わるいまほう
「私もうこうちゃんの魔法にはかかりたくない」
親友が死んだ。
高校生の頃から2人でよく通った古びた喫茶店で、親友が愛する彼氏を振って死んだ。
「この世界の中で私が一番かわいいって言ってくれるの」
社会人になっても、日曜は決まって親友と過ごした。よく喫茶店へ行った。客はいつも少なかった。親友に彼氏ができた。惚気話をよく聞かされた。
「それどうしたの?」
「あーこれ?転けて怪我したの」
右頬に絆創膏。並べて2枚。手に怪我はなかった。不審に思ったけど、それほど深くは考えなかった。
親友はその後会う度に元気をなくしていった。
惚気話もなくなった。
右耳に傷。目の上が腫れる。クリームソーダのグラスを掴む手が震える。服の隙間から腕にあざのようなものが見える。
なんだか悪い予感がした。
「...ねえ、それ__ 」
「そろそろ、帰るね」
そう言って親友は鞄を弄って財布から千円札を取り出して机に置いた。あんなに丁寧に手入れしていたはずの爪はネイルが一部取れている。
「またね」
親友は徐に立ち上がる。
親友が向かおうとする扉の向こうに、黒い渦のようなものが見えて、この機会を逃せばもう終わりのような、そんな気がした。
悪い想像が頭の中を駆け巡って、気づいたときには親友の腕を強く掴んでいた。
「いたっ」
苦痛に顔を歪めた親友の顔を見て、はっとなって手を離した。それから親友がどこかへ行ってしまわないようにそっと手を握った。
それから親友の名前を呼んだ。目を見つめた。
「これ、なに?」
「...」
親友は怯えたように俯いたまま何も言わなかった。
「会う度に増えてる」
「それは...」
言葉に詰まりほんの少し目が泳ぐ。
親友を胸に引き寄せて包み込むように優しく抱きしめた。それから、目を見つめ直した。
「私が今から言うこと信じてくれる?」
親友は首を縦にも横にも振らなかった。
「私の、直感で言うとね、今、魔法にかけられてるの。それはとっても悪い魔法で人を、痛めつけるようなもの。騙されて、信じてしまうもの。」
視界が少しだけぼやけてくる。
「だれに?」
親友がゆっくりと顔を上げる。目と目が合う。
左目の上に治りかけの切り傷。このとき初めて気がついて、今までの自分の無関心さにひどく嫌気がさした。ぼやけていても見えたのに。ああ、もっと早くちゃんと、
「...彼に」
「これから私が言うこと信じてくれる?」
親友がゆっくりと頷いた。
「いい?すぐ別れて。離れて、連絡も取らないで。相手はきっとまた魔法をかけようとする。しばらくは私の家にいていいから。怖いなら、難しいなら別れ話は私がする。けりが付いたら、もう会わないで。」
「...私、ほんとは気づいてた」
「え?」
「こうちゃんね、私を愛してくれるの。いつも私が世界一だって言ってくれる。
ちょっと怒られることもあるけど、それは私が悪いことしたからで、全部私のせい。
そんなときはもうこうちゃんに嫌われちゃったかなって思うんだけどね、やっぱり優しいの。」
「...だから」
「だからね、ありがとう、背中押してくれて。私が本当に大切にしなきゃいけないのは」
視界がスローモーションのように揺れて、親友が私を抱き寄せた。潤む瞳から一滴、頬を涙が伝う。
「私もうこうちゃんの魔法にはかかりたくない」
「私一人でけじめつけるね」
親友が死んだ。高校生の頃から2人でよく通った古びた喫茶店で、親友が愛する彼氏を振って死んだ。
あの黒い渦のようなものが視界に入った瞬間を何度も思い出す。まだ、まだ消えてなかったんだ。あの腕のあざも左目の上の切り傷も、悪い魔法の残り香だった。まだ、離しちゃいけなかった。
茹だる夏の日、私は別の喫茶店にいた。
やけに日が強く射す窓側の席に案内され、2つのクリームソーダを目の前にただ虚空を見つめていた。
氷がカラッと音を立てて結露がグラスを伝う。
心はすっかり渇き切っていた。
日差しの強さに顔をしかめて、窓の外を見る。陽炎がアスファルトに揺れて暑さが差して肌にまとわりつくのに、体は冷え切っていた。
氷が徐々に溶けて緑色の液体が色を失っていく。
ふと動かした視線の先に、扉の先に、うっすらと黒い渦が姿を現した。
私は何かを考える余裕もないまま、クリームソーダを一口も飲まずに席を後にした。
お読みいただきありがとうございます。
親友はなぜ死んだのか、他殺なのか自殺なのか、黒い渦とは何なのか、解釈自由にお読みいただくと楽しめるかと思います。