積み上げたような雲が紺碧の空に映える。
(もう居るかな)
腕時計に目をやる。サウナ室と化した運転席に滑り込んだ。窓を全開。クーラーをつけずハンドルを握った。
店は背後に流れた。すぐに大きな道路だ。観光の車を縫って進む。左には関東随一の暴れ川と呼ばれる物問川。大雨の度に氾濫を繰り返した一級河川だ。治水事業が進んだ為に昔ほどの水害はない。幅はこの地域では約五十メートルほどあるだろう。両岸の岩の削れた具合がかつての猛者ぶりを残す。泡立ち、逆立ち、白く割れた波は今も激しい。
連なった車の動きが悪くなった。とほぼ同時に石積みの屋根が見えてくる。元は何色だったのか、時代を経た黒に輝く。観光客の目当ての一つ物問橋だ。屋根のある石造りの橋としては日本で随一の規模を誇る。川を跨いで聳える威容はあたかも古の城壁そのものに映る。橋を支える四本の橋脚もまた黒っぽい石だ。上部に向かって細くなる構造はまさに城の石垣を思わせる。
客用の駐車場を過ぎるとやがて橋のたもとだ。円形の広場がある。物問橋をひときわ小ぶりにした造りの観光協会を中心に土産物屋がひしめいている。飲食店には短いながらも行列があった。平日の昼間だが七月の中旬の晴れた日は観光にはもってこいだ。
車を観光客用の駐車場に停めた。最寄りの鉄道駅からは、バスかタクシーしか足はない。そのおかげか駐車料金は全日無料だ。いつも停めてある車両もある。そのうちの一台は濃い紫だ。おそらく特注のペイントだろう。残念なことに前ドアに白いひっかき傷がある。それを横目に車を降りた。
陽光がまた身を襲う。歩道はトラックが余裕で通れる幅だ。玲市の横を人力車が追い抜いた。車夫の荒い息が耳をかすめた。目が合う。軽く会釈しあった。
(さーて。あいつはどこかな)
くるりと見渡した視線の先いっぱいに物問橋が迫る。上り口の階段では写真撮影大会だ。
「おうっ、ゼロちゃん! 元気?」
背後から背中を叩かれた。振り返るとほぼ同じ視線で目が笑っている。
「ああ...うん。久しぶり」
太陽が地面に降りたような明るさに目を細める。いきなりの眩さで選ぶ言葉を探す。彼は笑った。
「ゼロじゃ足りないんだな? じゃあゼロワンで」
従弟の酒居一だ。よく日焼けした顔の白い歯がまぶしい。青いシャツの色が変わっている。オレンジ色で大き目のボディバッグを身に着けているのでとても目立つ。どちらが年上なのかわからない勢いで、また玲市の肩をばんばん叩いた。一歩の半分ほど身をかわす。
「駅からバス?」
「そう。本数があんまり無いなあ。遅刻するかと思った。てゆーか久しぶり。こっちも暑いなぁ。どうしてくれようか。あ、アイスおごりとか」
玲市の目が細くなった。
「まず川で水浴びでもしてみたら」
「ゼロは冷たいなあ」
「じゃあ冷えて良かったね」
ふふ、とハジメが口を押える。幼いころに「れい」がゼロで「いち」が英語でワンだと知って以来、玲市をゼロだのゼロワンだの呼んでいる。ハジメの漢字の方がよほどワンなのだが。彼もそこは分かっている。
「俺をワンちゃんって呼んでくれてもいいのにな」
「犬みたいだね。しっぽがあればそう呼んでもいいよ」
「あったら振るよ。振りまくるよ!」
やはり今の玲市には眩しすぎる勢いだ。曖昧な笑みで話題を変える。
「そっちはみんな変わりない?」
「うん」
ハジメはクーラーボックスに手を伸ばした。
「じゃあ運ぶわ。俺が持つよ」
「うん、頼む。悪いね、四年生は忙しい時期だろう?」
「大丈夫。もう就職決まってるんだ。後はもう卒業を待つばかりだよ」
ハジメの父も、この地方出身だ。進学で上京した。そのまま就職して馬瀬市には戻らなかった。片やハジメの姉玲子は地元のラーメン屋に嫁いだ。そしてもう二人の従弟同士はどちらも社会人になる。
クーラーボックスをハジメが担いだ。大きさの割に軽かったようだ。彼も勢い余ってちょっとよろめいた。玲市はちらっと見ただけだった。がハジメは少し笑った。それから二人で橋に向かって歩き始めた。
「場所がわかりにくいかも。最初は案内するよ」
「どこ? 橋の向こう?」
渡った先は穏やかな稜線の丘だ。ここからは見えにくいがやはり広場がある。
