捨てる親あれば拾う神あり
不衛生で不健康。この部屋を説明するのであればそのふたつの言葉が適切と言える。
もう何ヶ月も換気されず留まり続けたどんよりとした湿った空気と、乾いたクリック音、それからキーボードを叩く音。床にはいつからあるのか分からない変色したペットボトルに脂ぎったスナック菓子のゴミ。
部屋の主は正しく、部屋に見合うような不衛生な男だった。ぎとついた黒髪にくたびれたシャツ。来客など来るはずがないせいで下着姿でゲーミングチェアに胡座をかいている。
ベッドの上で横になることも少ないのだろう。洗濯したものなのか、それとも洗濯する前のものなのかも分からない衣類が山を作っている。
「っしゃ、首位でゴール」
不衛生の権化であるこの男はそう言葉をこぼしてぐっと両腕を天井に向け、だらしなく丸まっていた背筋を漸く伸ばす。薄暗い部屋で唯一煌々とひかるモニターはゲーム内のイベントの終了を知らせていた。
ランキング一位の部分には彼のハンドルネームと、本人とは似ても似つかぬ美少女のアバターの顔がアップになっている。
「さて、シャワーあびて……飯にするか」
応答するものはいないし、普段の彼であればそんな独り言は言わない。しかし今日は気分が良かった。彼にとって一位というのは久しぶりの栄光だった。
この不衛生な男、色無博架はかつて神童と呼ばれていた。ずば抜けた記憶力を持ち、地元新聞に天才小学生などと書かれたことだってあった。それが今や、この有様。
大学を卒業し就職したがすぐに退職。その後は定職にもつかず、人間としての最低限の暮らしというラインを超えているかどうかも怪しいような衣食。自分の部屋から出るのは親が不在にしている時だけ。一日中パソコンのモニターを見つめ過ごす毎日。
神童は、凡人に。否、それ以下に堕ちたと言っても言うほうが正しいだろう。
そんな彼が奪取したのは週間一位という順位。たかがゲーム内であろうと、一週間という単位であろうと、一位は一位。
幼い頃は嫌という程取り続け、忌み嫌っていた一位も、取れなくなってから取る一位というのはやはり、博架が無意識のうちに言葉を発する程度には気分が良いものだった。
何日かぶりにシャワーを浴びる。何時間、何十時間と座りっぱなしだったせいで固まった身体の筋肉が解けるようだった。皮脂を丁寧に洗い流せば黒髪に自然な艶と柔らかさが戻る。ひとつの欲求が満ちると次を欲しがるのが人の性というものらしく、浴室を出る頃には本格的に腹が減っていた。
「ん……?」
キッチンに向かおうとしたところ、家族以外の声がリビングから聞こえることに気付き、自然と眉間に皺が寄った。
シャワーを浴びる前には気が付かなかったが、どうやら来客がいるらしい。こぼれそうになったため息を飲み込んだ。この男、博架はここ二年ほど家族以外と会話をしていない。とはいえ家族とのやりとりも会話と呼ぶには烏滸がましいレベルだが。
仕方がなく部屋に戻ろうとした時、リビングの扉が開いた。つい振り返るとそこには小柄な少女がいた。表情から滲み出る自信と自己肯定感に吐き気がする。それが元神童である博架から彼女へ向けた第一印象だった。そんな彼女が胡散臭い笑顔を浮かべる。
「えーと、色無博架さん、だっけ」
「…あ?」
「君が齧ってる親のスネ、もう皮も肉もなくなっちゃったみたいでね?もう君のこと養えないんだって」
リビングにいる母親に視線をやるが背を向けたまま微動だにせず、突然現れた彼女の言葉を否定する素振りもまったくなかった。
「健康で居なくなっても後腐れのない成人が欲しかったところなんだよね。だから君を譲り受けに来たの。あ、もちろん衣食住は保証するよ」
何を言っているんだ、このガキは。
言動も然ることながら日本人離れした金瞳の見透かしたような視線が不愉快で仕方がない。こんな子供に自分の身柄が譲られたなど嘘のような言葉だが、妙に説得力がある。それは彼自身に身に覚えがあるせいか、それとも彼女の話術のせいか。
「……俺は家から出ねぇぞ」
「あはは、残念だけどここはもう君の家じゃない。……さ、無理矢理運ばれたくなければ着いておいで」
「ハッ、無理矢理運ぶ?お前が?そのちっこい身体で?」
恐らく自分よりひと回りほど歳下であり、身体も20cmほど小さいであろう女に投げられた言葉を鼻で笑い飛ばす。途端、ひくりと彼女の片眉が上がった。
「…確かに肉体労働は私の管轄外。だけどアンタ一人をオネンネさせるくらいなら余裕だよ、神童クン」
先程まで浮かんでいた胡散臭い笑顔は既に無い。吊り上がった口角も、細められたアーモンドアイも。人並外れた傲慢さが滲み出ているようで、博架の背筋に冷たいものが走った。
ひどく緩慢な動きで少女の腕が持ち上がる。ただの細腕だ。何かを持っている様子もなく、隠しているようにも見えない。だというのに。頭の中の説明の出来ない部分――おそらく、本能。本能が逃げろと警告している。が、非力と馬鹿にした小さな少女から逃げ出すことは彼のちっぽけなプライドが許さなかった。
彼女の人差し指の先が男に触れたその刹那。バチンッ、という大きな音と青白い閃光が弾ける。それとともに博架の意識が途切れた。
「それじゃ、彼はうちでお預かり致します」
「本当に、どうか、どうかよろしくお願い致します」
博架が倒れたのを目視してから少女は彼の母親に向き直る。
すると、ずっと息子に背中を向けていた母親がやっと振り向く。この生意気な男のくせ毛は、母親に似たのだろう。
床に伸びている男を外へ運び出すようにリビングの奥で待機していた大柄な男に指示しつつ、少女、瀬戸天音は溢れかけたため息を飲み込んだ。
涙ながらに何度も何度も深く頭を下げるこの女の考えていることが、天音にはまるで理解が出来ない。息子を得体の知れぬ私たちに任せることがそんなに悲しいのならば、そんなに苦しいのならば。出来ることなんて幾らでもあっただろうに。どんな経緯であれ、それを放棄し、我々から多額の金を受け取っておきながらこの女はまるで被害者のような顔をしている。
私に息子が気絶させられたこの状況でさえ彼の安否を問い詰めるようなこともせずただ泣いているのだ。面倒なやりとりが不要なのは有難いものの、どうにも釈然としない。
まぁ、家庭のことだ。外から口を出すことでもないし、もう二度と会うこともない。
そう思い直せばこれ以上考えることはやめ、博架が家から運び出されたのを確認し、玄関まで着いてくる彼女を適当にあしらう。
家の前に停められた車の後部座席に乗り込めば、その横に先程自分が気絶させた男が座らされていた。ご丁寧にきちんとシートベルトをされている。
走り出した車に向けて母親が頭を下げているのを見て、先程飲み込んだ溜息をようやく吐き出した。