海陵王による一族皆殺し
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻八十二 列伝二十の僕散渾坦伝を見てみましょう。
僕散渾坦は蒲与路の挾懣の人である。身長は七尺で勇猛にして力あり、騎射を得意とした。十六歳のときに、父の胡没速の遠征に従った。初めに修武校尉の地位に就いて、宗弼の部下となった。
天眷二年(1139)、宋の岳飛と戦った。僕散渾坦は六十騎を率い、敵領深くまで偵察に出かけ、鄢陵に至ると、宋の兵糧輸送の兵七百人あまりを破り、多くを捕虜とした。
皇統九年(1149)に慈州刺史となり、利渉軍節度使に昇進して、世襲の済州和術海鸞猛安と渉里斡設の謀克を賜った。貞元の初めに父の喪に服すため職を辞し、復職して泰寧軍と永定軍の節度使を歴任し、咸平尹に改められた。
僕散渾坦の弟で枢密使の僕散師恭を海陵王が殺すと、僕散渾坦は南京に召された。拝謁すると、海陵王はしばらく考え込んでから、こう言った。
「汝にはこれまで功労があり、僕散師恭とは関係無く官職を得た。連座させるにはあまりにも不憫だ。」
こうして連座を免れ、後に興平軍節度使に改められた。
僕散師恭はwikipediaにもあるように、『金史』巻百三十二 列伝七十の僕散師恭伝に「族滅」(一族皆殺し)と書かれているのですが、兄が官職に留まって「一族皆殺し」なのでしょうか。
『元好問全集』に残る、賈益謙の発言の一部にこうあります。
「海陵王が殺されて、世宗の治世の三十年間、翰林院などの文臣で海陵王の隠れた罪を暴く者が良い官位を得た。史官たちはこのため海陵王が姦淫残虐で凶暴であると誣告し、悪名を伝えること極まりなかった。今これを見ると、百のうち一つでも信じられるだろうか。」
(この箇所の訳は髙橋幸吉氏の『元好問の国史院辞職』から)
また元代の『滋溪文稿』の巻第二十五の「三史質疑」にはこうあります。
「海陵王が殺されると、諸公は世宗を擁立して、海陵王を極力誹謗したため、書かれていることの多くは醜悪である。」
「金が滅ぶと、元帥の張柔が金の史書を收拾して北に帰り、中統の初めにこれが史院に送られた。当時既に『太宗実録』と『熙宗実録』が失われていた。まして南遷時には『章宗実録』が残っているはずも無く、まして『海陵実録』が残されるはずもなかった。」
『金史』巻七十九 列伝十七の施宜生伝には、施宜生は「宋への使者となって機密を漏らしたため、正隆四年(1159)に煮殺された。」と記されていますが、これについて『滋溪文稿』「三史質疑」にはにはこうあります。
「施宜生は帰国後、闢離剌が宋で不遜な態度を取ったことを直ちに報告しなかったため、杖刑に処された。五年(1160)に翰林学士となり、翌年に風邪となった。大定二年(1162)に致仕し、三年六月に七十三歳で亡くなった。
これが『世宗実録』と蔡珪の『宜生行状』から分かることである。しかし岳珂の『桯史』には、宋侵攻の準備をしていることを漏らしたため帰国後に殺されたとある。
また「海陵王が死ぬと、后の徒単氏も殺された」とあるが、『世宗実録』には、徒単氏が大定十二年になって死んだとある。
これらは小説・伝聞であり、修史者は鵜呑みにしてはならない。」
元代には残っていた確かな記録である『世宗実録』も「宜生行状」も既に失われた一方、『金史』とその情報源となった『桯史』が残っているのが現状で、海陵王の残虐性と言われるのは、このような与太話の類なのでしょう。その他の人々も、惨殺されたかどうか以前に、本当に海陵王の時代に死んだのかすら、確かではありません。