「ううん。叔父さんから聞いていない?」
「なにも。で? 伯母さんは?」
「今は検査入院。一週間の予定だよ」
「その間の店はゼロがやるの? いらっしゃい馬瀬~とか」
「今ダジャレ言ったのかな?」
「ませ」の主人だった市郎は十年前に亡くなった。玲市が高校二年の時だ。妻の玲子と息子の玲市が後を引き継いだ。幸いに店から客は離れなかった。しかし人を雇えるほどには利益がない。だから玲市は大学進学を選ばなかった。そこに後悔はない。しかし今度は玲子が体調不良だ。先の検査結果を受けての入院だ。まだ一人で店を回せる腕があるとは思っていない。結果として休業だ。
ハジメがふと足を停めた。橋を見上げている。
「今日は何かイベントとかあった?」
「さあ...無いと思うけど。どうかした?」
「いや...まあ。見間違いかも...」
はっきりした答えは無かった。
橋の裾までは意外と距離がある。城などもそうだが大きな建造物は「見える」けれども歩くとなかなかたどり着かない。たもとまで来た時には玲市のTシャツはしっとり湿っていた。さらに橋に上がるには階段が二十段。中央はすり減っている。両脇には二人の肩口まで壁がある。かなりの圧迫感だ。人の数も多く空気がこもっている。上りきると門柱だ。二人は息を吐いた。木製の門は今は開いている。打ち付けられた営業時間の札はプラスチックだ。釘が錆びているのか、留めてある穴の周囲が茶色ににごっていた。
またハジメが止まった。
「猿の人がいる。ちゃんと見えた!」
視線の先を追った玲市は頷いた。
「うん、猿ね。住んでるよ」
もう後ろ姿だった。人込みに消えたのは黒いシャツに黒いパンツ。一瞬振り返った顔には真っ赤な猿のお面が張り付いていた。
「あれデフォルト。いつもあのお面をかけてるよ。他の住人はみんな猿って呼んでるね」
「ほかのひと? は? 住んでる?」
「うん。猿はド紫の車も持っているよ」
へえ、とハジメの眉間にしわが寄った。どういう意味か考えているようだ。でも口元はほころんでいる。こいつはいつも楽しそうだな、と玲市は思った。笑顔があれば周囲の気持ちも軽くなる。
「ゼロ、ナニ笑ってんの?」
「来てくれてありがとうって思ってる」
「じゃあやっぱりアイス~!」
門を過ぎて橋に入った。幅自体は十メートルほどありそうだ。だが人が通れるのは片側だけだ。やはり背の高い壁のような欄干がずっと続く。擬宝珠は可愛らしい桃だ。
「小学生以来だな。やっぱり夏に来たっけ」
ハジメはきょろきょろしている。
幅の半分以上を占めるのは張り出した屋根を持つ長屋だ。こちらも重厚な石積みだ。ところどころに切れ目があり欄干という名の壁同士が向かい合っている。
真ん中の長屋の脇に入った。こげ茶色の木の扉があった。ノブも同じ色であちこちがかすれて白い。玲市はドアをノックした。返事はない。再度ノックした。ノブを回す。ひっかかりがある。何度か押したり引いたりして、ようやく動く。お化け屋敷の入口のような悲鳴と同時に蝶番がきしんだ。玲市が声をかける。
「絵描きさん。入るよ」
鍵はかかっていない。中は三畳から四畳くらいの広さだ。外と同じ石の壁にびっしりとデッサン図が貼り付けられている。セロテープはいずれも剥がれかけて何枚も重ね付けされていた。手ぬぐい一枚ほどのすだれがかかっている場所は窓なのだろう。薄い明かりが透けている。やっと横になれるほどのコットと壁際のライティングデスク。シックな深い茶色でアンティークショップの目玉商品になりそうだ。足元に空っぽのペットボトルが数本。そして不釣り合いなプラスチックの椅子。駅の構内やショッピングセンターで見る背もたれ付きのタイプに座布団。そこに部屋の主が鎮座して猫のように来訪者を見上げた。背中は丸い。垂れ下がった眉毛からのぞく瞳は白くなりかけてはいたが、眼光は弱っていなかった。二人の祖父酒居公俊だ。
「絵描きさん、一週間くらいお届けの代理を頼んだよ。ハジメだよ」
「大儀」
聞きなれない時代がかった言い方だ。ハジメはにっこり笑った。
「久しぶり、爺ちゃん。俺だよ。ハジメ」
公俊は無言で頷いた。
「ここでは絵描きさんって呼んで」
玲市が言い添えた。
「爺さんは二人いるから。区別でそう呼んでるよ」
「やっぱり住んでいるって、ここに? え? 普通に観光地だよな?」
コットには脱いだ服が積み重なり、床には空になったタッパーが数個。時節柄そこはかとなく饐えた臭いがする。部屋の隅には水色のバケツがあった。中には白い筋が幾つも残っている。覗き込んだハジメは数歩下がった。わずかに残るのは居間では見たくない液体だ。
「あの、これ」
一応、玲市に指差し確認だ。残念なことに肯定の頷きが返る。
「トイレは下にあるし、広場の公衆トイレもあるんだけどね。行けない時はこれだよ」
玲市はバケツを持ち上げた。机にあったお手拭きシートを円筒の筒から器用に片手で数枚引いた。
「捨てて来る。場所を確認する?」
ぽかんとしていたハジメだが、急いでクーラーバッグを下した。玲市の後を追う。まだ橋の上は人込みだ。午後になってさらに増えたかもしれない。
出入口の近くまで来た。門の内側に小さな階段がある。腰ほどの高さの扉は施錠されている。立ち入り禁止の札を無視して玲市は大股にそこを越えた。流れの音が強くなる。下がりきると扉のない小部屋があった。ここも橋の本体と同じ材料だ。入口と思しき上部に白地に青字で『雪隠《せっちん》』と焼かれたタイルが貼ってある。扉も手洗い場もない。個室が一つで便器の代わりに床に四角い穴があるだけだ。橋脚に当たって逆巻く水が直接見える。そこへためらいなく玲市はバケツの中身をぶちまけた。
「水道がないから不便だね」
お手拭きシートの出番だ。手を拭き、バケツの中も清めた。紙はそのまま川へ落下した。
「あの~不法投棄...」
玲市はその単語を思い切り無視した。
「いつもはこれ専用のペットボトルに水を入れてあるよ。今日は空だっただろう? 絵描きさんが飲んじゃったんだろうね。暑いからね」
「その~ブツもあったりする?」
「そうだね。さすがに大が入っていたら部屋の外に出してあるよ」
う~ん、とハジメが唸った。そりゃそうだろう。一週間だけ手伝うのは配食のはずだった。
「これは僕がやるよ」
部屋に戻った。絵描きはそのままの姿だった。戻った孫たちを見て一言。
「大儀」
「いやホント」
呟きと同時にコットの衣服を避けた。ハジメは腰を下ろした。椅子の祖父の方が少し高くなる。見上げると天井も目に入った。太い木の梁が屋根を支えている。堺の壁は上までなかった。隣の天井まで見える。喧噪もそのまま届いた。くぐもった壁越しの声と直接響く音が混ざり合う。不揃いなリズムに皮膚を軽く撫でられているようだった。
玲市が絵描きに声をかけた。
「絵描きさん。しばらくハジメにご飯を届けてもらうよ。それ晩御飯と朝ごはんの分もあるから。一つは取っておいて朝に食べてね。ボトルにはコーヒー入っているよ」
あと水ね、と呟いた。
「ハジメ、ちょっと待っててくれる? 何か水分を用意してくるよ」
「うん」
すぐに玲市は出て行った。ハジメは携帯をポケットから引っ張り出した。アンテナが立たない。川の真上、山の中、電波が届かない状況は幾つかありそうだ。
「爺ちゃん」
返事はない。
「絵描きさん」
「...ん?」
視線だけがちらっとハジメに向く。一瞥とはこういう事か。
「俺を覚えてる?」
「無論」
「絵は描いている?」
少し間があった。
「愚問。馬瀬の山の緑、あるいは白。物問川の波。物問橋の威容。風が運ぶ音でさえ私に映し出されるのを待つ眺めなのだ。それらは私の前にひれ伏して絵に残されるのを切望している」
視線が宙に漂う。彼にしか見えずとも景色はそこにあるようだ。
「そうかあ。さすが絵描きさんだ。描かずにはいられないと。了解!」
絵描きの頬がかすかながらも動いた。そこから湧く感情をハジメは読み取れない。何を話していいのか、黙るしかなかった。
公俊が座ったままでクーラーボックスに左手を伸ばした。片手でファスナーを引っ張ってボトルを取り出す。
「蓋を開けるがよい」
「あ、はあ」
香ばしいコーヒーの薫りが漂う。公俊は目を閉じてゆっくり口に含んだ。目を閉じてはぁ、と息を吐きだす。軽くうなずいた。納得の抽出具合だったのか。
しかし会話は発生しない。
しばらくして救いとなる玲市が戻った。数本の水を抱えている。ほっとする。連れ立って部屋を出た。西日が目を射る。橋の逆側を見た。高い位置にいるので濃い緑の木々しか見えない。
「あっちは?」
「イベント広場があるよ」
「へえ。そういえば二年前の現場ってどの辺?」
かつてこの近辺で事件が起きた。東京でも報道された。知っている場所だけに、ハジメ一家は驚いたものだ。実際に訪れると、穏やかな田園風景が広がるだけだ。
「ただの林だよ」
玲市は明言を避けた。声も表情も変化はない。しかし地元の事件だ。余計な説明はしにくいかもしれない。それが分からないほどハジメも幼くはなかった。
それはさておき自分のタスクを確認だ。
「一日に一回、今みたいに弁当を届ければいいんだな? それはゼロが用意する、と」
「うん。クーラーボックスは入れ替えで」
「了解。あとはあの! バケツか~。任せろよ。どうせ部屋に行くんだし」
「ありがとう。でも放っておいていいよ。僕が病院関係の事を済ませるまで頼むね。一週間くらいかな。あ、うちに泊まるよね。車はすぐそこだから」
ハジメの背中がもじもじした。
「トイレ行ってくる。さすがにあそこじゃさぁ」
玲市が指さすまでもなかった。すぐそばに観光協会の建物がある。現代のトイレがあるはずだ。涼を求めてハジメは自動ドアを抜けた。汗のせいで急速冷却だ。下腹部の欲求とあいまってぶるぶる震えながら清潔なその場に急いだ。
ほっとして出て来ると、屋内を見渡す余裕ができた。大きな県の全体図が貼られているすぐ下に、名所のパンフレットが様々置かれている。どこにでもある観光地の様子だ。キャッチコピーが並ぶ。
『日本随一! 石造りの屋根付き橋』
『温泉万歳 物問温泉』
『匠の邑 ふるさと体験』
『ご当地の画家 馬瀬公俊の世界』
チラシの一つに目が行った。ポップな色彩だ。物問橋を中心に描かれた地元の手書き地図だ。作成者の名前は馬瀬玲子。さすがは地元画家の娘というべきか、デザイナー的な事もしているようだ。
それによるといろいろと観光する場所はありそうだ。
第一はやはり現在地の物問橋のようだ。
屋根付きの橋なら国内外に幾つもある。有名なところではローマのベッキオ橋、日本では木製の愛媛の田丸橋だ。しかしどれも物問橋には似ていない。敢えて言うなら万里の長城か。
物問川流域の景色を好んで描いたのが馬瀬公俊だ。祖父の絵のレプリカもあちこちに飾られているし、土産物屋では絵葉書として売られている。孫としては誇らしい。ただ生まれ故郷を愛しすぎて今では住み着いてしまったようだ。大きなポスターに絵の題名が小さく印字されている。
(爺ちゃんすげえよな)
馬瀬岳と物問橋だ。題名は『馬背春衣』。山が春の衣装をまとう、つまりは春の景色だが瀬の字が地名と違う。
(ん? 背中? まさか誤字じゃないよな)
掲示物に集中していて、背後に近づく人影に気が付かなかった。
「ゼロちゃ~ん!」
トライアングルを叩きならすような声だ。自分に呼びかけられたとは思わず、反応が遅れた。どん、と腰に衝撃。
「おわ」
背の低い方ではないのだが、それでも数歩前に進む勢いだった。
「無視すんなぁ!」
再度の声に振り替えると、若い女性が目を見開いて立っていた。ハジメの胸くらいの身長だ。おそらく全身で襲い掛かられたのだろう。同世代のようだが女性の年齢はわからない。紺色のベストとボックススカート。胸には名札。『馬瀬羽舞』とあった。彼女は口をぽかんと開け、それからばね仕掛けのように数回小さく飛び跳ねた。
「やだっ、うーちゃん間違えたっ」
成人女性、しかも制服姿で自分を愛称呼び。すぐに反応ができない。驚くととっさに対応が取れないものだ。羽舞は握りしめた両手を胸の前でそろえた。
「知り合いかなって思ったの。後ろ姿がそっくり~」
ようやくハジメが再起動した。
「いやいやいや。よくいる男だからね」
彼女はしげしげとハジメの顔を見上げた。
「やっぱり似てる感じ? 斜め後ろから見た時、本当にねぇ」
「正面からも見てね。もしかしてゼ...馬瀬玲市と間違えた?」
え、と彼女の丸い目がさらに大きくなった。零れ落ちそうだ。
「俺はイトコなんだよね。年も大して違わないし。え~と、あれ? 馬瀬って」
もしやまだ見知らぬ親戚? 失礼にならないように胸元の名札は注視しない。
「は~い、馬瀬羽舞ですぅ。この辺に多い苗字だし? ゼロくんとは中学まで同級生。別に夫婦とかじゃないし~」
話題の玲市が入って来た。二人を交互に見やる。
「ああ、うーちゃん。どうかした?」
「あっゼロちゃん~。人違いしちゃったの。なんか似てるよねっ」
彼女もまた男性二人を見比べた。玲市が答える。
「イトコだよ」
「聞いたよん。違う顔だね」
当然二人は違う顔。ハジメと玲市は口にはしなかったが同時に思った。体格も似ているが肌の色は玲市の方が少し白い。そしてハジメは明るい茶色に染めた髪だ。
羽舞は胸の前で手を叩いた。笑みがほころぶ。丸い頬がさらに丸くなり、赤みを帯びた。
「イトコちゃんもここに住むの? 上の人が言ってるよ。いつまで住んでるんだって」
公俊が二人の祖父だと知っての発言だろう。嫌味に聞こえなくもないが羽舞に悪気はなさそうだ。
「いくら有名人でもさぁそろそろ利用を控えてもらえないかなって。許可してない人も居つくようになったでしょ。また増やしちゃうんだ~」
「ハジメは住まないよ」
「ハジメくん? やっぱり苗字はゼロちゃんと同じなの?」
ハジメは首を振った。もう定番の自己紹介がある。
「ううん。酒居だよ。名前は数字の一でハジメ。酒が居るのが一番! って名前なんだ」
「わ~超うける~。観光で来たの?」
「まあね」
羽舞はもう少しじゃれたいようだ。それでそれで、と話を続けようとする。しかし、じゃあねと手を振って二人は外に出た。車内は相変わらず熱気がこもる。少し寄り道をして食材を買いこんだ。家に着く頃には涼しい風が吹き始めた。店には寄らずに住居部の二階に外階段を使える。階段はさらに三階へ続く。
「三階はアパート。人に貸してるんだ」
扉を開けるとほのかに懐かしいような匂いがした。小学校の美術室や工作室のようだ。
「鍵だよ。ここを使って。しばらく爺ちゃんが同居してたんだ。電気もガスも普通に使えるよ。一階にも部屋があるから僕はそっちに居るね」
「別々かい。寂しいっ」
「添い寝が必要な年でもないよね」
それでも晩御飯は一緒に、とハジメは一階についてきた。店の横に勝手口があった。窓を開けて扇風機を回す。真っ暗な店は間仕切りで隠されている。居住区は小さな台所と和室が二つ。それと風呂など水回り。奥の部屋には畳の上に小さな仏壇がある。花が両脇に供えられ、位牌は四つだ。
玲市が台所に立った。
「作り置きの物でいいかな」
「もちろん。洗い物は俺が...って、新婚さんみたい」
くくっ、と玲市が喉で笑った。
「可愛い子がいいな」
「これだけ可憐でどこが不満なの」
「お互いその気がないところかな」
後ろ姿を横目に、ハジメは仏壇の前に座った。線香に火をつけて手を合わせる。置いてある写真はそれぞれ一人ずつだ。白髪で名前の通りに微笑む公俊の妻春枝。唇を引き締めた玲市の父市郎。玲市の妹萌香はまだ目もろくに開いていない。そして玲市の兄『玲市』。誕生日を祝うプレートが乗ったケーキの前で笑っている。ろうそくは二本だ。皿のこすれる音だけがする中、白い靄がたゆたう。少し外は黄昏てきたようだ。ハジメは立ち上がってグレイのカーテンを閉めた。
振り返ると玲市は冷蔵庫を覗いている。扉にはよくあるような張り紙は何もない。壁もあっさりしたものだ。カレンダーや時計すら見当たらない。箪笥が一つだけだ。扉を開けたばかりの旅館よりなおすっきりしている。何かの設置跡だろう、畳の色が違う場所もあった。
「テレビないの?」
「ないよ。あ、ちゃぶ台出してくれる? 押し入れにあるんだ」
おう、と白茶けた紙のふすまを開ける。こちらも宿泊施設の押し入れのようだ。上段には夜具が幾つかきちんと畳まれているだけだ。隙間だらけの下段には掃除機と折り畳み式のちゃぶ台があった。昭和のホームドラマで見かける茶色の丸いものだ。脚を引き出して広げて肘をついた。
(ここってこんなんだったっけ?)
小学生の時に公俊を訪ねて来た記憶はある。その時祖父はもっと山に近い場所に住んでいた。そちらに泊めてもらったのだ。春枝もまだ元気だった。ここにも遊びに来たはずだ。しかしもっと生活の匂いに溢れていたような気がする。
(まるで引っ越し間近みたいだな)
かちゃ。皿が二つ目の前に置かれた。米もおかずも一緒に盛るカフェスタイルだ。中華総菜がメインで美味しそうだ。それと麦茶のコップ。
「そういえばさ。馬瀬って馬の背中なのか? あ、ほら観光協会のポスターが馬の背の春って」
「爺ちゃんの絵かな? いつも題名はそっちを使うんだ。昔の地名だよ。本来は馬の背で『ませ』だってさ」
尖った稜線が続く馬瀬岳だ。雨や雪が左右に振れる感じが馬の背を分けるように映ったのが由来らしい。表記が変わったのは明治だが理由ははっきりしていない。
生まれも育ちも東京のハジメは、ふんふんと父の出身地の歴史を聞くばかりだった。
「ハジメは絵を描いてる?」
「まさか! やってるのは弟だよ。俺はサッカーが面白くてさ、そもそも描いてない」
「あれ? 上手いと思ってたよ」
祖父の遺伝子のおかげか。学年に一人はいるであろう別格と言えるほど絵の上手い子供。ハジメもその部類だったものの、美術にあまり興味がなかった。むしろ外で遊ぶ方が楽しかった。小学校の高学年からはサッカーに熱中した。高校の授業で水彩画を描いたのが最後だし、大学は商学部だ。
「ゼロは?」
「描いてないよ」
また話が途切れる。
「どうして爺ちゃんは橋に居ついちゃったんだ?」
「気に入ったようだね。何年も前からスケッチには行ってたんだよ」
もちろん観光協会の許可を得て、屋内や窓から見える風景を写生するために室内に入っていた。筆が躍ると泊まりになってしまうがお咎めはなかった。それでも基本は日帰りだった。変わったのは二年前の春枝の逝去だ。公俊はずっと橋に居る。足腰が弱った今では、自力で帰宅するのは難しいだろう。
公俊の後に続いて何人かが滞在した。彼らは芸術家だし数日で帰宅したので観光協会から退去要請は出なかった。
しかし先ほどの羽舞は出て行って欲しそうだった。ハジメの頭に赤い面が浮かんだ。
「猿も芸術家なんだろうな?」
「さてね。猿は猿だよ」
「はあ?」
ごちそうさま、と空いた皿を流しに下げる。宣言通りに洗うつもりだ。湯沸かし器は壁についている古いタイプのガス式だ。小さな流しの横の床にビニール袋が転がっている。覗いているのは複数の紙袋だ。病院と薬の印字、そして玲子の名前。
「ゼロ、これ伯母さんの薬? こんな所に」
「いいんだ」
口調はいつも通りなのに、初めてかぶせるような言い方をした。
「入院先で違う薬を出してくれるから。もう要らない」
そしてさっさとちゃぶ台を畳んでいる。
「ハジメ、ありがとう」
「皿くらいなら何枚でも洗うよ? 得意よ?」
「線香だよ」
「ああ...いや...。あ、そうそう」
こういう場合、どう応えれば正解なのか迷う。もともと食器は少ない。もう終わりだ。幸いにも差し当たりの用事を思い出した。置きっぱなしのボディバックから封筒を引っ張り出した。お見舞いののし付きだ。
「親から。伯母さんにお見舞い」
「ありがとう。僕からも渡さなきゃ」
玲市は封筒を箪笥にしまった。そして入れ違いに自分も白い封筒を取り出す。あて名書きはない。
「お礼だよ。母さんから渡してくれって」
ハジメは首を振った。
「もうおふくろから幾らか預かってるんだ。むしろこっちから滞在費を渡すくらいだとさ。店も休業するんだろう? 受け取れないよ」
二人の間で封筒が揺れている。ハジメはひらひら手を振った。
「それじゃ相殺。あげた、もらった、差し引きゼロってどう? ゼロちゃんだけに」
「それはいいね」
玲市は素直に引いた。
ふと沈黙が部屋を満たす。灰がくずれる音さえ聞こえそうな部屋だ。自分の家庭の様相とつい比べていた。健康な両親と仲良しのきょうだい。賑やかな会話。片や洗い物が済めばもうやることはない。玲市にしてもそうだ。一日の作業が終われば話し相手もなくただ一人。
不意に店から男性らしき声がした。だみ声で雑音だらけだ。
『本日の事故は国道の...』
一瞬、肩がびくっと上がってしまった。
「あ、防災無線の定時連絡。店に引いてるんだよ」
事故や天気の急変など知らせる放送だ。かつては農協のお知らせなどもあった関係で、この地域ではまだ一般家庭でも残っている事がある。
座って黙り込んだハジメに、手持無沙汰で退屈なのかと玲市が少し勘違いしたようだ。
「テレビは二階にはあるよ。僕は明日の用意をするからそっちで休んで。どこを使ってもいいよ」
「ああ...うん」
弁当の仕込みや病院へ寄る支度もあるだろう。作業の邪魔になるならいない方がいいのか。何も言えずに立ち上がった。
「何時にこっちに来ればいい?」
「そうだね...暑くなりそうだし...。配食は二回にした方がいいかな。バイク使ってくれる? 観光客用の駐車場は今日のところだよ。お金はかからないんだ」
それから簡単に時間の打ち合わせをしてキーを受け取った。
部屋を出ようとするハジメの後ろ姿に玲市が声をかけた。
「御霊流しまでいる?」
ミタマナガシ? さて何だっけ。はてなマークが頭に浮かぶ。それでもハジメはにっこり頷いた。
「いようかな」
外階段に出ると夜風が通り抜けた。薄い上着が必要なほどの涼が肌を撫でる。ここからは馬瀬の山々は見えなかった。
二階はアトリエも兼ねていたようだ。やたら広い部屋の木の床はなすられた絵の具で色とりどりだ。壁際に数枚のカンバスが立てかけられている。描きかけのままだ。この部屋にあるのはそれだけだった。クローゼットには何か入っているかもしれない。カーテンは一階と同じどこかくすんだ色で、裾に絵の具が飛び散っているのが違いだ。水回りと寝室が二つとゆったりした面積のリビング。ソファセットとテレビもある。
どこを使ってもいいと言われたものの、あちこちを開いて歩く悪趣味はない。親戚とはいえよその家だ。
リビングの掃き出し窓を開けた。ベランダに出られる。開け放して寝たら風邪をひきそうな冷気だ。黒い山蔭が近い。足元が少し明るい。階下で料理をしているのだろう。何かを炒める音とごま油の香りが漂う。
(テレビを観るのもなあ...)
ソファに寝転んだ。肘掛のないタイプだ。座面はふっくらと体を包んでくれる。
(ここで寝ようかな)
たかだか一週間程度だ。この時は呑気に思っていた。
読んでいただいてありがとうございます。
アルファポリス同時掲載です。
以前に紙媒体のサークル誌にて公開した作品の前日譚になります。が、この一作だけでも完結するように書きました。
ちなみに「物問川居座り紀行」と「物問橋奇譚」です。それぞれ世界観が違う為に続けて読むと違和感があると思いますし、諸事情によりWEB掲載の予定は今のところありません。読者は30名ほどだったかなあ。その方々の目に留まる確率は大変低いながら、この小ネタを書かせていただきました。作者個人の感傷ですね。